第二話 今川を迎え撃つ尾張の日々 その1

永禄3年 (1560年)4月下旬 尾張国津島湊

藤林疾風


津島に着いて、伊勢屋と別れた俺達は、町外れの旅籠に宿を取った。夕餉を終える頃、一人の若い旅の僧が訪ねてきた。服部半蔵保長の子、二代目服部半蔵となる正成である。


「八兵衛殿、お久しゅうこざる。こちらに、お見えになると、千賀寺せんがじの和尚(父の半蔵)から聞きましてな。」


正成しょうせい殿(偽名)、わざわざのお運びかたじけない。実は、清須の殿様に献上したい品があり罷り越しました。

 尾張は不案内のため、案内あないを頼めますかな。」


「ほかならぬ、八兵衛殿の頼みなら、喜んでお引き受け致しますぞ。はははっ。」



 翌朝、津島の町外れで、正成と落ち合い、清須へと向かった。その街道は整備されていて、騎馬がニ列でも通れる道巾があった。


「八兵衛様。尾張もなかなかに拓けておりますね。」


「うむ、才蔵。伊賀伊勢の街道整備と楽市楽座は、尾張に倣ったものだ。俺が考えたものではない。」


「えっ、そうなんですか。それにしてもいつ尾張のことをお知りになったのですか。」


「熊野での修行中に、出逢った修験者に聞いたのだ。それが修行というものだ。」


「 ? ? ? 」


「若、もしかして千里眼ってやつですか。」


「佐助。話を聞いたと言うたではないか。

それがなんで千里眼になる。それから若はよせ。商家で若は使わん。若旦那にしろ。」


「若旦那、すみませぬ。尾張の街道整備も、楽市楽座もニ年前からと聞きました。伊賀の方が、早くになされております。」


 あちゃ、史実と違うじゃねぇかよ、信長。

 いや待てよ、史実を書いた学者が間違っていたのか。いずれにしても佐助のやつ、俺をへこましたと得意顔になってるじゃないか。



 津島から清須までは距離にして約20km。  

 普通に歩けば五時間かかるが、そこは忍びの者、速足を使い三時間半で着く。 

 忍びの者は、幼少の頃から荷を背負って、駆ける修練を重ねている。

 忍びの者が使う歩行術は、《なんば走り》と言い、左右の手足を同時に、同方向へ出す歩き方で、骨盤の向きと肩の向きが、平行に動くため歩速を速めても疲れ難いのだ。

 だが短距離走のような速さは出せない。


 清須の城に着くと門番から身分の高い者へと取次がれ三の郭にある小部屋へ通された。

 おそらく、商人など外部の者と会うための部屋かと思われる。廊下と部屋に二重に襖が交互に閉められ、外からは人の位置が見えなくなっている。

 おそらく話す相手は側用人あたりだろう。その後に、信長公本人と謁見できるのかは、不明だが。


 四半刻(30分)ほど待たされて、先に護衛の者が四名入室し、程なく小姓を連れた身分の高い武士が入室してきた。

 頭を下げていると、声を掛けられる。


「伊賀から参ったか、信長である。面を上げよ。」


 驚いた。いきなり信長本人が現れるとは。


「はっ、伊賀名張の商人八兵衛と申します。

 織田様には、日頃から伊勢屋さんを通じ、あきないをさせてもらっております。

 この度は、そのお礼言上に参りましてございます。

 また、信長様に役立つ品を献上させていただきたく、持参致しました。」


「ほう、役立つ品とな。」


 俺は後ろに控える才蔵に、差し出すように指示をし、才蔵が風呂敷包みを取次ぎの者に渡した。

 信長公は取次ぎの者から受け取ると包みを開いた。手にすると『これはなんじゃ。』と尋ねられた。


「南蛮渡来の『遠めがね』にございます。

 筒を伸ばして、小さき穴の方から覗きますと、遠くのものが近くに見えます。

 見えづらい時は、筒をわずかに縮めると、はっきり見えるかと。」


 信長公は警護の者に、部屋と廊下の襖をわずかに開けさせると『遠めがね』を庭に向け覗き込んだ。

 筒を調節して見えたのか、『おおっ、よう見える。』と叫ばれた。


「八兵衛、これは一品限りか?」


「はい、某が博多から手に入れたもので、

一品限りのものにございます。」

(★この時点の長崎は小さな漁村で海外貿易

  なんてしていません。)


