ラルゴのいかがわしい夢物語
幾富 累
1 妖魔の森
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霧が多いことで有名なフォギータウンの町役場。屋上には『霧の町フォギータウンへようこそ』と書かれた大きな看板が掲げられている。
役場の一階にある収入印紙販売窓口に座っているのが、この物語の主人公ラルゴである。
ラルゴは木こり一家の五人兄弟の末っ子として生まれ、山あいの村を出てこのフォギータウンへやって来た。ラッキーなことにすぐに役所の仕事が見つかって、職場ではいたってマジメに働いている。
山育ちなもので、高い木に登ったり、川に飛び込んだり、自分より大きな相手と取っ組み合いをするのは平気だが、女の子に対しては奥手で、二十歳を過ぎた今でも童貞である。
とびきりの美男子というわけではないが、わりと童顔で親切なので、女の子をお茶に誘ったりすると三回に一回ぐらいの割合でOKされる。だが、そこから先がうまく進まない。手を握ったり、顔を近づけてキスをする気満々なのだが、いやらしいと嫌われてしまうんじゃないかと怖れてできない。実際に一度、ぎこちなくいきなり手を握ったら、頬をビンタされて立ち去られてしまったという苦い思い出がある。それがトラウマになって、いつまでたっても先へ進めないのだ。今までデートした全ての相手と恋人未満で終わってしまった。
しかし、今度はうまくいくんじゃないかな。ラルゴは大いに期待していた。相手は役場の食堂でレジ係をしているフェルマータ。年はラルゴより二つ下で、金髪。おっぱいが大きくて、たぶん柔らかいのだろう。歩くたびにプリンのようにぷるんぷるん揺れるのがたまらない。
フェルマータは去年から食堂で働き始めたのだが、少しずつラルゴと言葉を交わすようになって、日曜日に映画に誘ったらOKしてくれて、その次の日曜は遊園地に一緒に出かけた。彼女は漁師町の生まれで、ラルゴと同じように一人でこのフォギータウンに住んでいる。
今日は三度目のデートで、仕事が終わってからレストランで食事をする約束をしている。まだ、手も握ったこともないけれど、いい感じでここまできている。食事が終わったら、夜の街を散歩しながら手を握って「僕のアパートへ遊びに来ない?」と誘ってみよう。部屋で二人きりになったら、いよいよ思いを遂げるチャンスだ。でも、いきなり最後まで突っ走るのは急すぎるかな。嫌われたら困るし、今夜はキスまでにしておいた方がいいかも。想像がふくらみ、印紙の整理をしながらラルゴの表情は知らずのうちにほころんだ。
「ラルゴくん、何か楽しそうだね」
後ろから声をかけられてラルゴが振り向くと、上司のスタッカート課長が立っていた。安物の地味な背広を自分の皮膚のように着こなしているさえない中年男だ。
「ええ、まあ」ラルゴはごまかし笑いをした。
「若い人はいいねえ、夢があって。私なんかもう夢も希望もないよ」
「はあ」
「大いに恋をして人生を謳歌したまえ。でもね、忠告しておくけどね。結婚はやめておいた方がいいよ。恋愛は天国でも、結婚生活は地獄さ。それはどんな美人と結婚したところで変わりない。私なんかもう、家内と子どものために働かされてる囚人みたいなものだ。スズメの涙ほどのお小遣いしかもらえなくてね。帰りにビール一杯引っかけることもできゃしない……」
ラルゴは苦笑いした。スタッカートの話はいつもこんな調子の嘆き節だ。こちらの方までやるせない気分にさせられる。
仕事が退けた後、ラルゴはオシャレで料理がおいしいと評判のレストランにフェルマータを連れていった。料理を味わいながら、子どもの頃の思い出や音楽の好み、役場の人たちのうわさ話などで盛り上がり、ほどよくワインの酔いが回ったところで外に出た。さて、問題はここからだ。
レストランを出ると、街は薄い霧に包まれていた。いい感じだ。舗道を歩きながら、「僕のアパートに遊びにこない?」と声をかけて、さり気なく手を握ってみよう。さり気なく、あくまでさり気なくだ。ラルゴの心臓は高鳴った。
