22 再び夢の中の世界へ

  22

 ラルゴは目を覚ました。仰向けに寝ており、白いタイルの天井が見える。


「良かった。気が付きましたか」耳元で聞こえてきたのは、ヨルトン・ホテルのボーイ、コリスの声だ。


 心配そうにラルゴを見ているコリスはホテルの制服ではなく、上下とも黒ずくめで金色のボタンのついた軍服のような服を着ている。コリスの後ろに、二人の少年と一人の少女が立っているが、少年らはコリスと同じ黒い服を着ており、少女は水夫のような紺の襟の付いた白い上着に赤いスカーフ、そして襟と同じ紺色のスカートをはいている。男子の制服の詰襟の両側と女子の胸のところには、軍隊の階級章みたいな金属製の星が一つずつついている。


 部屋の中には、ラルゴの寝ているのと同じベッドがもう一つあり、そちらは空だった。部屋の隅には、大きな事務机、そして高い戸棚があり、机の上には聴診器や血圧計が置かれ、棚の中には包帯や薬瓶などが入っている。


 ここは診療所なのか?


 入り口のスライド式のドアが開いたかと思ったら、聞き覚えのある声が部屋に響いた。


「おいおいラルゴ君、大丈夫かい。キミ、しょっちゅう問題起こすね。困るんだよな」


 ラルゴは声に反応して半身を起こし、入ってきた男の姿を確認した。脂っ気のないバサバサの髪、貧相な顔、さえない背広......ラルゴのよく知っている男に間違いなかった。


「課長?」

 ラルゴのベッドに近寄ってきたのはまぎれもなくスタッカートだった。

「何だよ、カチョーって、君の担任である僕の名前忘れちゃったのかい。頭打って記憶を失っちゃったのか?」


 コリスがラルゴに代わって事情を説明してくれた。ラルゴは二人の話を聞いて、自分が今置かれているシチュエーションを何となく理解することができた。どうやら、この夢の舞台は高校で、ラルゴは二年生、コリスほかここにいる男女は一年生のようだ。コリスの説明によれば、女の子が三年の生徒に乱暴されようとしているところをラルゴが止めに入ったのはいいが、三年生たちに袋叩きにあって気絶した。女の子がコリスたちを呼びに行って、この部屋(コリスは保健室と呼んでいた)に運び込んでくれたらしい。スタッカートはラルゴのクラスの担任教師で、知らせを聞いて駆けつけてきたのだと言う。


 再びドアが開き、また誰か入ってきた。ふっくらした金髪の中年女性。女医なのか、看護師なのかわからないが、白衣をまとっている。どうやらこの保健室の主らしい。白衣の下にはベージュ色のセーターを着ており、その下の胸は大きく突き出している。その大きな胸と金髪を見て、ラルゴはそれが誰だか察しがついた。一度しか会ったことがないし、あの時は大きなマスクをしていたから顔はよくわからないが、ウェーブのかかった豊かな金髪と迫力を感じる胸には見覚えがある。スケルツォ=スタッカートに殺された図書館長、コーダの上司ヴィーデだ。


 今、目の前に殺人事件の加害者と被害者が並んで立っているのを見て、ラルゴは妙な気分になった。


「ヴィーデ先生、ラルゴは大丈夫ですかね」スタッカートが尋ねた。

「この子が眠っている時に調べたけど、傷はたいしたことないわ」ヴィーデはラルゴの背中や脚をポンポンと叩いた。「痛む? 痛くないでしょ。もう教室へ帰りなさい。これからは上級生に逆らうなんて無茶はしないことね」

 痛むも何も、ラルゴには殴られたり蹴られたりしたという自覚がまるでない。


 ラルゴはベッドから下りて立ち上がった。ヴィーデがカゴに入れてあったラルゴの制服をほうって渡してくれた。コリスと同じ制服だが、詰襟には星が二つついている。なるほど、僕は二年生ということだな。


