第六話 諸国行脚『甲斐の忍群』
永禄3年 (1560年)6月中旬 甲斐甲府城下
藤林疾風
甲斐の武田家には、二つの忍び集団がある。
『三ツ者』と『歩き巫女』である。
武田信玄は、甲賀者や信濃出自の甲斐では
そして出家、町人、百姓などからも抜擢して、『三ツ者』と名付けた。
名前の由来は、間見(間者)、見方(偵察)、目付(監視)の三職を担った者達の総称から来ている。
『歩き巫女』は、女性の忍び集団で、頭領は巫女頭の望月千代女という。
千代女は、甲賀望月家の血筋で忍術を心得ていて「甲斐信濃巫女修練道場」を開いて『歩き巫女』を組織した。
道場には、戦災孤児、捨て子、迷い子の中から、美しい女の子を買い取り、拾い、誘拐して集めたと言われている。
巫女は神社の神職なので民から崇められる存在であり、関所の通行が許されたことから間者として活用された。
巫女達は、白衣の装束に紺の風呂敷を背負って、白木の梓弓を携えて全国の祭りや市を流れ歩き、
駿河から富士川沿いの街道を経て、甲斐の城下に入る。城はなくて館だが。
北条領も街道が整備されていたが、甲斐も伝馬制という早馬のための直線道路『棒道』があり道がいい。
「若旦那。甲斐も中々良い道ですが関所での詮議が、ずいぶん厳しいですね。
それに日に何度も早馬が駆けて、いささか騒がしいですね。」
「戦でもあるんだろうよ。今川家が織田家に負けたからな。上杉家が動いているのかも知れん。」
「それにしても、道中、ずいぶんと歩き巫女様に会いましたね。甲斐には、巫女様の本山でもあるのでしょうか。」
「ちょいとっ、そこの若旦那っ。」
見ると人の良さげな町人の格好をした小男が、声を掛けて来た。
「甲斐は初めですかい。あっしがご案内しやすよ。なに、ちょいとばかり心付けをいただけりゃいいんで。なにせ文無しなんでさぁ。
助けると思ってお願いしやすよっ。」
「なぜ俺達なんだい。見てのとおり、俺達は商人で、あんたがいると商売のじゃまにしかならないと思うがね。」
「そんなこと言わないでくだせぇよ。甲斐に来たからには、善光寺。善光寺をお参りになってくださいましよ。あっしがご案内しやすからっ。」
( 風体は町人崩れ。どこにもお調子者がいるものだな。せっかくだから乗ってやるか。)
「名前は、なんて言うんだ。」
「こりゃ失礼しやした。金次つうけちな野郎でござんす。」
「う〜ん腹が減ったな。どこか一膳飯屋でもないか。案内してくれたら金次にも喰わしてやるぞ。」
「そうこなくっちゃ、七屋つう飯屋がありやす。ご案内いたしやすよ、こっちでやす。」
七屋で昼飯を食べたが、白米はなく、あるのは『麦飯と蕎麦がき』だけで、甲斐の貧しさを痛感した。
七屋を出て善光寺へ向かう途中で、ニ軒程商家に立寄って、鉄製の鋤や鍬の商談を持ち掛けたが、とても農民達が買う値ではないと纏まらなかった。やはり甲斐は貧しいのか。
金次の案内で甲斐善光寺へ行く。甲斐の善光寺は信玄が戦災からご本尊を守るために、信濃の善光寺から移したものだ。
元寺の信濃善光寺には広大な寺域があり、他にはない存在感があって寺院としては非常に珍しいが、どの宗派にも属していない。
だが、甲斐の善光寺は浄土宗である。
善光寺が高名なのは『絶対秘仏』と伝わる日本最古の本堂に祀られている阿弥陀如来像である。この時期、ご本尊は甲斐善光寺に移されていたのだ。
善光寺の本堂をお参りした帰りの参道で、伴を連れた隻眼の武士とすれ違った。
俺達は軽く会釈しながら通り過ぎようとしたが、その武士が金次に声を掛けて来た。
「金次ではないか。しばらく顔を見なんだが、どこぞへ行っておったのか。」
「これは、山本様。ちょいと駿河まで出向いておりやした。
戦だっていうんでね、馬を仕入れて売って来やしたんですが、買ってくれたお侍様が、お討ち死になさっちまって、代金が半分しか受け取れなくて、酷い目に遭っちまいやしたよ。」
「いつもは、抜け目のないお前にしては抜かったの。ところで、連れのお人は旅の商人であるか。」
「へぇ、伊勢から見えられた商人さんでござんす。」
「ほう。良ければ今夜、儂の屋敷に来ぬか。旅の話が聞きたい、少しは物を買うてやっても良いぞ。」
「若旦那。こちらは武田様ご家中の山本勘助様にござんす。お聞きのとおりのお誘いですが、お受けしてもらえねぇでしょうか。
山本様には、以前あっしがえらくお世話になったもんで。」
「これは。伊勢の商人 八兵衛と申します。
大した話はできませぬが、商いの品をお買いくださるのであれば、願ってもないこと。
お招きに
「そうか、楽しみにしておるぞっ。」
【 軍師 山本勘助 】
武田信玄の軍師として有名な山本勘助は、三河の出で20を越えてから、10年余関東以西の諸国修行の旅を経て、武田家に仕官したと伝わる。
その修行の成果は、戸石城攻防戦で村上の後詰めを50騎の騎馬隊で陽動し、武田軍惨敗の危機を救い、海津城など数々の城を築城し「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれ、また、勘助の献策により甲斐の分国法「甲州法度之次第」が制定されている。
第四次川中島の戦では『啄木鳥の戦法』での失敗の責めを負い、敵陣に向って討ち死にした。
当て推量なことを「
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