「僕のアパートに……」ラルゴはスーッと右手を伸ばし、ラルゴの右中指がフェルマータの左中指に触れたが、そこでフェルマータはサッと手を離した。
「ゴメンね、ラルゴ君。実は私好きな人ができたのよ」
「え?」
「悪いけど、これ以上もう会えないわ。私ここで帰るね」
「……」
「食事おいしかったわ。ありがとう」フェルマータはニッコリ笑って、バイバイと手を振った。「じゃあね。さよなら」
フェルマータは小走りで道を横切って霧の中に消えていった。
ラルゴは呆然と立ちつくしていた。今度こそはうまくいくと思っていたのに、やっぱりこうなるのか。何が良くないんだろう。もしかして、女性が嫌う臭いでも発しているのかな。何でだかわからないけれど、たぶん僕は一生童貞で過ごすんだろうな。
ラルゴは自分が生きる価値のない出来そこないに思えてきた。いっそ死んでしまおうかな。死んで、生まれ変わったら、次はモテる男になれるかも知れないよな。もうそれしかないよ。そうだ、そうしよう。
どうやったら楽に死ねるかな? 首くくるのは苦しそうでイヤだな。刃物で手首とか切るのも痛そうだし、毒薬とかはどこで買えるのかわからない。
ラルゴは数日前に役場の先輩から聞いたうわさ話を思い出した。町の外れにある妖魔の森に夜、足を踏み入れた者は戻ってこられないのだそうだ。森に棲む妖魔どもに食われるとか、底なし沼に引きずり込まれて地獄に落ちるとかいう昔からの言い伝えがあるらしい。フォギータウンに来たときから、何で町中にあんな大きな森が残っているんだろうと不思議に思っていたのだが、たたりを恐れて誰も手をつけないんだそうだ。
よし、こうなったら、今からその森に入ってみてやろう。妖魔に食われようが、底なし沼に落ちようが構わないや。自分で死ぬ手間が省けていい。
そう決意したラルゴは霧の中を妖魔の森へ向かって歩いていった。
途中、酒屋がまだ開いていたので、ウイスキーのポケット瓶を買った。そんなものを買うのは初めてだったし、ウイスキーを口にしたことさえ数えるほどしかないのだが、森を前にした時に怖じ気づかないよう、酔っておいた方がいいかなと思ったのだ。
ウイスキーをチビチビ飲みながら歩き、妖魔の森にたどり着いた時には瓶は空になっていた。夜の森はとにかくひたすら暗い。しらふでは到底足を踏み入れる気にならなかっただろうが、酔っておいたことが功を奏して、ラルゴは無謀にも森の中に入っていった。
光といえば、霧のフィルターを通して差し込んでくる月光だけで甚だ頼りない。ラルゴは左右の手で交互に木の幹をつかみながらゆっくり進んだ。酔いが回り足元がおぼつかなくなってきて、何度も地上に浮き出た木の根につまずいた。ウンザリして戻ろうかと思ったが、前後左右わからなくなっていたので、来た道を逆にたどるのも難しそうだ。とにかく行けるところまで行ってみよう。もうどうにでもなれ、だ。化け物が出てくる気配はない。妖魔の森なんて名前はコケオドシだな。
歩いていくうちに、ラルゴの周りから木がなくなった。それとともに、地面が土から泥に変わった。一歩一歩進むたびに、靴の底の感触がゆるくなる。昨日、激しい夕立が町を襲ったが、その時の水たまりがまだ残っているのかな?
踏み出した右足がズボッと水の中に浸かった。違う、これは水たまりなんかじゃない。沼だ。これが噂の底なし沼なのか。死ぬ気でここに来たラルゴだったが、危険を感じて本能的に沼から逃れようとした。
しかし、沼はラルゴを逃さなかった。沼の底のホイップクリームのように柔らかい泥が彼を引きずり込んだ。ラルゴは腕をバタバタさせてもがいたが全くムダであった。ヘビに呑まれたカエルのように、ラルゴの姿は数秒のうちに、泡だけを残して完全に水中に消えた。
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