「なぜこれを、献上しようと思うたのか?」


「近々戦があるかと思いまして。本陣の大将を見つけるのには、役立つかと。」


「 · · · · 。」


「ご笑納いただけたら、光栄に存じます。」


「明後日の夕刻に参れ、礼をいたす。」


「ははっ。」




 清須の城下町に宿を取った。正成がやって来て、諸国に放った伊賀者の報告を聞いた。

 やはり今川は軍を起こす準備をしている。田植えが終われば、すぐさま上洛の兵を上げるだろう。既に三河には兵糧を集めている。


 一方、浅井家では六角から浅井長政に嫁がせた平井の娘を離縁したそうだ。こちらも、敵対衝突が確定したな。


 翌日は、清須の商家を挨拶をして回った。 

 伊賀の産品を見本に持って、売り込みに回ったのだ。幾つかの商談をまとめて伊勢屋に使いを出した。清須には、綿花を扱う商家があり、秋には綿花の種を買うことにした。



 そして翌日の夕刻に、信長の元へ赴くと、驚いたことに城の奥にある客間に通され、膳が用意されていた。

 俺達が着くとすぐに、信長公が小姓だけを伴って現れた。


「 まずは『 遠めがね 』の礼を申す。

 食しながら話を聞きたい。酒はどうだ。」


「申し訳ありませぬ、酒は嗜みませぬ。」


「そうか、儂も嗜まぬ。」


「 · · · · ·  。」


「その方ら、ただの商人ではあるまい。」


「 · · · · ·  。」


「まあ、詮索はすまい。だがなぜ戦が起きると思うたのか。」


「私どもは、商人でございます。物の売り買いの情報には過敏でございます。

 この度、今川様が三河に兵糧を集めなさっているのは、上洛の他に理由がありません。 

 おそらく、田植えを終えた頃には上洛の兵

を上げなさるでしょう。」


「して『遠めがね』は、なぜ役に立つ?」


「今川様の軍勢は、少なくとも3万に近く、織田様は 4,000ほどかと。

 寡兵で大軍を討つには、本陣への奇襲しかありませぬ。

 すみやかに本陣を見つけ大将の所在を知ることが肝要かと存じます。

 さすれば、お役に立ち申します。」


「何故、そこまでする?」


「 伊賀伊勢の平穏のためでございます。」


「織田が敗れても伊勢には関係あるまい。」


「いいえ、先年伊賀は北畠を滅ぼしました。

 もし、今川様が上洛された暁には、北畠を滅ぼした伊賀を捨て置くとは思えません。


「 その方ら、しばらくこの城に逗留せい。 

 儂の戦ぶりを見て行くがよい。」


「よろしいのですか、大事の時と思いますが。」


「構わぬ。誰かっ、」


「はっ、ここに。」


「八兵衛らを儂の客分として、しばらく城に逗留させる。部屋を用意せよ。」




【 難波歩き 】

 江戸時代以前は、歩くとき腰を捻らずに歩いていたと思われる。小さな歩幅で小走りに腕は振らずに歩く。

  走る時には手を胸元や脚の付け根に置き肌蹴る着物を抑えながら走るか、刀を押さえながら走ったようだ。

 江戸時代以前の歩行が、すりり足で歩く訳は着物の制約で小幅で歩くため、かかとを接地せずに歩くことにより、脚全体がバネの役割を果たし、悪路や傾斜地に適していたのだ。

 柔道、剣道などの武術の摺り足は、それを伝える名残りなのかも知れない。

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