「君とケンカになったという三年生って誰なんだい?」スタッカートがラルゴに尋ねたが、記憶になく答えようがない。

「オニグマさんたちのグループです」女子生徒が代わりに答えてくれた。


 ラルゴは唖然とした。オニグマ? オニグマって、僕を逮捕したあの警部じゃないか。あいつがこの高校の三年生で僕とケンカしたっていうのか。


「まずいねぇ、それは」スタッカートの顔色も変わった。「オニグマといえば、この学校の番長じゃないか。全生徒を牛耳っている男だよ。生徒会ともつながってるから誰も逆らえない。ラルゴ、君やばいよ。気をつけないと」

 番長って何だ? ラルゴにはよくわからなかった。何だかわからないが、スタッカート課長はこの夢の中でも相変わらずだ。小心者で日和見主義者、まさにスケルツォに憑かれる前の課長だな。


「とにかく、もう無茶はしないようにね。しばらくはおとなしくしていなさい」ヴィーデはラルゴの制服の背中をポンと叩いて送り出した。


「すぐ教室に戻るんだぞ。余計な寄り道はしないように。またオニグマたちとバッタリ出会うかも知れないからな」スタッカートが言った。

 自分の教室がどこにあるのかわからないし、そこに行ったところでどうなるもんでもない。スタッカートの助言に逆らうようで申し訳ないが、学校の中を探ってみよう。ツェツェもこっちに来ているはずなのだ。だが、その前に……


「コーダって女子生徒がどこにいるか知りませんか?」ラルゴはスタッカートとヴィーデ、そしてコリスたちに尋ねた。


 皆、首をかしげた。


「何年何組の人ですか?」コリスが逆に尋ねてきた。

「わからない。僕より年上のはずだから、たぶん三年生じゃないかな」

「三年三十八組にそういう名の子がいたような気がするな」とスタッカート。

「いや、五十四組じゃなかったかしら。よく知らないけど」とヴィーデは自信なさそうに言った。


 いったいこの学校には何クラスあるんだよ。スタッカートもヴィーデもあてになりそうにないので、ラルゴは「それじゃいいです。ありがとう」と言って保健室の外に出た。


 校内を歩き回ってラルゴは驚いた。この高校は広大だ。高層の校舎や低層の校舎が無数に建っており、隣り合う校舎は渡り廊下でつながっている。校舎と校舎の間にはグラウンドやテニスコート、校庭、温室などがある。どこまで行っても校地の端が見えない。今ラルゴがいる夢の世界はこの高校だけでできているのだ。空を見上げると、太陽は見えない。乳白色の薄雲に空全体が包まれている。この世界には朝も昼も夜もない。生徒たちも教師たちも帰る家はなく、この学校の中から出ることはないのだ。


 この広大な校地のどこかにツェツェやコーダがいるはずだ。前の世界ではコーダは女王だったのだから、彼女はここでは生徒ではなく校長という設定なのだろうか? 校長室を探した方がいいだろうか? いや、ここが学校だというのなら、校長室よりもコーダがいそうな場所があるぞ。ラルゴは思いついて、廊下ですれ違った女子生徒に尋ねた。


「図書室はどこにありますか?」


 一つ星をつけた一年生の女子生徒は、この人は二年生のくせに図書室の場所も知らないのかと怪訝な表情をしながらも、窓の外に見える三十階ぐらいありそうな一番高い校舎を指差した。

「あの校舎の最上階が図書室です」

「ありがとう」ラルゴは礼を言って、超高層校舎の方へと急いだ。図書室が一番見晴らしのいい位置にあるとは、さすが、コーダの夢世界だけのことはある。コーダがそこにいるのは間違いない、ラルゴはそう確信した。


 迷宮のような校内をさまよいながら、やっとのことで目的の校舎にたどり着き、ゆっくりゆっくり動くエレベーターで最上階の図書室に到着した。


 重い鉄の扉が開いた時、目の前に現れたのは一フロア全てを占めている巨大な図書室だ。これは学校の図書室のレベルじゃない。コーダの勤務先である町立図書館よりもスケールが大きい。ラルゴは行ったことがないが、国立図書館よりもデカいんじゃないだろうか。その数、数十、いや百を軽く超える書架の全てが高い天井まで達している。もちろん全ての書架にはギッシリ本が詰まっている。


