第7話 伊賀 藤林疾風 VS 北畠具教 その2

永禄2(1559)年10月 伊勢大河内城 藤林疾風



 多気城を焼失させた翌日、大河内城に向かった俺達は途中の中間地点で一泊し、十分な睡眠と食事を取り、英気を養った。

 我が領、伊賀の総人口は、約12,000人。そのうち、戦える者は7,000人程いる。

 その割合が高いのは、その中に『くノ一』つまり、女衆が1,200人程含まれるからだ。


 伊賀では、女性の地位が高い。家の田畑を養い、外へ出て忍び働きもする。2才以下の赤子以外の子供は、各忍家が集団で養育している。

 これにより、16才から35才くらいまでの『くノ一』が忍び働きをできるのである。

 ましてや、藤林家がもたらした各種農機具により、繁忙期でも農作業の時間が1/5程度に短縮されて、余裕ができた時間で、焼酎や石鹸、陶磁器や塗物作りに従事して、稼いでいるのだから、男衆は頭が上がらない。


 また、伊賀では、年寄も貴重な働き手だ。

 元々、野山で薬草採取を行い薬を調合していた年寄り達だが、今は鉄砲火薬や焙烙玉、火炎瓶を作ったり、椎茸栽培や豆腐、味噌や醤油の製造に大活躍している。



 伊賀への伝令が、北畠軍が引き返したとの知らせと共に、伊賀から後詰めが来ると知らせて来た。

 そして、北畠軍が到着するより早く、後詰めの伊賀勢が到着した。

 北畠の軍勢のあとから出陣したが、途中で追い越してきたという。服部半蔵殿が率いて伊賀から後詰めの部隊1,800人が到着した。

 さすが伊賀の皆は山道に詳しく体力も半端ない。


 その頃、俺達奇襲部隊は大河内城攻撃中で既に城の建物は炎上し、籠城もままならず、城から打って出てきた軍勢と交戦中だった。

 城を出た400人程の軍勢は、迎え撃つ50人ずつの伊賀鉄砲隊の三段撃と焙烙玉の投擲で既に半数近く討ち取っていたが、そこへ到着した増援の伊賀の軍勢により、たちまち蹂躙され掃討された。


「半蔵殿。来てくれたのですか。俺達はこの大河内城を焼き払ったら、伊賀へ戻るつもりでいたのですが。」


「伊賀に攻め込んだ北畠勢は、藤林砦を包囲したところで、砦から北畠本陣への焙烙玉の攻撃で震え上がったところへ、多気城が攻撃されたという知らせが届いたのでしょうな。

 藤林砦への攻撃を放棄して、退却して行きましたぞ。

 その後すぐに状況を確認のため、皆が藤林砦に集まりましてな、そこへ御曹司からの伝令が到着し、奇襲成功を聞き申した。

 それを聞いた皆の意見が御曹司への増援と北畠軍との一戦と決まったのでござるよ。」


 伝令のやつ。まる一日で伊賀に辿り着いたなんて、どんだけ無茶をしやがったんだ。


「そうだったのですか。伊賀に被害が出なかったのは、望外の喜びです。

 しかし、相手は無傷に近い8,000の軍勢。こちらの4倍で簡単には勝てませんよ。」


「なあに、お父上の長門守殿の指示でな。 

100個の地雷と投擲機10台を持参したわい。

 あとは『疾風の策略に任す』と仰せじゃ。期待されとるぞ気張りなせぇ。ははは。」




 それから手分けして逆木の柵を作り塹壕を掘って、地雷を配置終えた一刻後、北畠具教率いる軍勢が、西から姿を現した。

 敵勢を迎え撃つ俺達の眼前には、収穫の終った麦畑が広がり、俺達の手前200mには、伊賀の軍勢が持ってきた100個の火炎地雷が埋め込まれている。

 地雷と言っても踏むと爆発する訳ではなく焙烙玉や火炎瓶により、誘発させるものだ。


 俺は味方を6つの部隊に分けた。地雷原の正面に姿を現すのは俺達奇襲部隊200のみ。

 北畠勢は、伊賀から増援が来ているのを知らない。後方に投擲機20台を据えた。

 俺達の左右の1km先の森に左翼は騎馬隊と長槍隊を、右翼は鉄砲隊と長槍隊の伏兵を配置した。


 北畠の軍勢は体制を整えると、いきなり200騎余の騎馬隊で攻め掛かって来た。

 その突撃を、三列の逆木の馬防柵で防ぎ、鉄砲の三段撃ちを浴びせる。

 先陣の騎馬隊を鉄砲で討ち取っていると、その間隙を突いて、長槍の足軽部隊が陣地に迫って来た。

 俺は足軽部隊が迫ると塹壕の兵に火炎瓶の一斉投擲を命じ、その炎で塹壕付近の地雷を誘発させて、隊列を組んだ足軽部隊を半壊させた。

 さらに敵勢の後詰めが出て来ると、第一の塹壕陣地を捨て、後方の塹壕へ後退をする。

 後詰めの主力部隊4,000 余が繰り出して来て、中原の地雷原に差し掛かったところで、後方の投擲機部隊から一斉に大型の火炎瓶が投擲され、後詰めの兵が固まる中原を襲い地雷の誘発と相まって、一斉に爆発が起こり後詰めの部隊を大混乱に落とし入れた。


