10 コーダ女王の王宮

  10

 ラルゴはコーダの夢の中に入った。


 まず目に入ったのは抜けるような青空だ。このような空を見たのは、故郷の村を出て以来だ。霧の町フォギータウンでは、雲一つない青空など見た記憶がない。


 ラルゴは広い道の上にいた。道に沿って質素な石造りの家が並んでいる。麻でこしらえたシンプルなワンピースの衣服を着た人々が目の前を通り過ぎていく。頭の上に果物を盛ったざるを乗せた女性、白いあごひげを伸ばした哲学者のような老人、何人もの子どもをカルガモのヒナのように従えた母親……どの顔も浅黒く、表情はにこやかだ。ラルゴ自身も麻をまとっており、腕を見ると日に焼けている。フォギータウンとは全く違う風景。ここは熱帯の町らしい。


 これがサキュバスの創り上げた夢世界なのか。インキュバスの夢と比べると、学生が授業で適当に描いた絵と、芸術家が精魂込めて描き上げた大作ぐらいの違いがある。空の青さ、みずみずしい若葉の輝き、路傍に咲く色とりどりの花。何よりも、この世界にはたくさんの人が存在している。インキュバスの夢には、ラルゴ本人と彼の欲望の対象となる女性しか登場しないのだ。


 コーダはこの世界のどこかにいるはずだが、どこにいるのだろう。


 ラルゴは歩き出した。いや、この世界に意識が飛んできた時から彼は歩いていたのだ。


 しばらく歩いているうちに腹がすいてきた。ラルゴの歩いているのはこの町の商店街らしい。衣類や布地、穀物や野菜、工具や金物などを売っている店が並んでいる。肉や魚の店は見当たらない。コーダは菜食主義者だと言っていたような気がするが、この世界は彼女の嗜好が反映されているのかも知れない。


 食堂でもあれば入って何か食べたいが、金を持っていないから無理だなと思っていたら、腰ひもにくくりつけた革袋からジャラジャラ音がする。夢ならではの都合の良さで、ラルゴはこの国で通用する貨幣を持っていたようだ。


 しばらく歩いていると、飲食店らしき店があった。看板は出ていないが、店の前の路上に円形テーブルが三つと、それぞれの周りに木の椅子が四つずつ置かれている。誰も座っていない。


 中に入っても、薄暗い店内に客はいなかった。ただ一人、店の中央に背の高いツルツル坊主の中年男が腕を組んで立っていた。大きなエプロンをつけている。この男がここの店主らしい。他に従業員らしき者の姿はない。


「いらっしゃい」店主はムスッとした表情を変えずに低い声で言った。ラルゴには彼が「何か用か」と言っているように聞こえた。

「今、営業中ですか?」

 男は、何バカなことを聞いているんだと言いたげな目つきでラルゴをにらんでから、コクリとうなずいた。「お好きな席にどうぞ」

 ここにはカウンター席はない。ラルゴは入口に近い一番端の二人用のテーブル席に着いた。


「何にしましょう?」店主は覆いかぶさるぐらいラルゴに近づいて尋ねた。

 そう聞かれても、テーブルの上にメニューはなく、ここが何料理の店なのかもわからない。

「どんなメニューがあるんですか?」

「今は、イモがゆだけです」店主はキッパリした口調で言った。

「じゃあ、それでいいです」

「お酒は何にしますか?」

「お酒はいらないです」

「酒を注文しないのか?」店主の表情が少し曇った。

「ダメですか」

「ここは食堂じゃなくて飲み屋なんでね」

「そうなんですか。すみません。でも、お酒はいらないです。水ください」

「水は高いですよ」

「水にお金取るんですか? じゃあいいです、イモがゆだけで」


 店主は奥へ引っ込んだが、夢の中のことなので、調理や準備の時間は省略される。すぐに蓋をした大きな深い皿をワゴンに乗せて戻ってきた。

 蓋を取ると魔法のランプのごとく湯気が立ち上るが、食欲をそそるような匂いは漂ってこない。しかし、とにかく腹が減っていたので、ラルゴは大皿に盛られたイモがゆを勢いよくパクついた。やや塩辛いが、それなりにうまいと思えた。食べ終わると無性にのどが乾いてきたので、有料なのを承知で水をオーダーした。


