第三話 今川を迎え撃つ尾張の日々 その2
永禄3年 (1560年)4月下旬 尾張国清須城
藤林疾風
清須城を訪れたその夜から、逗留することになってしまったが、上げ膳据え膳でただ部屋に閉じこもるのも耐え難い。
「八兵衛様、厄介なことになりましたね。」
「成り行きだからな、仕方ない。織田信長公の傍らで、戦を見るのも一興かも知れん。
なにせ、戦の最中の大将の顔色を見られる機会など、早々あるもんじゃない。
それに旅費の宿代が浮いたと思えば、儲けものじゃないか。」
「そんな暢気な話でございますかね。繋ぎはどうされるのです?」
「佐助に任せるよ。なるべく繋ぎは取らないようにした方がいいな。怪しまれるから。」
次の日からは、日中の出入り自由とされ、一人の世話役、兼監視役の毛利良勝(通称新介)という、馬廻衆を付けられた。
(えっこの人。今川義元を討ち取った人じゃないの?)
「新介殿、申し訳ありまぬ。たかが商人風情の警護などを、させてしまって。」
「なんの、お気になされるな。八兵衛殿は、殿の客人。ましてや、殿が楽しげに話される相手など、お方様以外には見当たりませぬ。
殿のお心を、慰めくださる八兵衛殿には、感謝の気持ちしかありませぬ。」
「新介殿は馬廻りなので、相当な武芸者なのでしょうね。」
「なんの。殿のお傍で警護するだけで、未だ大将首や武将首を取ったことがありませぬ。はははっ。」
「俺は商人なので戦のことはわかりませんが大将の鎧は見たことがあります。
大将の鎧は普通の鎧よりも厚手に作られており、飾りも付いて槍のじゃまをしますが、脇の下だけは、護られておりませぬ。
動きを損なわぬよう、広く開けてあるのです。腕を振り上げた時、そこを狙うのが肝要です。」
「おおぅ、良い話を聞かせていただいた。次の戦では、大将首を挙げて見せましょうぞ。はははっ。」
俺達は出入り自由とされた日中に、この時とばかりに、日帰りで那古野や岩倉まで足を延ばし、商談に明け暮れた。
夜は毎晩、俺達の夕餉の席に信長公が来て伊勢の開発や伊賀の発明品の話をする。
史実で知る信長公は寡黙な人物のはずだが目にした本人は打ち解けると意外に雄弁な男だった。
家来達の前で寡黙に振る舞うのは、心を読まれないようにする処世術なのだろう。
そう言えば、油断したよ、油断。すっかり俺も信長と意気投合して、いろいろと対今川の戦略を語り合ってしまった。
まったく、うっかり八兵衛だよ。(笑)
そんな日々を過ごしているうちに今川義元が上洛の兵を上げ、沓掛城へ入ったとの報告が届いた。
今川軍の橋頭堡である大高城を取り囲む、織田家の5つの砦のうち、大高城に最も近い向山砦の水野信元が今川方に寝返っている。
今川方は、大高城に兵糧を運び入れようとしている。これを担っているのは松平元康の三河の兵だ。
今川義元が沓掛城に入って5日目、ついに今川軍の攻撃が始まり、氷上砦と正光寺砦が落ち、鷲津砦と丸根砦に攻撃が開始された。
そして、大高城には兵糧が運び込まれた。
信長の小姓に呼ばれて、書院部屋に入ると『幸若舞の敦盛』の一節を謡い舞う信長の姿があった。
その謡は、源平合戦の『一の谷の戦い』で源氏方の熊谷直実が息子と同じ年頃でしかない、元服間もない平敦盛を討ち果してしまい世の無情を嘆く心情を謡ったものである。
【 思へばこの世は常の住み家にあらず。
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる。
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり。】
『 人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。』
謡い終わると俺に顔を向け、『儂の戦い、見に参るか。』と尋ねるでも誘うでもなく、呟いた。
俺は、黙って頷きを返した。
甲冑を着付けながら湯漬けを食べる信長の傍らで、伊賀の忍び装束に着替えて俺達3人も湯漬けを食した。
湯漬けを運んで来た濃姫や侍女達は、俺達の装束に驚いたようだが、既に数日を過ごし親しく言葉を交わしているためか、敢えて、何も言わず、ただ『殿をお願いします。』とだけ言われた。
清須城から熱田神社向かい。さらに丹下砦を経て善照寺砦に辿り着く。
そこで、鷲津砦と丸根砦から煙が上がっているのが見えた。
間もなく沓掛城を見張っていた斥候から、義元の本陣が城を出たとの知らせが入る。
空模様は薄曇りだが、雨雲の気配はなく、乾いた空気が僅かに頬を撫ぜている。
大高城に向かう経路は二つある。俺は信長に『桶狭間かと。』そう告げた。
信長は決意したのだろう、全軍に進撃を命じた。
桶狭間の山上に着くと信長は『遠めがね』で、今川の軍勢を見ていた。
『来たぞ、本陣じゃ。これより参る。』
そう声を上げて、山を駆け下って行った。
俺はその場に留まり、双眼鏡を取り出して今川勢の動きを注視する。
すると今川本陣の前を進む後方の部隊が、奇襲に気づき、本陣を護ろうと引き返した。
「まずいっ、佐助。足止めをしろっ。
《火炎の術》を使えっ。」
音も無く、佐助が駆け出して行った。
そしてまもなく、義元の本陣へ駆け戻ろうとした部隊は、突然の大爆発に包まれ手酷い被害を受けて大混乱となり頓挫した。
佐助が使った『火炎の術』とは、空気中に小麦粉と硫黄の微粒子を散布し、火炎瓶で点火して起こす、粉塵爆発である。
空気が乾燥し、ごく僅かな微風が一定方向に流れている状況が、この術を使う条件だ。
佐助の使った『火炎の術』が呼び水となったのか、風が強まり雨が降り出して、たちまち土砂降りとなった。
これでは本陣が襲われている喧騒がわからないだろう。
俺は、織田の兵が上げる、かすかな勝鬨を聞くと、桶狭間をあとにした。
この戦で、最初に今川義元に挑み負傷した服部一忠に加勢し、義元の首を上げたのは、毛利新介だが義元が上段に振り被った一瞬に、脇下を槍で突いたことは知られていない。
後日、諸国行脚を終えて、挨拶に清須城を訪れると、渋い顔をした信長がいた。
「その方、儂に仕えぬか。」
「できませぬ。今は。」
「いつになったなら、できるのか。」
「信長様が天下をお取りになった暁には。」
「ふふっ、そうか。しばし猶予を与える。」
【 桶狭間の負債 】
桶狭間の戦いにおいて信長は、野戦奇襲を悟られぬために家臣にまで策を秘匿したが、家臣の中にその策を知っていれば、鷲津砦と丸根砦の者達も退却する選択があり、死なせずに済んだのではないかとの疑念を抱かせたのかも知れない。
この勝利により、信長の権勢が強まり独断専行が罷り通るようになったことは、畏怖はあっても信頼が薄れ、明智光秀の謀反に繋がったのかも知れない。
【 お知らせ 】
次話からは、いよいよ歴史上の武将達との邂逅や忍びに纒わる習俗慣習が登場します。
筆者の自信作ですので、ご期待ください。
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