6 コーダとサキュバス
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週末にラルゴは自転車に乗ってフォギータウンの中を走り回った。サキュバス、正確にはサキュバスの憑いた女を探すためである。サキュバスの居場所は、五〇〇メートルほど近づけば匂いと気配で感知できるとインキュバスは言った。フォギータウンはそう大きくない町だから、一日走り回れば必ず発見できるはずだと。
トリル風邪まん延防止のための外出制限は続いており、役場職員であるラルゴが自転車で走り回るのは好ましいことではないのだが仕方がない。感染を防ぐため、外出時はマスクを着用することが推奨されているのだが、ラルゴの体の中にいるインキュバスは彼の鼻を通して匂いを感知するので、「マスクをしていると匂いがわかりにくい」と言って外すようラルゴに言った。マスクをせずに自転車で走り回る姿を警官に見られたら、捕まって牢屋にぶちこまれるんじゃないかとラルゴはヒヤヒヤものだった。
「だいたいこのあたりにいるようだ」
早朝からフォギータウンをグルグル走り回って、夕方になってようやくインキュバスが見当をつけたのは結局、町の中心部に近い一角、劇場や音楽ホール、図書館などが集まる文化ゾーンと呼ばれるエリアだった。
「このあたりをじっくり探す必要がある。お前、自転車を降りて歩け」インキュバスはラルゴに命じた。
ラルゴは言われた通り、劇場の前に自転車をとめて歩き出した。
トリル風邪感染を拡大させぬよう、無用の外出は自粛せよというお触れにより、出歩いている人の数はきわめて少ない。コンサートや演劇などの催しはすべて延期され、劇場やホールは閉ざされているはずだ。界隈はゴーストタウンみたいにひと気がない。陽が傾きかけて寂しい限りだ。
「本当にこんなところにサキュバスがいるの?」
「正確には、サキュバスに憑かれた女だが、このあたりにいるのは間違いない。夢魔特有の気配がビンビン響いてくる。もうしばらく歩いてみろ」
ラルゴが歩き続けていると、後ろから急ぎ足の靴音が聞こえてきた。
「おい、君。ちょっと止まりなさい」
ラルゴが振り向くと、顔の下半分を大きなマスクで覆った制服警官が一人立っていた。それほど大柄ではないが、肩幅が広いスポーツマンタイプの男だ。
「どこへ行くんだね?」
「はい。まあ、特にどこということはないんですが、ちょっと人を捜していまして……」
「外出自粛令が出ているのを知らないのか」
「いや、もちろん知ってますが、急ぎで人を見つけなきゃならないんで」
「どうしても外出しなければならない時はマスクをしたまえ」
「あ、はい。すみませんでした。マスクは持っていますから、ご心配なく」
ラルゴはあわててポケットからマスクを取り出して顔に付けた。
「それで、誰を捜しているのかな?」
「えーと、あのー、特に誰ということはないんですが、ちょっと事情がありまして……」
しどろもどろなラルゴの答え方が挙動不審に見えたのだろう。警官の目つきが険しくなった。
「君、名前は?」
「ラルゴと言います」
「仕事は何をしているんだ? 学生かね」
「いや、町役場に勤めています」
「身分を証明する物を何か持っているか?」
ラルゴはポケットから役場の職員証を出して警官に渡した。そこには顔写真が貼ってある。警官はラルゴの顔と写真をしげしげと見比べた。
「ではラルゴ君」警官はラルゴに職員証を返しながら言った。「ちょっと署まで同行してくれないかね。いろいろ聞いてみたいことがあるので」
「もしかして、僕を強姦殺人犯じゃないかと疑ってます?」
「この時期、町を一人でうろついている者はほとんどいないからね。うろついている男がいればいろいろと聞いてみる必要がある」
「僕が強姦殺人犯に見えますか?」
「凶悪な犯罪をおかした奴を捕まえてみると、えっ、こんなおとなしそうな男が……とびっくりすることもよくあるんでね。とりあえず署まで来てもらおう」