 店主が水をタップリ満たした大きなグラスをドンと置くと、ラルゴは一気に飲み干した。店主はおかわりは無料だと言って、ポットを持ってきて水を注いでくれた。

「あんた、よそ者かね」店主は少し表情を崩した。

「え、ああ、まあそうです。来たばっかりで」

「何しに来たんだね?」

 何て説明すればいいんだろう。うまく言葉が出てこない。「ええと、ですねぇ。まあいろいろ事情があるんですが、とりあえず女性に会いたいと思ってるんですが、どこにいるのかわからなくて。コーダって人なんですが、ご存知ありませんか?」

 店主の顔が急に曇った。「あんた、何様のつもりだ」

「は?」

「我が国の女王様を呼び捨てにするとは何事か」

「女王!」

 ここはコーダの夢の中なのだから、彼女が中心的存在であるのは当然なのだが、女王とは驚きだ。

「はあ、女王様とは知りませんで失礼しました。コーダ女王様はどこにいらっしゃるのでしょうか?」

「女王のおられるのは王宮に決まっているだろう」

「王宮はどこにあるのですか?」

「あんたが歩いてきた道をそのまま進んでいけばいい。この国では全ての道は王宮に通じている」

「ありがとう。行ってみます」


 ラルゴは腰につけた革袋から金や銀の硬貨を取り出し、一〇〇〇という数字を刻んだ一番大きな金貨を店主に渡した。

 イモがゆと水の代金はそれで十分足りたようだ。でかいレジスターに金貨を放り込み、代わりに小さな銀貨や銅貨を取り出してラルゴに渡した。


「あんた、何で女王様に会いたいんだね?」店を出ていこうとするラルゴに店主が声をかけた。

「こっちの方にとんでもない奴が来るはずなんで、こちらの女王様と協力してそいつをやっつけなきゃならないんです」

 店主はそれを聞いて仏頂面を崩しゲラゲラ笑い出した。

「あんたが行かなくても大丈夫だよ。女王様は鉄壁の要塞のような王宮から出ないし、王宮の四つの門は最強の勇者が守っている。ネズミ一匹入れやしない。あんたが出る幕はないだろうよ」

「そうですか。それを聞いて安心しました。でも、一応王宮を見に行ってみますよ。ありがとう」


 ラルゴは再び歩き出した。いつまで経っても街並みの様子は変わらない。同じような建物がずーっと続いている。人の往来も途切れない。


 スケルツォ、いや正確にはスケルツォに取り憑かれた男もこの夢の世界に引きずり込まれるのだろうが、こんなに広くては遭遇するのが難しいのではないか。奴はここへ来たら、どのように行動するだろうか。やはり女王のもとに向かおうとするだろうか。わからないが、とにかくコーダに会いに行くしかなさそうだ。彼女がこの世界の中心なのだから。


 しばらく歩き続けると、道が大きくカーブし、前方に四方を高い城壁に囲まれたレンガ造りの大きな建物が見えてきた。ラルゴはその建物に見覚えがあった。


 フォギータウン町立図書館だ。ただし、今目の前に見えてきた建物は、実際の図書館よりかなり大きく見える。同じ三階建てだが、一つ一つの階がかなり高い。あの図書館をそのまま二倍に拡大したかのようだ。

 それに実際の図書館はあんな城壁には囲まれてはいないが、とにかく、あれは町立図書館に間違いない。なるほど、コーダ女王の王宮は図書館というわけだ。きっと、コーダはあの中でたくさんの本に囲まれて暮らしているのだろう。


