2 夢魔インキュバス

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 額にサイのような角を生やした、身の丈三メートルほどの一つ目の巨人が大木の樹上から降りてきて、沼の中へ入っていった。


 かなり少なくなっていたが、ラルゴの吐く泡はまだわずかに水面に上がってきていて、彼の沈んだ位置を教えていた。


 巨人は泡の浮かんでいるところまで歩いていくと、身をかがめて太い右腕を水中に突っ込んで、ラルゴの足をつかんで泥の中から彼を引きずり出し、近くの木の根元にポイと放り投げた。


「まったく、こんなところまで来て死なれちゃ迷惑なんだよね。亡霊になってウロウロされちゃ、わずらわしくて仕方ない」と巨人はぼやいた。


 その声にこたえて、足元まで白ひげを生やした三十センチほどの小人のじいさんが土の中から現れた。「自殺志願者かい?」


 続いて、木々の間から大蛇が這い出してきた。その両眼はルビーのように紅く輝き、チョロチョロ動く長い舌はまるで火を吐いているように見える。「バカな酔っぱらいじゃないの」

「そのどっちかだろうな」巨人が彼らに答えて言った。「あるいはその両方かも知れん」


 ラルゴは目を閉じて仰向けに横たわっていたが、まだかすかに息をしていた。たらふく沼の水を飲み込んで腹がボコッとふくれている。


 フクロウの頭をした鳥人、コンドルほどの大きさのハエ、槍を持った三人の白骨の兵士たち、頭の後ろにも大きな口がある長い髪の美女などなど、たくさんの妖魔が何だ何だと物見遊山のように集まってきてラルゴを取り囲み見下ろしている。


「まだ生きてるな」

「だいぶ水を飲んじまったらしい。肺の方にも入ってるかも知れん。吐き出させてやれ」

「私が吸い出してやろう」そう言ったのは、長さ五メートルほどの靴ひもみたいなサナダムシ風の長虫だった。「そいつの口を開けさせてくれ」


 巨人が指でラルゴの口を開くと、長虫は胃カメラのようにその中に入っていった。ノドを通る時、ラルゴは「ウゲッ」と声を上げたが目は覚まさなかった。長虫はしばらく体内のアチコチをゴソゴソした後、頭を抜き出し、沼の方に向かって泥水を吐いた。「これで大丈夫だろう」


 ラルゴは意識を取り戻し、ゲホゲホっと激しく咳をして、うっすらと目を開けた。異様な姿の妖魔たちに取り囲まれているのを知って一瞬ギョッとしたが、不思議なことに酔いはさめていても恐怖は感じなかった。見世物小屋の一座を見ているようだった。自分を底なし沼から救ってくれたのは彼らなのだろう。


「お前さん、死のうと思ってここに来たのかね?」白髭の小人が尋ねた。

 ラルゴはうなずいた。

「何で死のうと思ったんだ?」一つ目の巨人が尋ねた。

「彼女が全然できなくて、一生ひとりで過ごすのかと思うとイヤになってきてね」

「お前、童貞なのか?」毛むくじゃらの顔に八つの目、六本の腕を持った妖魔が前に出てきてぶしつけな質問をした。

「……」

「恥ずかしがることはねえ。童貞ってのはすごいんだぜ。宗教的な奇跡を起こす聖人ってのはだいたい童貞だ。童貞には力があるんだよ」

「僕は奇跡なんか起こしたくない」

「まあ、そう言うな。恋愛下手の童貞だって楽しく人生を送れるってことを俺が教えてやるよ。俺は童貞が好きなんだ。童貞を悲観して自殺するなんて忍びない。俺がお前に憑いて力を貸してやろう」


 そう言うと、クモの妖魔はポンっと姿を消したように見えたがそうではない。いかつい妖魔は蚊ほどの大きさのちっぽけなクモに身を変え、銀色の糸をなびかせてラルゴの額の上に乗った。そして、スッと鼻の穴に入った。

「くすぐったい」そう思ったのは一瞬だけで、その後すぐに泥まみれになった身体がスーッと軽くなったように感じた。

「立ち上がれ」クモの妖魔はラルゴの身体の中から呼びかけた。「お前ら人間の一生は短い。グズグズしているヒマはないぞ。さっさと帰って、その泥だらけのナリをなんとかしねえとな」


 ラルゴはよっこらしょと立ち上がって、妖魔たちに見送られて森を出た。クモの妖魔が体内からナビゲートしてくれるので迷うことはなかった。森を出た後、舗道を歩きながら、ラルゴと妖魔は心の中で会話した。


「俺の名はインキュバスという。夢魔インキュバスだ。よろしくな。お前の名は何という?」

「ラルゴ」

「ラルゴよ。嘆くことはないぞ。童貞でもセックスが楽しめることを俺が証明してやる。一生を童貞で過ごしたいにしえの聖人たちも、実は俺たちの手ほどきでセックスを楽しんでいたんだ」