 読書をこよなく愛するコーダにとって、この図書室はまさに夢の世界なのだろう。こんな図書室の中に住み、二十四時間過ごすことこそ彼女の夢なのだ。


 図書室の中は静かで、司書や係員はいないようだ。広いフロアの一番奥の席にただ一人座っている女子生徒がページをめくる音だけが沈黙の空間に響く。


 黒髪の女子生徒はテーブルの上に何冊もぶ厚い本を置いて、読書に熱中しているようだ。背中をラルゴの方に向けているが、それがコーダであることは離れた距離からでも明白だった。今、ラルゴの魂にはインキュバスの魂がくっついている。妖魔独特の感覚で気配を感じるのだ。


 ラルゴはコーダの方に歩み寄っていった。


「読書に熱中とは余裕だね」少し後ろからラルゴは声をかけた。

「あわてる必要はないわ。この世界で十年経っても、夢が覚めればほんの数分よ」

「そりゃそうかも知れないけど、早く片付けたいよね」


 ラルゴは横に立ってコーダを見た。オカッパ頭で現実世界よりも少し若く見える。高校生という設定だからだろうか。胸の階級章は三つ星。やはり彼女は三年生だ。


「スケルツォの時は、一刻も早くヴィーデ館長の仇を討ちたい、ブチのめしてやりたいと思ったわよ。でも今回は自分の問題じゃないしね」

 ラルゴは、ヴィーデならさっき会ったよと言ってやろうかと思ったが、コーダが会いに行くとか言い出したら面倒なことになりそうなのでやめておいた。


「おいおい、そりゃねえだろ」この声はインキュバスだ。「お前さんもツェツェは許さないとか言ってただろ」

「言ったわよ。その気持ちはウソじゃない。だからこそ苦労してこの夢の中に奴を誘い込んだのよ」コーダは読んでいた本をパタンと閉じた。「自分の問題じゃないと言ったのは冗談よ。ツェツェのような奴は女性全員の敵、私の敵でもあるわ。行きましょうか」


 ラルゴとコーダはエレベーターに乗って一階に下りた。

 しかし、この迷宮さながらの学校空間でどうやってツェツエを探すのか。


「そのうち出会うわよ。夢の中っていうのは割と都合よくいくようになっているから」コーダは気楽に構えていた。「それに、向こうだって私たちのことを探しているでしょうしね」


 それもそうだなとラルゴは納得し、二人は校内を歩き回って、途中カフェテリアでサンドイッチとコーヒーの軽食を取り、さらに歩いた。


 校舎と校舎を結ぶ長い渡り廊下を歩いていると、前方に数人の生徒が廊下をふさぐようにたむろしている。男が五人、女が三人、いずれも階級章は三つ星の三年生だ。チリチリのアフロヘアや油でガッチリ固めたオールバック、鶏のトサカのように盛り上がったリーゼントなど、どの生徒もラルゴが見たことのない珍妙なヘアスタイルをしている。女たちはほかの女生徒よりもスカートの丈が長い。


「おっ、さっきの二年生じゃねえか」茶髪のリーゼントがラルゴを見て言った。

「正義の味方君か。今度はガールフレンドと一緒か」オールバックの大柄な生徒がラルゴをにらみつけた。「まさか、さっきの復讐にきたんじゃねえだろうな」


 どうやら、こいつらがラルゴを袋叩きにした連中らしい。オニグマの顔は見えない。男女とも平べったい顔をした不良モブキャラだ。

 袋叩きにされた記憶も痛みもないので、ラルゴには憎しみも反発心もない。関わり合いになるのもわずらわしい。


「復讐なんかするつもりはないよ。ただ、ここを通りたいだけなんだ。通してくれないか」ラルゴは静かに言った。

「通さないよ」アフロヘアの女子生徒が凄んだ。「だいたい下級生のくせにその口のきき方は何だい。生意気な奴だ」

「ここを通りたいなら通行料を払ってもらおう。一人五千イエン、二人で一万イエンだ」最も大柄な紫色のイガグリ頭男が言った。


「めんどくせえな。一気に片付けちまおうぜ」この声はインキュバスだ。

「やる気か。それならまた袋叩きにするだけだ」紫のイガグリはポケットからチェーンを取り出した。「さっきはまだ手加減してやったが、今度はそうはいかんぞ」

 残りの連中もジャックナイフやブラスナックル、アイスピックなど物騒な武器を取り出し、ラルゴとコーダを取り囲んだが、二人は落ち着いている。


 ラルゴが両手を前に突き出すと、十本の指の先から糸を吐き出す出糸突起が飛び出した。不良どもはその意味がわからず、ラルゴに向かってきたが、ご自慢の武器を彼にふるうところまで近づくことはできなかった。