 北畠勢は、200騎余の騎馬隊を迂回させ、俺達の後方へ回り込もうとしている。

 残念だがそちらには伏兵の鉄砲隊がいる。

 

 その隙に、俺達は後退をした。怒り狂った北畠勢は態勢を立直し、俺達を逃すまいと、追撃してくるのだが忍びの者達の足は速い。

 俺達は、後方に控えている投擲部隊のところまで、後退すると反撃に出る。

 20台の投擲機から、次々と焙烙玉や火炎瓶が投擲されると、敵勢は再び混乱に陥り、鉄砲で兵力を失って行く。


 そして、ついに具教の本陣1,000が動く。 

 俺達が目前の北畠勢の迎撃に手一杯になっているのを見定めて、その間隙を縫って攻め寄せて来たのだ。

 だが、左翼から伏兵の騎馬隊が飛び出し、敵勢の横腹を蹴散らして、後に続く長槍隊が敵の本陣の軍勢の前に立ちはだかる。

 さらに、右翼からも鉄砲隊が敵の馬廻りだけとなった本陣へ攻撃をし、長槍隊が本陣を出た軍勢へ攻め掛かり、北畠勢は益々大混乱に陥った。

 

 伊賀の軍勢がほぼ無傷で、北畠勢の半数以上討ち取ったとは言え、まだ北畠の残存兵力は多い。

 ただ本陣を襲われ混乱している今が最大の機会チャンスだ。

 俺は迷わず20騎しかいないが騎馬武者を従えて具教の本陣へ突撃。途中の雑兵を蹴散らし、一直線に敵の大将へと向かった。

 北畠具教は、天下に鳴り響く剣豪大名だ。

 俺の剣術で倒せるとは思ってないが、討ち取る機会は今しかない。

 

 北畠具教は、本陣に20人ばかりの馬廻りに護られて、床几に腰掛けていた。

 先頭に駆ける俺を遮るように、数人の武将が立ち塞がるが、手前で火炎瓶と発煙筒を投げ付けて進路を開く。

 そして、炎と煙が中を駆け抜け、北畠具教の前へ出た。馬を降りた俺の前に具教は立ち上がって抜刀した。

 周囲の武将には、後続の騎馬隊が襲い掛かって邪魔者はいない。

 俺は具教の足元に立て続けに火炎瓶を投げ付けると、刀の鯉口を切り全力で具教に向かった。

 鎧に炎を纏いながらも動じず、俺を待ち受ける具教に手裏剣を飛ばしながら、居合いの抜刀で斬りかかった。

 具教も上段から振り降ろすが、わずかに、手裏剣を避けた動作が明暗を分けた。

 一瞬速く、俺の居合い突きが、北畠具教の喉に突き刺さっていた。それでも具教の剣は弱まりながらも、俺の兜に傷を付けていた。


〘ちなみに、俺の刀は忍者刀ではなく父上に貰った藤林家伝来の『月一文字』という。〙



『北畠具教、藤林疾風が討ち取ったりっ。』


 周囲で戦っていた騎馬隊の者達が、次々と声を上げる。


「北畠具教を討ち取ったぁ〜。藤林疾風様が討ち取ったぁ〜。」


「北畠具教討ち死に。武具を捨て降伏せよ。」


「北畠具教討ち死に。北畠具教討ち死に。」


「大将は討ち取った、戦の決着はついたぞ。兵を引け。」


 次第に喧騒が治まり北畠の兵達はその場にしゃがみ込み、脱力感に覆われていった。


 俺が取った戦法は、九州の島津家が得意とした『釣り野伏』という戦法で、北畠具教が伊賀の後詰めの存在に気づかず、大軍でありながら、包囲され壊滅することとなった。


 伊賀軍には重症者はいたが、討ち死には、皆無という『完全勝利』で終った。




【 釣り野伏戦法 】

 薩摩の戦国大名島津義久が用いた戦法。

 左右に二隊の伏兵を置き、中央の一隊が敗走を装い(釣り)後退して、伏兵のいる場所へ誘い込み、包囲して三方から攻め込む戦法。

 類似の戦法は、大友配下の立花道雪も用いたとされ、三国志で、韓信が十面埋伏戦法で項羽を破った話もあり、伏兵を用いて大軍を破る戦法だ。

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