フォギータウンの警官の中にはチンピラから賄賂を受け取るような不埒でいい加減な奴もいるが、この警官はそういうタイプではなく、職務に忠実な模範生のようだ。しかし、それだけにやっかいだ。やましいことは何もないが、強姦殺人鬼を捕らえるために妖魔の憑りついた女を捜しているなんてことを警察署で話しても信じてもらえるはずがない。
どうしたものか、ラルゴは迷った。走って逃げようか。いや、このお巡りさんはかなり体力ありそうだから、すぐに追いつかれて署に引っ張っていかれるだろう。
その時、ラルゴの右の鼻の穴がモゾモゾした。インキュバスが体の外に出たのだ。付けていたマスクと頬の間から飛び出したインキュバスは銀の糸を吐き出して宙を飛んだ。警官はそれに気付いていない。
「ラルゴ、今目を閉じるなよ」インキュバスはラルゴの心に呼びかけた。「このオマワリを眠らせる。目を閉じたらお前も夢の中に入ってしまうかならな」
ラルゴはしっかりと目を見開いた。インキュバスは警官の体の周りをフワーッと飛んで糸を巻きつけた。
「あれ……何だか眠くなってきたな」警官の目がトロンとして、泥酔したように頭がフラフラ揺れ始めた。「ちょっと、君、少しだけそこで待っていてくれたまえ」
警官はヨロヨロ歩いて、近くにあったバス停のベンチにドサッと腰を下ろすとガクリと眠りに落ちた。
「これで大丈夫だ」インキュバスはラルゴの体に戻ってきた。「こいつは当分目を覚まさねえよ。さあ行こうぜ」
ラルゴはマスクを外してまた歩き始めた。劇場と音楽ホールの前を過ぎ、小さな公園を抜けるとレンガ造りの図書館の前に出た。
図書館の正面から、三冊の本を抱えた学者風の老人が出てきた。どうやら通常通り開館しているらしい。ラルゴは入口横の壁に掲げられている案内板を見た。
開館時間は朝9時から夕方5時まで。腕時計を見ると、5時3分前、まもなく閉館だ。
「入ってみよう。この中にいるのは間違いないようだ。サキュバス特有の淫靡な匂いが漂ってくる」とインキュバスは言った。
ラルゴは館内に入り、二階にある閲覧室に向かって階段を上っていった。途中、下りてくる者たちとすれ違う。最初は大人しそうな男子大学生。続いて、女子高生の三人組。ペチャクチャしゃべりながら下りてくる彼女たちに道を譲って、踊り場の端に寄りながら、ラルゴはインキュバスに問うた。「この女の子たちのどれかでは?」
「違う」インキュバスは即座に否定した。「サキュバスは年季の入った処女を好む。十代の子供には憑かねえんだ。それにこいつらはどいつも処女じゃねえよ」
「そんなことわかるの。たいしたもんだ」
「ま、プロの眼ってやつかな」
その後は誰も下りてこなくなった。階上のスピーカーからのどかな音楽とともにアナウンスが流れてきた。
「ご来館の皆さま、閉館の時間となりました。申し訳ございませんが、ご覧になっている本を元の位置に戻して、すみやかにご退室くださいませ」
ラルゴは二階に上がって、閲覧室の入口に立った。広い閲覧室には誰の姿も見えない。ただ、本のページをめくる音がどこからか聞こえてくる。
「いたぞ、あそこだ。間違いない。あの女の中にサキュバスがいる」インキュバスが言った。
「どこ、どこ?」ラルゴはキョロキョロと室内を見回した。
閲覧室の奥、「貸出・返却」と書かれた札の下がったカウンターの向こうの柱のかげから人の背中がのぞいている。ページをめくる音は間違いなくそこから聞こえている。
ラルゴはズンズンとカウンターの方に向かって歩いていき、柱のかげにいた人物の姿をとらえた。バサバサの黒髪を肩まで垂らし、太い黒縁のメガネをかけ、大きな黒いマスクをつけた三十代前半の痩せぎすの女。貸出から戻ってきた本に傷がついていないか、落書きされていないか、コーヒーやスープなどこぼしていないか1ページ、1ページチェックしている。それが閉館後の彼女の日課なのだ。彼女は医者か研究者のような白衣をまとっており、胸につけた大きな名札には「司書 コーダ」とある。
ラルゴはなおもズンズンとカウンターに歩み寄っていったが、彼に気づいたコーダはその姿を見て驚愕し、目を丸くして、右手のひらを彼に向けて「ストップ」と制止した。