 十指から吐き出された糸が不良全員を同時に絡め取った。糸はピアノ線のような剛性を持っており、それで胴や腕を縛り上げられた彼らは痛みに悲鳴を上げて武器を落とした。


「バカヤロウ、この糸をほどけ。後でひどい目にあわせるぞ」

「アタシらのボスが黙ってないわよ」


 不良どもが口々にののしりの言葉を浴びせる中、ラルゴとコーダは涼しい顔で彼らの間を通って校舎に入ったが、そこでまた立ちふさがる者が出てきた。

 鬼瓦のような、あるいはブルドッグのような顔をラルゴはよく覚えていた。職場でお縄を頂戴した時の衝撃は忘れられるものではない。

「オニグマ……さん」


 番長とは不良グループのリーダーのことだと、エレベーターの中でコーダから教わったが、オニグマの顔は法の番人よりは番長の方が向いてそうだ。しかし、彼の顔は現実世界の中年刑事そのままで、それが高校生だというのだから滑稽だ。鬼熊の左右の詰襟には四つの星が光っていた。四つとはどういうことだ? 四年生? この高校は三年制だと聞いたが、落第生なのだろうか。さっぱりわからない。


 ラルゴは、オニグマが子分どもの仕返しのために現れたのだと思い身構えたが、オニグマは闘う気がないようだ。

「生徒会長がお前らを呼んでいる。顔を貸してもらおう」オニグマは感情のない仏頂面で言った。

「生徒会長?」

「そうだ。お前らに用があるそうだ」

「ひょっとして生徒会長って、ツェツェのことか?」

 オニグマはうなずいた。「ついてこい」

 ツェツェを探して歩いていたのだから、向こうから呼び出しがかかるのは大歓迎だ。しかし、奴が生徒会長だなんてふざけた設定だ。


 オニグマはラルゴとコーダを連れて校舎の中を突っ切り、短い渡り廊下を通って正方形の校舎ではない建物に入った。そこは体育館だった。いや、体育館というよりもコロシアム、各闘技場と表現した方がよさそうな施設だった。


 正方形の板張りのフロアの四面を階段状の客席が囲んでいる。その客席は全て制服を着た生徒たちで埋めつくされている。その数は千人を超えているだろう。


 フロアに一人、腕組みして立っているのはまさしくツェツェ・シュミルソンだった。彼もまた黒い制服を着ている。その詰襟に輝く星の数は五つだ。五つ星? いったい何なんだよ。ラルゴは訝った。前を歩くオニグマは四つ星だがツェツェは五つとは、学年を表しているのではなく、この学校での地位の高さを示しているのか。


「ツェツェ、ツェツェ!」満場の生徒たちはツェツェに向かって歓声を送っている。そして、客席の間の階段を降りていくラルゴとコーダに向かって罵声を浴びせる。まるで、ツェツェが華麗なる闘牛士で、ラルゴたちはその犠牲となる暴れ牛のようだ。


 ラルゴとコーダはフロアに降り立ち、ツェツェと向き合った。

「ようこそ」ツェツェは二人に微笑みかけた。「いや、ここはコーダの夢の中なのだから、おじゃましてますと言うべきかな」

「ここで勝負をつけようということかな」ラルゴは尋ねた。

「そうだ。どうせやるなら殺風景なところより、観客がたくさんいるところの方がいいだろ」

「あんたが生徒会長とは驚きだな。この世界に来ていきなり生徒会長に就任したのか?」

「俺が眠りに落ちたのは君らよりほんの数秒前だが、この世界ではそれが数か月分の時間にあたる。俺はその長い月日の間、君らが来るまでの退屈しのぎとして、校内の権力争いに加わって勝利し、全生徒を牛耳る立場に立ったのさ」

「なるほどね。どこに行ってもあんたは人を支配するのが好きなんだな。あんたは生徒会長かも知れないが、コーダはこの夢の世界の主だ。そのコーダと僕が二人がかりであんたを倒しにかかるがいいのか?」