 ラルゴは王宮の周囲をぐるりと歩きまわってみた。店主が言っていた通り、城壁の四方には門が設けられている。それぞれの門には、長い槍を持った衛兵が二人ずつ立っている。


 ラルゴは門の一つに近づいてみた。門の上には「北の門」と記した大きな銘板が埋め込まれている。


 ラルゴが近寄ると、当然のごとく、二人の衛兵は槍をクロスさせて彼の行く手を阻んだ。


「何の用だ、名を名乗れ」衛兵の一人がラルゴに向かって大声で怒鳴った。

「ラルゴと申します。あの、コーダ……女王様にお会いしたいのですが」

 二人の衛兵は同時に顔をしかめた。


「何だと。お前、いったい何者だ?」

「はあ、ちょっとした知り合いでして、ラルゴが来たと女王に伝えてもらえればわかると思います」

 衛兵は顔を見合わせた。

「そういうデマカセを言って女王に会おうとする不届き者はたくさんいるんだ。お前、女王様に会って何をするつもりだ?」

「彼女と力を合わせる必要があるんです。もうすぐ恐ろしい殺人鬼がこの国にやって来るはずなんで」

 衛兵たちはそれを聞いて、飲み屋の店主と同じようにゲラゲラ笑い出した。

「おかしなことを言う奴だ」衛兵の一人が笑いをこらえながら言った。「ちょっと待ってろ」


 しばらくして衛兵が一人の男を連れてきた。騎士のようにものものしい、黒光りする甲冑を身につけた大男だ。背丈はラルゴの一・五倍、幅は三倍ぐらいある。男はラルゴの前に立つとうやうやしく一礼し、北面の警護を担当するブドゥックだと名乗った。


「君は女王陛下にお目通りしたいのだそうだね」ブドゥックは穏やかな口調で言った。

「そうです。もうじきこちらにとんでもない犯罪者がやって来ます。この王宮にやって来ると思います。きっと女王様を襲おうとするでしょう。僕はそいつと闘わなければならない」

「よく理解できないが、それだけ言うところを見ると君はかなり強いのだろうね」ブドゥックは微笑んだ。ラルゴはその微笑みの中に軽蔑と疑心が含まれているように感じた。「だが、残念ながら、女王の部屋に許されているのは私を含めて王宮の四面を守る勇者だけでね。その他は身の回りの世話をする侍女以外は近づけない。特に男性は絶対無理だね。残念だが、あきらめることだ」

「そうですか」それならば仕方がない。別に王宮の中にいなくとも、城壁の外で強姦魔と対決すればいい。女王のコーダを見てみたい気がするが、あきらめるか。


「しかし、男が女王に謁見する方法が一つだけある」背を向けて出ていこうとするラルゴにブドゥックは声をかけた。「君も勇者になることだ。そうすれば、女王陛下に近づき、お守りすることもできる」

「どうすれば勇者になれるんですか?」ラルゴは興味本位で尋ねた。

「勇者になるには条件がある。我々四勇者と闘って勝つことだ。四人のうち誰か一人だけでも勝てれば、君は我々の戦列に加わることができる」

「はぁ」

「闘うと言っても命を奪うようなことはしないよ。ルールに則って試合するんだ。どうだい、やらないか?」ブドゥックは新入生を勧誘する体育会のキャプテンのように微笑みかけた。「我々としても、もう一人戦力が欲しいなと思っていたところでね」


 現実世界なら、四人の猛者と格闘するなんてことはするわけがない。目の前にいるブドゥックだけでも十分手強そうで勝てそうもない。ほかの三人もきっとこの男と同じぐらいには強いのだろう。やるだけムダだ。

 だが、ここは所詮夢の中の世界だ。何が起こってもおかしくない。話に乗ってみるのもいいかも知れないとラルゴは思った。遠い昔、故郷の村で取っ組み合いに明け暮れるガキ大将であった頃の血が騒いだ。

「やってみます」


 ブドゥックはすぐに衛兵の一人を伝令に走らせると、ラルゴを城壁の中に導いた。

 ラルゴはブドゥックの後ろについて、王宮の周りを時計回りに歩き、東門の前に出た。東側には王宮の裏口があり、東門と裏口の間には大きな花壇がある。そこには現実の世界では見たことがない黄金色の花が咲き乱れていた。