「な、な、何ですか、あなた」コーダは二重につけているマスク越しにくぐもった声で叫んだ。「マスクをつけなさい!」
「ごめんなさい」ヘビににらまれたカエルのようにラルゴは足を止め、ポケットから白いマスクを取り出して装着した。
マスクをきっちり付けて鼻と口を隠したラルゴが歩み寄ろうとするのをコーダは再び制止した。
「それ以上近寄らないで!」コーダはこめかみをヒクヒクさせて金切り声を上げた。「私は閉じられた環境の中で、三親等までの親族を除く十五歳から六十五歳までの男性に二メートル以内に近づかれると、じん麻疹が出るのっ」
「はあ」
「何のご用ですか? 図書館は閉館しましたよ」
「いえ、僕は図書館に用があるわけではなくて、あなたに用があるんです」
コーダの頭の上にたくさんの?マークが立った。「あなた、いったいどなた?」
「僕は町役場に勤めているラルゴと言います。今、町を騒がせている連続強姦殺人犯を捕まえるのに、あなたの力をお借りしたいんです」
コーダの頭上にさらにいっぱい?マークが立った。「何言ってるの、あなた。さっぱり意味がわからないわ」
話が進まないのでイライラしたインキュバスが直接、コーダの中のサキュバスに呼びかけた。
「サキュバス、いるんだろ、そこに。俺だよ」
「その声はインキュバスか。久しぶりだな」音としては聞こえてこないが、ラルゴの脳に不機嫌そうな中年女性の声が響いた。間違いなく女の妖魔がコーダの身体の中にいるのだ。「大人しそうなガキなのに、卑猥な気配を漂わせているからおかしいなと思ったんだ。やっぱりお前だったんだな。お前好みの童貞力の高そうなガキじゃないか。いいのを見つけたな」
「お前こそ、処女力満点の女の中にいるじゃないか」
「このコーダは筋金入りだよ。さっき言ってたように、こいつはひどい男アレルギーでね。生身の男に触れることもできない。その一方で心の中には性的な欲望が充満している。まさに百年に一人の逸材だよ」
コーダはサキュバスの言葉に赤面した。「そんなこと言うのやめてよ」
サキュバスは苦笑した。「ところで、どうしてあたしんとこへ来たんだい? 連続強姦殺人犯がどうかしたのか?」
「実はありゃスケルツォなんだ」
「地獄一の極悪妖魔スケルツォか。あいつが地上に出てくるなんて珍しいな」
「お前と同じように、奴も百年に一人の逸材を見つけたんだろう。俺は一度、対決したんだが、まるでかなわなかった。スケルツォの魔力と憑かれた男の欲求不満パワーが一体化して、超大型の竜巻みたいにすげえ勢いだった」
「それで、あたしに手伝えと言うのか」
「お前の夢の中にスケルツォに憑かれた男を誘い込めれば勝機はあると思ってな」
「面倒くさいね。何であたしがそんなことしなけりゃならないのさ」
「スケルツォは妖魔の面汚しだぜ。とっちめてやろうじゃないか」
「どうでもいいね。あたしにゃ関係ないよ。あんたにとっちゃ商売がたきみたいなもんかも知れないけどさ」
「バカなこと言うんじゃねえよ。このラルゴはこう見えて正義感の強い男でな、町に平和を取り戻したいと切に願っているんだよ。お前、昔はずいぶん助けてやったじゃないか、ここらで一肌脱いでくれてもいいんじゃないか」
「フン、でもまぁクソ野郎を懲らしめるのも面白いかも知れないね。コーダがやってもいいと言うなら手を貸すよ」
コーダは眉を吊り上げた。「お断りします。凶悪犯を捕まえるのは図書館司書の仕事ではありません。そういうことは警察にお任せされるべきではないでしょうか」
「無理だな」インキュバスは即答した。「妖魔憑きは人間の警察じゃ捕まえられない」
「だったら地獄の獄卒を呼んできたらどうかね」サキュバスが言った。「やっぱり専門家に任せるのが一番じゃないかね」
「閻魔の承認を得るのにどれだけ時間がかかると思ってるんだ。地獄は究極の官僚社会だ。獄卒の出張許可を取るまでに、フォギータウンの金髪巨乳美女は全員殺されてしまうぜ」
「とにかく、私は協力するつもりはありません。お帰りください」コーダはキッパリと言った。