「セックスしたら童貞でなくなるじゃないか」

「肉体を接することなく、心でセックスするんだよ。夢の中の世界で女と交わるんだ」

「エッチな夢ならしょっちゅう見てるよ。時々夢精することもある」

「それとは別物だ。俺はお前がセックスしたいと思う女を夢の世界に引きずり込む。お前が夢の中で女のおっぱいをもめば、眠っている女はおっぱいをもまれているように感じて興奮するんだ。わかるか?」

「うーん、よくわかんないや」

「実際にやってみせよう。ほれ、あそこのバス停にベンチがあるだろう。あのベンチに座れ」


 もうバスの運行時間は終了していて、バス停には誰もいない。ラルゴは、インキュバスに言われた通りベンチに腰掛けた。


 通りの反対側にはパブがあった。もう深夜に近い時間だが結構賑わっている。路上のテラス席でも数組の客が飲んでいる。

「あそこにひとりで飲んでいる女がいるだろう。見えるか?」


 真っ白なジャケットを着こなしたショートヘアのキャリアウーマン風の女性がチーズをつまみにワインを飲んでいる。四十前後だろうか、高い地位にいる女性なのだろう。目つきは鋭く、男が近づき難い雰囲気を漂わせている。

「大年増で不満かも知れないが、とりあえずお試しってことで、あの女でいってみよう。どうだ? あの女とヤル気になりそうか?」


 その時キャリアウーマンが脚を組みかえ、白い太ももがチラリと見えたのでラルゴは刺激され、ペニスがピクリと動いた。普段ならこの程度のことで勃起することはないのだが、フェルマータとの経験への期待がはぐらかされて、行き場のないエネルギーが蓄積されていたのだ。


「大丈夫そうだな。それじゃ行ってみようか」

 インキュバスは上を向いたペニスを通って体の外に出てきた。

「くすぐったいな。何でそんなところから出てこなくちゃならないの」

「夢魔としての出陣の儀式みたいなものだ。気にするな」

 インキュバスは小グモの姿でパンツの中からズボンの裏を通り裾から出ると、ピョンピョン跳ねてラルゴの肩まで上ってきた。

「ラルゴ、俺を手のひらに乗せて、あの女に向けて息を吹いて飛ばせ」

 ラルゴは言われた通りにした。右手のひらを上に向けて広げると、インキュバスはひょいと跳び移った。ラルゴは手のひらを口元に持っていき、深く息を吸い込んだ後、口をすぼめて通りの向こうのパブへ向けて思い切り息を吐いた。


 お尻から糸を伸ばしたインキュバスは、手から離れた凧のようにふわりと上昇し、糸を舵のようにうまく操って車道を越え、パブへ向かってまっすぐに飛んでいったが、小さいものだから、途中でラルゴからは見えなくなった。


 ラルゴはキャリアウーマンを注視していた。彼女はワイングラスを空にして、ウエイターにお代わりを頼んだ。ウエイターがうやうやしく赤ワインを彼女のグラスに注いで立ち去った時、インキュバスの声が頭の中に響いた。

「ラルゴ、無事に女の体に到着した。目をつむってみろ」


 ラルゴはまぶたを閉じた。すると、驚いたことにまぶたの裏に女の耳が映った。自分の目ではなく、キャリアウーマンの服の上にいるインキュバスの目に映ったものが見えているのだ。見えているだけではない。彼女の息づかいや隣の席にいる酔客の笑い声も聞こえてくるし、彼女がクチャクチャ食べているチーズの臭いもする。彼女の体温も感じられる。


「いいかラルゴ、これから俺はこの女の体に糸を巻きつける。そうすると女は眠りに落ち、俺が設定した夢の世界に引きずり込まれる。同時にお前も眠りに落ちて、その夢の世界で彼女と二人きりになるんだ。お前は女を好きなようにしていい」

 言い終わると、インキュバスは背中から、右脇腹、小高い胸、左脇腹とキャリアウーマンの胴を一周した。彼女はクモが体にまとわりついていることに全く気付いていないようだ。しばらくすると、キャリアウーマンはワイングラスを置き、腕組みしてガクリと眠ってしまった。それと同時にラルゴも眠りに落ちた。


 意識を取り戻すと、ラルゴの目の前に大海が広がっていた。彼は南洋の孤島にいる。それがインキュバスが設定した夢の世界なのだ。ラルゴは砂浜に座っている。そして傍らにはあのキャリアウーマンがいる。二人がたまたま乗り合わせた客船が難破して、彼らだけが運良く島に流れ着いたというシチュエーションらしい。キャリアウーマンはなまめかしい下着姿。ラルゴも半ズボン一丁で上半身は裸だ。何でそんな恰好なのかはわからない。夢だからいい加減なものだ。


「でも助かったわね、私たち。この島に流れ着いて運が良かったわ」キャリアウーマンが声をかけてきた。

「そうですね。食べ物には困らないみたいだし……」ラルゴが振り返ると、ヤシやマンゴー、バナナなどの樹がたくさん生えている。夢の中らしい都合の良さだ。「ここでゆっくり救助を待ちましょう」