 ブドゥックは花壇の中に入っていった。花壇の中央には円形のスペースがあり、そこだけ白い砂が敷かれ強く固められて、その上に墨で四重の円、そして円と円の間に訳のわからない文字が時計の数字のように間隔を置いて書かれている。これは話に聞く魔方陣とか言うものかとラルゴは思った。


 ブドゥックは魔法陣の中心で立ち止まって言った。「この魔方陣の円が我々の闘技場だ」

 ラルゴは砂を固めた地面をつま先でコツコツ叩いてみた。すごく硬い。この地面に叩きつけられたら相当痛いだろう。サキュバスは夢の中で受けたダメージは現実の肉体にも影響すると言っていたが、これは気を引き締めてかからないととんでもないことになるぞ。


「お待たせ」ラルゴたちが入ってきたのと逆方向から一人の男が花壇を抜けて魔方陣に入ってきた。オレンジ色の髪を肩まで垂らした端正な顔立ちの、ラルゴよりも小柄な男。赤い甲冑を身につけている。


 続いて青い甲冑の勇者。この男はすこぶる背が高く、馬のように顔が長い。釣竿でも入れているかのような長い布袋を提げている。


 そして、最後に白い甲冑の勇者。この男は肉体的にはこれといった特徴はないが、他人を圧倒するような殺気を漂わせている。


 四人の勇者はラルゴを取り囲んだ。


「紹介しよう」ブドゥックが長身の青い勇者を指して言った。「東門を守る勇者、スリンだ」

 スリンはうやうやしく頭を下げた。

「南門の守護神、シトゥルだ」ブドゥックは対面に立つ赤い勇者を指した。

「こんにちは」シトゥルはラルゴににっこり微笑みかけた。

「そして西門のグンデルだ」

 白い勇者はムスっとした表情のまま軽く頭を下げた。


「先ほども言ったように、女王にお会いしたければ勇者になるしかない。そのためには我々四人と闘って、そのうち誰か一人に勝つことが唯一の方法だ」ブドゥックは説明した。

「君が勝ったら敗けた者と入れ替わるということではない」スリンが言った。「君が五番目の勇者になるということだ。我々ももう一人女王をお守りする勇者が欲しいと思っていたところでね。守るべき門はないが、無任所の遊撃手がいてくれると助かる」

「君がそれに値する力を備えていればいいのだが」シトゥルはにこやかな笑みを浮かべて言った。「でないと、痛い目に会ってバカをみるだけだからね。それではあまりに気の毒だ」


「ルールを説明しよう。ごく簡単だ」とブドゥック。「この魔方陣の外に出たら負け。それだけだ」

「もちろん、外に出なくても、君が『参った』と言えば、僕らはすぐに攻撃をストップするよ」とシトゥル。

「逆に言えば、あなた方が『参った』と言えば、あなた方の負けということですね」ラルゴは強気に言い放った。

 四勇者はそれを聞いてゲラゲラ笑った。そんなことは万が一にもあり得ないという意思表示なのだろう。

「もちろん、その通りだ」ひとしきり笑った後、ブドゥックが言った。「納得したかね。それではさっそく始めようか」

 ラルゴはうなずいた。


「その前に、我々は甲冑を脱ごう。こんなものを装着していては不公平だからな」ブドゥックはそう言っていったん魔方陣から出て、全ての防具を体から外し、花壇の土の上に放り出した。下にはラルゴと同じような麻の服を着ていたが、ブドゥックの服は甲冑と同じ黒に染められていた。


 他の三人もブドゥックに続いて、花壇に甲冑を脱ぎ捨てた。いずれも下には甲冑と同じ色の服を着ている。


 スリン、シトゥル、グンデルの三人は魔方陣の外側に陣取り、ブドゥック一人が中に入ってきてラルゴと向き合った。


「最初の相手は私だ」とブドゥック。「始めようか。いいかね?」

 ラルゴはやや緊張した面持ちでうなずいた。

「私はジュードーの使い手でね。ここでもジュードーの作法に則って闘うが、君は君のやり方で自由にやってくれていいよ」

 ブドゥックは両腕を肩の高さに構えた。


 ラルゴは考えた。さてどうしたものか。自分はジュードーの心得などないし、巨体のブドゥックとまともに組み合ったところで勝ち目はない。

 ラルゴはボクシングの構えを取った。向こうが組技でくるなら、こっちは打撃系だ。


 ラルゴを捕らえようとジリジリ近寄ってくるブドゥックをかわそうと、ラルゴは激しく前後左右に動いた。ブドゥックはその動きを追おうとはしない。ただ、のっそりと突っ立っているだけに見える。


