お味噌汁

メグ

お味噌汁

  母のお味噌汁が好きだった。

 煮干しの苦味と柔らかく広がるお味噌の味。社会人になってから、久しぶりに帰った実家で母のお味噌汁を飲むとほっとした。

 おいしい、と私が肩の力を抜いて頬を緩めると、母はそれが嬉しかったのか、相好を崩したものだった。

 母は私と違って料理が得意な人だった。

 ふとした好奇心から、

「どうやって作るの?」

 と私が問えば、

「なんだい、あのお転婆な有希子もやっと料理をする気になったのかい」

 と呆れてみせたものだ。それでも、料理が苦手な私に一から作り方を教えてくれるような、優しい人でもあった。私はそんな母が大好きだった。

 私が一番最初に覚えたのは、そんな母のお味噌汁で、お出汁の取り方もお味噌の溶き方も、何もかもが初めてだった。最初なんて、煮干しの腸がうまくとれず、苦味が強くて眉をひそめたものだった。お味噌を煮詰め過ぎて、風味を飛ばしてしまうような失敗もあった。

 それでも帰省の度に母と台所に立つうちに、お味噌汁の味だけではなく、母と作るその行為自体が私の楽しみになっていた。

「有希子も大分料理をする姿が様になってきたわね」

「お母さんのお陰よ。でもせっかく覚えても、仕事が忙しいとなかなか。独り暮らしだとインスタントですませちゃうことも多くって」

 肩をすくめた私に、母は笑ってみせた。

「わたしもねぇ、お父さんや有希子がいなかったら、料理を頑張ろうとは思わなかったでしょうね」

 笑うと母の顔には小さな皺がいくつも寄って、よく見れば髪には白髪が混じりはじめていた。使い古されたエプロンの色に母も歳をとったものだ、と急に強く変化を感じたものだ。

 それでも変わらないことはあった。小さい頃は気づかなくて、料理をするようになってからやっと気がついたことだったけれど。

 母の爪はいつもきれいに切り揃えられていて、私は母がマニキュアを着けたところなんて見たことがなかった。いつも指先は少しささくれていて、撫でてくれる母の手の摩擦が心地よかったのを覚えている。

 それらは全て、母がいつも水仕事を頑張ってくれていた証拠だった。お洒落なんて二の次で、家族のために頑張ってきてくれていたのだろう。一緒に料理をしていると、母がどれくらいの手間暇をかけてそれを作ってくれていたのかがよくわかった。

「どうしてそこまで頑張ろうと思えたの?」

「そりゃあねぇ、わたしだって嫌になる時くらいあったさ。でもね、あんたたちはいつだっておいしいって言って食べてくれただろ?」

 母のお陰で、私に好き嫌いはなかった。幼稚園の頃苦手だったピーマンも、みじん切りにしてハンバーグに加えてくれたことで克服できた。大人になってもピーマンが嫌いだったら、きっとかっこわるかっただろう。

「誰かが喜んで食べてくれる。それが嬉しくて、ここまで続けられてきたんだよ。まあ、お父さんなんかは、最近は酒の肴ばっかり要求してくるから、張り合いがないけどね」

「お父さんは、前の晩に飲み過ぎても、朝のお味噌汁だけは欠かさないでしょ?」

「そうそう、この体に染み渡る感じが欠かせないんだ、とか言って」

 寝起きのだらしない父の姿を思い浮かべて、二人で声をあげて笑った。父が母のお味噌汁を飲みたくなる気持ちはよくわかる。

「うらやましいなぁ」

 それは毎朝母のお味噌汁を飲める父に対してなのか、そんな風に毎朝料理を食べてくれる相手がいる母に対してなのか、自分でもよくわからなかった。

 ほぼ独り言のように呟いたその言葉を拾って、母は苦笑した。

「なんだい、あんたにだってそのうち現れるさ」

「お味噌汁を作ってくれる人が?」

 私が冗談半分に返した言葉を、母は素直に受け止めたようだった。

「それがお望みなら、早く料理上手を捕まえな。優良物件は競争率が高いんだから」

「あんたが胃袋を掴みなさい、じゃないんだ?」

「そこは心配していないよ。なんたって、有希子には私が料理のいろはを叩き込んだんだからね」

 自信満々に胸を張る母の言葉に、私は元気をもらったのだ。



 そんな一年前の出来事を思い出しつつ、私は今手紙を読んでいる。私ーー水野有希子が母に向けた最後の手紙だ。

 まばゆいスポットライト越しに目の前に立つ母の姿は、台所に立つそれとは違っていた。

 白髪が混じっていた髪はきれいに染められ、結い上げられている。身につけているのは黒留袖で、揃えられた手にはきれいにマニキュアが塗られていた。台所に立つ母の姿も大好きだったけれど、礼装に身を包んだその姿も輝いている。

 今朝、最後に実家でお味噌汁を飲んでいた時、先に着付けを終えて帰ってきた母が、似合わないでしょ?、と苦笑していたけれど、そんなことはない。

 私も母みたいな女性になれたらいいな、と思いを込めて、私は感謝の言葉を音にした。

「お母さん、私を今まで育ててくれてありがとう」

 それから……、と続く言葉は嗚咽と共にマイクに拾われた。

 今日で、水野有希子はいなくなる。だけど、水野家の味は名前を変えて受け継がれていくだろう。

「私に料理を教えてくれてありがとう」


 私は今日から辻本有希子として生きていきます。

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