「そうね。私ずーっと働き詰めで、ちょっとだけ休もうと思って船旅に出たんだけど、これで休暇が伸びてゆっくり休めるわ」

「いそがしいんですね」

「運送会社で営業部長をやっているの。でも部下の男どもが使えない奴ばっかりでね。毎日怒鳴り散らしてばっかりでストレスはたまる一方」

「結婚はしてないんですか?」

 キャリアウーマンは頭を振った。

「若い頃はいろいろ男と付き合ったりしてたんだけどね。結婚相手としては物足りなくて。仕事にのめりこんでいくうちに恋愛からは遠ざかってしまったわ。今では怖いオバサンだと思われて男が近づいてこなくなったわよ」そう言ってキャリアウーマンは苦笑した。

「そんなことないですよ。魅力的だと思います」

「ありがとう。やさしいのね。あなたは恋人いるんでしょ?」

「いないです。もてないもんで」

「信じられないわ。かわいい顔してるのに」キャリアウーマンはとろんとした目でラルゴを見た。「ここでは私があなたの恋人になってあげるわ。こんなオバサンじゃ不満かしら」

「そんなことないです。うれしいです」


 ラルゴが顔を近づけると、キャリアウーマンは目を閉じた。ラルゴは躊躇することなく唇を奪い、左手で肩を抱いて、右手をブラジャーの上から胸に当てた。


 これが夢だということはわかっているのだが、女の唇や舌、そして弾力のあるおっぱいの感触は生々しく、いつも見ている卑猥な夢と比較すると、モノクロの8ミリ映画とパノラマスクリーンに映し出されるフルカラー映画ぐらいの違いがある。


 キャリアウーマンは自分でブラジャーとパンティを脱ぎ捨て、ラルゴも素っ裸になって、二人は砂の上で抱き合った。


 ヴァーチャルなセックスでも、初体験は年上の女性の方が望ましいようだ。はやる気持ちで挑みかかってくるラルゴをキャリアウーマンはやさしくいなして、どうすれば女性が喜ぶのか実地で教えていった。彼女はラルゴを子犬のように愛撫し、自分の中に導き入れ興奮の高みに昇っていった。

「あなたの名前を教えて。いく時にあなたの名を呼ぶわ」

「ラルゴです」ラルゴは少しでも彼女の中にいたいと思ったが、すでに爆発寸前の状態であった。「あなたの名前は?」

「アレグレット……」

「ああ、アレグレット、もうだめです」ラルゴは勢いよく発射した。これまでの自慰や夢精では得たことのない感触だった。

「ラルゴ!」キャリアウーマンは白目をむいて絶叫した。


 そこで景色は暗転し、気がつくとラルゴは元通りバス停のベンチに座っていた。夢から覚めたのだ。パンツの前の方がべっとりと生温かく濡れている。やはり夢の中の出来事に過ぎないから、精液は女の中に注ぎ込まれず、自爆したのだった。パンツの中を見てみると驚くほどの量で、ズボンまで濡らしている。しかし、沼に落ちてもともと濡れていたから外から見た目には変わりない。


 キャリアウーマン、アレグレットの方はどうしたであろうか。ラルゴは通りの向こうに目をやった。

 アレグレットもハッとして目を覚まし、キョロキョロ周りを見回した。

 近くの席に座っている男たちは彼女を見てニヤニヤしている。アレグレットが夢を見ながらあえぎ声を漏らし、最後にラルゴの名を叫んだのをしっかり聞き取っていたのだ。

 アレグレットは、飲んでいるうちに眠ってしまい、いやらしい夢を見て声を上げたことを悟って赤面した。


 彼女は急いで勘定を済ませると、周りからの好奇の視線にさらされながら立ち去っていった。通りの反対側に夢の中の情事の相手が座っていることには全く気づいていない。インキュバスはアレグレットの背中からラルゴの方に戻るためにふわりと飛び上がった。

 あれは本当に夢だったんだろうか。ラルゴの口の中には彼女の舌の感触が残っているし、手のひらはまだ彼女のおっぱいの柔らかさを覚えている。実にリアルだ。これだけの体験をして今もなお自分が童貞だというのが不思議なぐらいだ。


 インキュバスが戻ってきた。肩の上に軟着陸し、ピョンピョン跳んで鼻の穴から体内に入った。

「どうだ、いい感じだっただろう?」インキュバスは自信タップリに言った。

「うん。夢だというのが信じられないよ」

「ドリームセックスなら、子どもができるような面倒なことは起こらない。性病にかかることもないしな。それでいて、実際のセックスと同じ快感を得られるんだ。明日からは誰でもお前の好きな女とやれるぜ。今夜はあんなオバサンで不満だっただろうがな」

「いや、そんなことはないよ。素敵な人だったな」ラルゴは遠ざかっていくアレグレットの後ろ姿を目で追っていた。「あの人は僕のことを憶えているの?」

「いいや。夢の中で若い男と抱き合ったというだけで、顔はボンヤリとしか憶えていないだろう」

「道でバッタリ出くわしても、僕が夢の中の男だってわからないんだね」

「せいぜい、あれ、この人とどこかで会ったような気がする、ぐらいのもんだろうな」

「そうか……」


 アレグレットの姿が完全に霧の中に消えた。

「ありがとう、アレグレットさん」ラルゴはつぶやいた。「どうぞお幸せに」


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