 体重が相当ありそうなだけに機敏な動きはできないのだろう。標的が大きいので殴るのは簡単だ。ラルゴは右ストレートのパンチをブドゥックの頬に食らわせた。

 ブドゥックは避けようともせず、まともにラルゴのパンチを受けた。

 ブドゥックはパンチを受けた瞬間も眼を閉じなかった。痛みを感じていないようだ。機敏な動きができないのではなく、ラルゴの弱々しいパンチなどよける必要がないのだ。

 ブドゥックの鋭い視線に射すくめられて、ラルゴはヘビににらまれたカエルのように動けなくなった。


 ブドゥックはラルゴの右手首をつかむと、体をひねり、ラルゴに背負い投げを食らわせ魔方陣の外に放り出した。


「とりあえず、これで君は一敗だな」ブドゥックは表情を緩めて、穏やかな口調で言った。「続けるかね?」

 ラルゴは立ち上がり、体についた土を払いながらうなずいた。


「それでは次の相手は私だ」青の勇者スリンが長い布袋を提げたまま魔方陣内に歩み出た。「私は基本的に剣士でね。もし君が良ければ剣で勝敗を決したいと思うが、どうかな?」

 魔方陣内に戻ったラルゴは「剣」と聞いて少しギョッとした表情を見せた。

「心配せずとも、もちろん真剣で勝負しようってわけじゃない。模擬戦用の竹の剣を使うんだ」


 スリンは布袋の紐を解き、中からしなやかで細い竹製の剣を取り出してラルゴに見せた。

 ラルゴは幼い頃、村の子供たちと毎日のようにチャンバラごっこに興じていたが、一度も敗けた覚えがない。


 ラルゴは剣術での勝負を承諾して、スリンから竹の剣を一本受け取った。振ってみると、ビュンビュンとよくしなる。


 ラルゴとスリンは剣を構え、向き合って立った。ラルゴは両手で剣を握り正眼に構え、スリンは左手に剣を持って、剣先をやや下に向けている。


 ラルゴは正式な剣法など学んだことはない。経験があるのは、ただむちゃくちゃに振り回すだけのガキのチャンバラ剣法のみ。それしかない。


 ラルゴは闇雲に剣を振り回し、大声で叫びながらスリンに突っかかっていった。スリンは勢いに押されて後ずさりする。


 これはいけるかもしれない、と言うか、これしかない。ラルゴはそう確信して、さらに声を大きくして勢いよく向かっていった。


 剣先がスリンの体に触れるかと思われた時、スリンの姿が消えた。勢いよく突っ込んでいったラルゴは目標を失って、方向転換することもできず、ブレーキをかけることもできず、そのまま前へヨタヨタと進んでいった。


 いつの間にか目にも止まらぬ素早さでラルゴの背後に回っていたスリンは、剣の束の尻でラルゴの背中をトンと押した。すると、ラルゴはバランスを崩して魔方陣から足を踏み出してしまった。


「君を傷つけずに勝つことができてよかったよ。剣の勝負はたいていどちらかが痛い目を見るのでね」スリンは心底安心したように言って魔方陣から退いた。


 代わって赤の勇者シトゥルが進み出た。

「さて、次は僕の番だが……君が真剣に勇者になろうと思うなら、本気で僕に向かってきた方がいい。体格に恵まれない僕になら君も勝てるかもしれないし……」シトゥルは柔和な笑みを浮かべてラルゴに微笑みかけた。「君はグンデルには絶対に勝てない。グンデルは最強だ。僕に敗けたら、実質的にゲームオーバーということだよ」


