14 ヴァリス・ヨルトン登場

   14

 ここ数日、フォギータウンにしては珍しく気持ちの良い晴天が続いている。役場の高い窓から昼下がりの心地よい陽光が差し込んでくる。今日は役場に来る人が少ない。ボーッと座っていたラルゴは睡魔に襲われてコクリコクリ居眠りを始めた。


 スタッカート課長の後任のアクート課長は前任者と違って部下に厳しい人で、居眠りなどしようものなら延々お説教されるのだが、今日は課長が出張で不在なので、ラルゴはつい油断してコックリコックリしてしまった。


「何だよ。こんないっぱいいろいろ書かなくちゃいけねーのか。めんどくせー」

 突然の大声でラルゴは目を覚ました。女の声だ。どこかのあばずれ女が離婚届でも出しにきたのか。しかし、ひどい声だな。酒の飲みすぎでのどを枯らしたのか。こんな声を出す女はきっとひどい顔してるんだろうな。


「仕方ありませんよ。この書類をちゃんと書いて提出しないと、ヨルトン・ホテルの建物と土地をヴァリス様の名義に変えられないんですから」もう一人、女の声が聞こえてきた。こちらは落ち着いていて、耳障りではない。

「じゃあ、マルカ、お前書いてくれよ」

「ダメです。これは本人の自筆じゃないとダメなんです」

「チェツ」

「はい、ここと、ここと、ここにまず名前を書いて、次にここに住所、そしてここにはお父様の名前を書きます」

「その下に死因って書いてあるぞ。クソオヤジはまだ死んでねーがな」

「よく読んでください。死因もしくは不動産を譲渡する理由って書いてあるでしょ。ここはちょっと微妙ですけど、重病ってことにしときましょう」


 二人の声はとなりの不動産登記課から聞こえてくる。いったいどんな人たちが来ているんだろう。印紙を買いに来る町民がいないので、ラルゴはちょっとのぞきにいってやろうと思った。


 出納課の部屋から、トイレにでも行くふりをして廊下に出ると、となりの不動産登記課のカウンターの周りに何人かの男子職員が突っ立っていた。


 何をしてるんだろう。ラルゴが職員の間からのぞきこむと先ほどの声の主たちがカウンターにヒジをついて書類に書き込んでいるところだった。一人は、ガッシリとした重戦車のような体格、髪はショートカットで赤い縁のメガネをかけた中年女性。レストランのウエイトレスのような服を着ている。そして、もう一人は、一八五センチはあろうかと思われる長身で、長いブロンドの髪を垂らした緑色の瞳の若い女性。本物のエメラルドの宝石をはめ込んだように美しい瞳。着ているものは麻のシャツにブルージーンズなのだが、どこかの王女様と言っても誰も疑わないだろう気品のある美貌。長身で細身だが、適度に凹凸のある女らしい体型が男の目を引く。男子職員たちはここを通りかかって、彼女のあまりの美しさに思わず立ち止まって見とれていたのだ。


 ラルゴも息を呑んで彼女に見とれてしまった。これほどの美女はさぞ美しい声、上品な口調で話すことだろうと思いきや......。


「チェッ、書き間違えちまったぜ。チキショー書き直しだ。メンドクセー」

「ヴァリス様、自分の名前を書き間違えないでくださいよ」

 どうやら、このガラの悪い長身の美女、ヴァリスはどこぞのお嬢様で、マルカというたくましい女性は彼女に仕える侍女らしい。


 しばらく書類と悪戦苦闘していた二人組だが、ようやく書き終えたらしい。

「おいマルカ、ここに印紙を貼れって書いてあるぞ。印紙って何だ?」

「切手みたいな小さな紙で、お金を払ったって証明に貼っておくんですよ」

「そんなものどこで売ってるんだ?」

「この役場の中でも売ってるはずですよ。ええと......」マルカは役所の各部屋から突き出ている標示板を見回して、となりの部屋の『出納課』の標示の下に小さく『印紙係』と書かれているのを見つけた。「そこで売ってるみたいですよ」

「よし、買ってこよう」ヴァリスは大股で歩き出した。


これはまずい。ラルゴはあわてて部屋に戻り、カウンターの後ろに回った。その数秒後にヴァリスが入ってきた。


「おう、印紙をくれ」

 ヴァリスはずかずかとカウンターに近づいてきて、ラルゴと顔を向き合わせた。

「フフッ」ヴァリスはラルゴの目を見つめてほほ笑んだ。天使の微笑だ。その微笑は銃弾のようにラルゴの心臓を貫き、一瞬でペニスを勃起させた。

 この人は黙ってほほ笑んでいれば絶世の美女なのにな。

「おい、どうしたんだ。印紙を売ってくれよ。いくらだ?」

「あ、はい。すみません。印紙は金額によって赤と青と緑と黄色と紫がありますが、どれが必要ですか?」

 ヴァリスは振りむいて、不動産登記課にいるマルカに向かって叫んだ。「おーい、マルカ、何色の印紙がいるんだ」

「赤色です」マルカはヴァリスに負けない大声を返してきた。

「だそうだ」とヴァリス。

「赤ですと、千イエンになります」

 ヴァリスはジーンズの尻ポケットを探って、くしゃくしゃの一万イエン札を取り出し、カウンターの上に置いた。

「すまねえが、これしかねえんだ。これで釣りくれ」

「はい。少々お待ちを」


 ラルゴはくしゃくしゃの札を広げて、奥にいる金庫番のヴェラート係長のところに持って行った。札はほんのりと温かかった。ヴァリスの尻のぬくもりが伝わっているのだ。それがまたラルゴのペニスを固くした。


「お前、あの女とヤリたいようだな」インキュバスの声だ。インキュバスはいつの間にか勃起したペニスから出て、ラルゴの右耳の耳たぶの裏に移っていた。「だが、あの女には気をつけた方がいい。ただものじゃない」

「コーダのような妖魔憑きってこと?」


「んー、何か言ったか?」金庫を開けて一万イエン札を納め、釣銭を取り出そうとしていた定年間近のヴェラート係長が尋ねた。彼は少し耳が遠いのだ。

「いえ、何でもありません。ちょっと独り言で」ラルゴは釣り銭を受け取りながら答えた。


 インキュバスは話を続けた。「そうじゃないが、何かおかしい。どこか普通の人間とは違うのは明らかだ」

「魔女みたいなもの?」

「わからねえが、あいつを夢の世界に引っ張り出す前によく調べておく必要があるな」

「行くの?」

「ああ、あれだけの美女がどんな秘密を抱えているのか興味をそそられるぜ。お前だってそうだろ」


 ラルゴは赤い印紙と釣り銭をトレイに乗せてヴァリスのもとに戻った。小グモ姿のインキュバスはいったん天井に飛び上がってから、ヴァリスのふんわりした金髪の上に舞い降りた。


「お待たせしました」ラルゴは何食わぬ顔でトレイをカウンターに置いた。

「ありがとよ」ヴァリスは印紙と九千イエンをつかむと、ラルゴの目を見て再びほほ笑んだ。「あんた、なかなか可愛い顔してるな」

 いきなりそんなことを言われたラルゴは童女のようにポッと頬を赤く染めた。

 確かにこの人は、インキュバスの言う通り、単なる美人ではなくて不思議な魔力のようなものを持っているようだ。ラルゴは不動産登記課の方に戻っていくヴァリスの背中を見送りながらそう思った。


 これがラルゴとヴァリス・ヨルトンの最初の出会い。だが、彼女との出会いが新たな冒険への入り口であったことを彼はまだ知らない。


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