「どうぞ、ご自由に」ツェツェは余裕しゃくしゃくだ。「闘う前に確認しておきたいんだが、この世界で今の俺たちは肉体を持っているように見えても、精神エネルギー、古臭い言い方をすれば魂の像にすぎないんだよな」

「そうです」コーダが答えた。

「ならば勝負を決するのは、精神力の強さということだ。そして、ここで殺された者は現実世界で廃人となる」

「その通りです」

「それじゃあ俺の勝ちは明らかだな。俺は物心つく前から父に厳しく鍛えられてね。その後、両親、そして最愛の姉をなくしてからは、ひとりぼっちで生き抜いてきた。犯罪者の巣窟のような貧民街に潜み、食うためには何でもやった。そして貧民街のボスにまで上り詰めたんだ。童貞力だ、処女力だなんて笑わせるよ。そんなものはガキの遊びだ。埋めようのない力の差を思い知らせてやろう」

「何でもそうだけど、やってみなきゃわからないよ」ラルゴはボクシングの構えを取った。


 ツェツェもラルゴに近づいて同じように構えた。

 まずラルゴが一歩踏み込んで右ストレートを繰り出したが、簡単にかわされた。そして、ツェツェの姿が二重、三重にダブって見えたかと思うと、ツェツェのパンチを続けざまに左、右、左と顎に食らった。ツェツェの動きがあまりに早くて彼の姿がぼやけて見えたのだ。顔面に激痛が走り、ラルゴはもんどり打って倒れた。


 替わって、コーダが前に出た。ツェツェはダンスホールで彼女に会釈した時と同じように軽く頭を下げて微笑んで見せた。

 馬鹿にしないでよ。コーダは真上に向かって強くジャンプし、バレリーナのように回転を始めた。その回転は止まらず、着地することもなく逆に身体が浮かび上がっていく。回転しながら、コーダの衣装がセーラー服から黒のスマートなジャンプスーツに変わった。


 ラルゴは尻もちをついたまま、コーダがツェツェの真上三メートルの位置で回転を止めたのを見た。彼女はその位置から落下してツェツェに蹴りを入れるつもりなのだ。


 だが、その前に、今度はツェツェがジャンプした。コーダの動きがヘリコプターだとすると、ツェツェはまるでロケットだ。あっという間にコーダより高く上がり、彼女の脳天に長い右脚でかかと落としを食らわせて地面に叩き落とした。


 客席の生徒たちはツェツェにやんやの喝采を送った。


 ラルゴは立ち上がり、不良どもに食らわせたように十指から鋼のクモ糸を出してツェツェに浴びせた。今度は十指の糸全てを彼一人に浴びせたのだ。あっという間に頭から足の先まで糸でぐるぐる巻きにされ、自由を奪われたかのように見えたが、ツェツェは紙テープをちぎるように簡単に糸を断ち切ってしまった。


 ラルゴとコーダは代わる代わる、あるいは二人一緒に、手を変え品を変えツェツェを攻撃した。しかし、炎で焼こうとすれば、より強く熱い炎で攻撃され、マイナス三十度のブリザードを吹きつければ、絶対零度で押し返される。

 ラルゴは巨人に手のひらの上で遊ばれているような気分を味わった。ツェツェが言ったように、僕の童貞力やコーダの処女力なんかじゃ、奴の精神力に到底かなわないんだ。


「そんなことはないぞ」インキュバスが諭すように言った。「奴のパワーは確かにすごいが、どんな強いやつだってどこかに弱点があるはずなんだ。それを探さないとな」

「弱点か、そうだね」さんざん痛めつけられて頭がうまく回らなかったが、ラルゴは懸命に知恵を絞ろうとした。そして、一つ、やってみる価値があるんじゃないかと思えることを考えついた。