 ラルゴはグンデルを横目でチラリと見た。鷹のような鋭い眼光、全身から立ち上る殺気、こいつがただ者ではないことは素人目にもわかった。シトゥルの言葉はウソではないようだ。


 やっぱり僕には闘いなんて向いてないな。彼らと僕じゃ勝負にならないよ。別に王宮の中に入らなくても、外で強姦魔を迎え撃てばいいことだし。こんな勝負やめとこうかな。それとも、この勝負は僕にとって何か意味があるのだろうか。


 ラルゴは魔方陣の中に入るのを躊躇していた。

「どうした?」ブドゥックが声をかけた。「ギブアップかね」

「はぁ、やっぱり僕は……」


「情けないな、ラルゴ」女性の声が天から降ってきた。聞き覚えのある声だ。「そいつらごときに勝てなくては、強姦魔に立ち向かうことはできないぞ」

 ラルゴは上を見た。王宮の三階の窓辺にコーダが立っていた。純白のドレスに重そうな金の鎖のネックレス、腕組みをして、女王然とした尊大なまなざしで魔法陣を見下ろしている。


 四勇者はコーダに気付くと、彼女の方に向かって跪き、頭を下げた。

「失礼をいたしました。この方は女王陛下のご友人でございましたか」ブドゥックが頭を垂れたまま、大きな声で尋ねた。

「友人などではない。ただの知り合いだ」コーダは毅然とした口調で答えた。「その者は、じきここにやってくる悪魔を捕えるために遣わされた。だが、それだけの力を備えているか甚だ疑問だ。お前たちを倒すこともできなければ悪魔退治など到底かなうまい。勝負を続けよ。もしお前たちの誰にもそいつが勝てなければ、王宮から叩きだすが良い」

「ははっ」四勇者は声を揃えた。


「ラルゴよ。お前には素晴らしい童貞力があるとインキュバスは言っていた。その力を見せてみろ」コーダは叱りつけるような強い口調で言った。

 しかし、童貞力っていったい何なんだい? ラルゴはコーダに尋ねてみたかったが、それもかなわず、ブドゥックに魔法陣の中央に押し出された。「女王様は君が闘うことを望んでおられる。シトゥルかグンデルに勝って、ご期待にこたえてみろ」


 ラルゴはシトゥルと向き合った。童貞力が何なのかさっぱりわからないが、とにかく何とかやってみよう。


 ラルゴはガキ大将時代のケンカ殺法でシトゥルに向かっていったが、ヒョウのようにしなやかで敏捷なシトゥルにことごとくかわされ、逆に、手刀や蹴りを数発食らわされた。シトゥルはラルゴに致命傷を負わせるつもりはなく、ただ魔法陣の外に出そうとしているだけだから、一〇〇%の力を込めてはいない。ラルゴは土俵際で何とか踏ん張った。


 やれやれ、これは手っ取り早くケリをつけた方が彼のためだな。サンドバッグ状態のラルゴを見かねたシトゥルはラルゴの腹に思い切り回し蹴りを食らわして、魔法陣の外に吹っ飛ばした。

 ラルゴは大の字になって仰向けに倒れ伸びてしまった。


 コーダの部屋の床でラルゴは眠っていたが、夢の中での四勇者との闘いに反応して、時折体をビクリと揺らし、苦痛に顔をゆがめ、うめき声を上げる。

「プハー」インキュバスはたまらずラルゴの鼻の穴から飛び出してきた。


「どうしたね?」ベッドで眠っているコーダの額の上のサキュバスが尋ねた。

「なんだか知らねえが、ラルゴの体にビンビン衝撃が伝わってくる。スケルツォはまだここに来てないのに、夢の中でこいつはいったい何をやってるんだ?」

「コーダは夢の中の世界で屈強な護衛たちに守られている。私がそういう設定にしたんだが、ラルゴはそいつらともめてるんだろうよ」

「とにかく、居心地が悪くて仕方がない。外に出ていることにするよ」小グモの姿のインキュバスはヒョイとベッドの上に跳んだ。


 その時、サキュバスは触角をピクリと動かして、フワリと飛び上がった。「おいでなすったようだよ」

 インキュバスにも玄関の方から物音が聞こえてきた。何者かがドアを開けて入ってきたようだ。鍵はしっかりかかっていたはずだ。栄光の手の魔力で扉が開けられたのだ。スケルツォに間違いない。ミシッ、ミシッと重量級の足音が近づいてきて、生臭い臭気が室内に漂い始めた。