その時、奥のドアが開いて、地味なスーツを着た大柄な中年女性がショルダーバッグを提げて出てきた。やや赤みがかった金髪を束ねているが、染めているようで、後れ毛の根元が銀色に鈍く光っている。
「あっ、ヴィーデ館長」コーダは硬かった表情を和らげて立ち上がった。
ヴィーデの顔の下半分は大きなピンクのマスクで覆われていたが、にこやかな目でラルゴとコーダに会釈した。
「お疲れ様でした」コーダは深く一礼した。
ヴィーデ館長は立ち止まり、コーダの方を向いた。「お客様なの? ご苦労様ね。あまり無理はしないようにね。時間がかかることなら、明日にしてもらいなさい。すまないけど、私は先に帰らせてもらうわね。歯医者さんに予約を入れているものだから」
ヴィーデは大きなお尻を揺らしながら出ていった。
上司を見送ったコーダは再び表情を硬くした。「私ももう帰りますから、皆さんも退出してください。残念ですけど、殺人犯退治にはご協力できませんので」
ラルゴとインキュバスはフゥとため息をついた。どうやらコーダを説得するのは難しいようだ。
「わかりました。でも、もし気が変わったら教えてください。僕は町役場の一階に勤めていますので」
ラルゴは図書館を出た。既に陽は落ちており、月は分厚い雲に隠されていた。
「雨が降ってきそうだな」
ラルゴは家路を急いだ。案の定、途中で雨が降りだし、ラルゴは駆け足で帰った。フォギータウンは雨の季節を迎えたようだ。しばらくは雨の日が続くかも知れない。
夜、家の中で、ラルゴとインキュバスはいかにすればスケルツォを捕らえるか話し合った。
「森の妖魔たちに協力してもらって総出でスケルツォに立ち向かったらどうかな?」とラルゴは提案した。
「ダメだな。勝ち目はないよ。ネズミが束になってトラに向かっていくようなもんだ」インキュバスはあっさり否定した。
「スケルツォには勝てなくても、取り憑かれている男の正体がわかれば、そいつを警察に通報すればいいんじゃない?」
「そのためには奴の付けている白い仮面を割るしかないが、それは至難の技だ。やはり、サキュバスに頼んで奴をコーダの夢の中に誘い込むしかチャンスはないんじゃないかな」
「でも、コーダさんは首を縦に振ってくれそうにないね」
「うーん……そうすると、地獄に掛け合って、獄卒をこっちによこしてもらうしかないんだが、これぐらいのことではなかなか地獄は動かねえからな」
考えても他に良い方法が思い浮かばないので、あきらめて話を打ち切り、ラルゴは眠りについた。
翌朝も雨だった。ラルゴは役場にやって来た町民の噂話で、また新たに連続強姦殺人の犠牲者が出たことを知った。何とそれは町立図書館の館長だと言う。
「昨日会った、ヴィーデとかいうあのデカいおばさんかい?」インキュバスは驚いていた。
「たぶん、そうなんじゃないかな」
「まあ確かに、染めていたんだろうが、髪の毛はキンキラキンだったし、丸っこい身体をしていたから、それなりにおっぱいも大きかったんだろうが、しかしなあ、スケルツォ、いや取り憑かれている男も見境なしだな」
「人の好みは色々だからね」
「まあな。ある男にとっては何の魅力も感じない女でも別の男にとってはたまらなく魅力的だったりする。だからこそ世の中が成り立っているんだが」
ラルゴが退勤する夕方の5時には雨がいっそう激しく降っていた。
傘を広げてラルゴが庁舎を出ようとした時、門の外に、黒っぽい服を着た何者かが傘をさして立っているのが見えた。激しい雨にさえぎられて男か女かもわからない。
ラルゴが門を通過するのと同時に、立っていた人物が彼に少しだけ近づいた。ラルゴが出てくるのを待っていたのだ。
それはコーダだった。彼女は喪服を着ていた。男アレルギーの彼女が精一杯近づいてきた時、ようやくラルゴは彼女に気づいて足を止め、まじまじと彼女の顔を見た。
コーダの頬は濡れていた。それは雨のせいではなかった。
コーダはラルゴの顔をジッと見て言った。「殺人鬼を、うちの館長を殺した奴を捕まえてください。私も手伝います」
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