 ラルゴは目を閉じ、過去の記憶に神経を集中させた。そして、目を開いた時、彼の姿はジュスタに変わっていた。

「よくも私を殺してくれたわね」ジュスタに変身したラルゴはツェツェに向かって突っ込んでいった。呆気にとられたのか、ツェツェは口をポカンと開けて突っ立っている。

「いけるかも」ラルゴはツェツェに回し蹴りをくらわそうと身体をひねったが、その瞬間、ツェツェに顔面中央を強烈に殴られ、バランスを崩して頭から床に倒された。

 ツェツェは高笑いした。「ハッハ、ジュスタの顔を見れば俺が良心の呵責を感じて戦意を喪失するとでも思ったかな。そんな攻撃は効果がないよ。俺にとって、ジュスタなど過去の存在。君がジュスタの顔になった時、彼女の顔を忘れかけていたので、これ誰だったかなと迷ったぐらいさ」


 自分の姿に戻ったラルゴは呆然とした。だめだ。こいつには良心なんてひとかけらもないんだ。スケルツォをはるかにしのぐ最凶最悪の怪物だ。レベルが全然違う。 

 ラルゴは立ち上がることができなかった。


「どうしたね。君もコーダも戦意を喪失したようだね。圧倒的な実力差を認めたかい?」ツェツェはラルゴに近寄ってくる。「君らの遊びに付き合ってあげたけど、ここらで終わりにさせてもらうよ。現実世界に戻ってやらなくちゃいけないことが色々とあるんでね。ラルゴ君はジュスタ殺しの犯人として自殺したことにさせてもらおう」


 ジュスタもこんな悪魔にたぶらかされてかわいそうに。ラルゴの頭を夢世界でのジュスタとの楽しいひと時がよぎった。その中で、彼女の一つのセリフがラルゴの頭の中に残った。

「……ただ一つ、残念なのは犬嫌いで私の愛犬のアレルトちゃんと一緒に遊べないことぐらいかしらね。犬の匂いがだめらしいのよ……」


 やってみることはまだあるかも知れない。ラルゴは頭の中でインキュバスに呼びかけた。

「サキュバスにテレパシーを送ってくれないかな。ダンスホールからヨルトンホテルまではそう遠くないはずだ。ホテルに飛んで行って、鱗粉でこっちに送り込んでほしい奴がいるんだよ」

「お前の頭に浮かぶことは俺も共有してる。誰を呼ぶのか理解したよ。すぐにサキュバスに伝えるが、そいつがこっちに現れるまで時間がかかるかも知れん。それまで何とか時間を稼ごう」


 尻もちをついたままラルゴは後ずさりしたが、ツェツェは彼との距離を詰めていく。その時、ツェツェの背中を蹴飛ばす者がいた。コーダだ。ボロボロにされながらも彼女は何とか立ち上がり、弱々しいキックをくらわしたが、もちろんそんなものは何の効果もない。

 ツェツェは振り返ると、何とか立っているコーダの足を払って転ばせた。

「まだ、そんな元気があったのかい、女王様。しばらくそこで休んでいたまえ。君に今死なれるとこの世界が消滅してしまうからね。ラルゴ君を始末するまでは生きていてくれよ」


 ツェツェがコーダに気を取られている隙に、ラルゴは立ち上がり、全力を振り絞って走り出した。


 ツェツェは逃げ出したラルゴを見てあきれた。

「やれやれ往生際の悪い奴だ。プライドというものが君にはないのか」

 何と言われようが、しばらく時間を稼ぐのだ。サキュバスが必ず最後の切り札になるかも知れない助っ人を送り込んでくれる。それまで何としても逃げ回ってやる。

 体育館の中でツェツェとラルゴの鬼ごっこが始まった。客席の生徒たちは慌てふためいて逃げ回るラルゴを指さしてあざ笑っている。だが、そんなことは気にしていられない。今は少しでも時間を稼ぐことが重要なのだ。


 体力に勝るツェツェが必死に逃げるラルゴの手首をようやくつかんだ時、奇妙な鳴き声が体育館の高い屋根に響いた。

「クオーン」

 寝ぼけたように間延びした動物の鳴き声。それは客席のどこかから聞こえてきた。


 ラルゴをぶん殴ろうと構えていたツェツェは動きを止めて、鼻を鳴らした。イヤな予感がする。ツェツェは表情を曇らせた。


 客席中段で怒号と悲鳴が巻き起こった。突然、黒い犬が座席の下から飛び出してきたのだ。


「バカな。なぜこんなところに犬がいるんだ」ツェツェの顔面が蒼白になった。「いったい何なんだ、あの犬は」


 ツェツェに腕をつかまれながらもラルゴは微笑んだ。「やったなインキュバス、スリーピーボーイの召喚成功だ」


 スリーピーボーイは大あくびをした後、寝ぼけまなこで階段をトントンと降りて、フロアまでやって来た。自分が何のためにこんなところに呼ばれたのか、戸惑っている様子だったが、ツェツェに捕まえられているラルゴを見て、自分のやるべきことを理解したようだ。