「インキュバス、大きくなってラルゴをベッドの下に隠せ」

「合点」

 インキュバスは本来の妖魔の姿に戻り、眠っているラルゴをコーダのベッドの下に移した。

「それじゃ、あんたはバスルームにでも隠れていておくれ」サキュバスは早口で言った。「私が奴を眠らせるから」


 インキュバスがバスルームに引っ込んでドアを閉めて数秒後に、白い仮面を着け右手に栄光の手をはめた男が部屋に入ってきた。間違いなくスケルツォだ。


 スケルツォは部屋の中を見回し、息を荒くしながらコーダの眠るベッドに近づいていった。既に、ズボンの前の方は激しく突っ張り、テントを張ったような状態になっている。


 サキュバスはあわてて飛び上がり、スケルツォの頭の上でホバリングしながら鱗粉を撒き散らした。鱗粉は粉雪のようにスケルツォの髪にかかり、顔の前にも飛んだが、獲物を前に興奮しているスケルツォは気づかない。平然とベルトを緩め、ズボンとパンツをずらし、眠っているコーダに襲いかかろうとしている。

「インキュバス、出てきてスケルツォを止めてくれ」サキュバスが叫んだ。「私の鱗粉が効かないんだ」


 インキュバスはバスルームから飛び出してきて、後ろからスケルツォに勢いよく飛びかかって羽交い締めにした。

「またお前か。懲りん奴だな」


 スケルツォは背後のインキュバスに何度も強烈な肘打ちを食らわしたが、インキュバスは締める腕を緩めることなく耐えた。


 その間にサキュバスは、小さな体のどこから出てくるのかと思うぐらい大量の鱗粉を、パルメザンチーズのようにスケルツォに振りかけた。


 スケルツォの着けている仮面が、鱗粉が目や口に入り込むのを防いでいたが、サキュバスが大量に撒き散らしたものだから、幾分かは顔との間のすき間や仮面に開けた呼吸用の小さな二つの穴から体内に取り込まれたようだ。何度か苦しそうに咳をした後、インキュバスを肘打ちする勢いが弱くなった。


「鱗粉が効いてきたようだ。何とかもう少し踏ん張れ」なおもサキュバスは力一杯羽ばたいて鱗粉の雪を降らせる。

 鱗粉を吸い込んで頭がぼやけてきたスケルツォは、必死に食らいつくインキュバスを剛力で引きずりながらコーダに近づき手をかけようとしたが、そこで睡魔に負けてベッドの横でがくりと座り込み、眠りに落ちた。


「やれやれ、手こずらせやがって」インキュバスはフゥと息をついた。「これで、この宿主の男の魂だけがコーダの夢の中に誘い込まれたわけだな」

「ああ、妖魔の魂は私の作った夢世界には入れない。だからスケルツォはこの体の中で眠って……」サキュバスはスケルツォの本体である仮面の上に舞い降り、触角をピクピク動かした。「おかしいな。ここにはスケルツォの魂がいない」

「何だって?」

「おそらく、スケルツォは宿主の魂を操っていたとかいうのではなく、二つの魂は融合していたのだ。だから、スケルツォもコーダの夢の世界に入ってしまった」

「よほどスケルツォとこの野郎は相性がいいんだな。しかし、それじゃラルゴは夢世界でスケルツォと闘わなければならんということだ」

 サキュバスはうなずいた。「大変なことになった。ラルゴは殺されるかも知れんぞ」

「ラルゴの童貞力の強さに賭けるしかないな」インキュバスはコーダの安らかな寝顔を見ながら言った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る