 スリーピーボーイは大きく両眼を見開くとツェツェにカチリと照準を合わせ、勢いよく駆け出した。


 ツェツェはあわてた。「おいおい勘弁してくれよ。俺は犬だけはダメなんだから」


 ツェツェ目がけて走るうちに、スリーピーボーイの垂れていた両耳がピンと立ち、牙がサーベルタイガーのようにグンと伸びた。地獄の番犬ケルベロスもかくやと思われる凶暴な顔つきだ。さらに、体中の毛も伸びて、一回り、いや二回りほど身体が大きくなったように見えた。それにともなって走る速度が上がっていく。


 恐ろしくなったツェツェは思わずラルゴを放して走り出した。今度は彼が逃げる番だ。


 スリーピーボーイの豹変ぶりにはラルゴも目を見張った。

「スリーピーボーイはヴァリスが拾ってきた魔犬の子らしいぜ」インキュバスがラルゴに説明した。「ヴァリスが手なづけておとなしい犬に育てたようだが、その本性は今見てる通りだ」


 ツェツェは懸命に逃げ回ったが、ついにスリーピーボーイに追いつかれ右足に噛みつかれた。

「やめろ、やめろ、やめてくれ。許してくれ」ツェツェは苦痛に顔をゆがめ絶叫した。

 ツェツェはスリーピーボーイを引き離そうともがくが、スリーピーボーイは逆に牙を深くツェツェの肉に食い込ませる。


 ツェツェの口からだらしなくヨダレが垂れ始め、身体に異変が起き始めた。皮膚が崩れ、体の形がヒトでないものに変わっていく。

ラルゴとインキュバス、そして観客席を埋めている生徒たちは世にも異様なものを目撃した。


 ツェツェの姿が巨大なハエに変化したのだ。頭の大部分を占める青く大きな複眼、口からはノコギリのような牙が二本向き合って生えている。背中には透明な羽根が生えており、左右の羽根には不気味な髑髏の紋章が入っている。脚は六本あるが、人間からハエの脚に変わっても、スリーピーボーイは後ろ脚をガッチリくわえて離さなかった。


「あのおぞましいハエこそツェツェの魂の真の姿だぜ」これはインキュバスの声だ。

 ツェツェは羽根を全力で動かして飛んで逃げようとするが、スリーピーボーイをぶら下げたままでは飛び上がることができない。ついには噛みつかれている後ろ脚を切り離してしまった。


 脚を一本失ったツェツェは飛び上がろうとしだが、そうは問屋が卸さない。今度はラルゴのクモ糸がツェツェを捕らえた。十指から放った鋼の糸が巨大ハエの腹部に巻きつき飛び去るのを阻止した。先ほどの闘いではラルゴの糸をぶち切ったツェツェだが、今度は引きちぎることができないようだ。


 ツェツェは羽根をうならせて飛び上がろうともがくが、ラルゴは引きずられながらも、綱引きの選手のように踏ん張って何とか持ちこたえる。スリーピーボーイはツェツェに向かって吠え続け、彼を縮み上がらせる。


 次の瞬間驚くべきことが起こった。凄まじい轟音とともに稲妻が体育館の天井を貫いて、ツェツェに落ちたのだ。ラルゴは一瞬早く糸を放して感電を免れたが、ツェツェは雷撃で黒焦げになって地に落ちた。


 これは自然現象ではない。前回のスケルツォの時と同じだ。ラルゴが後ろを振り向くと、倒れていたはずのコーダがそこに立っていた。フラフラしながらも、落ちたツェツェをにらみつけている。コーダはよろけながらウェルダンに焼かれた巨大ハエに近づき、ツバを吐きかけた。

「ざまあみろ、クズ野郎。思い知ったか」


 闘いは終わった。今度も最後にケリをつけたのはコーダだった。

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