第5話桜色のきみ

窓を開けた瞬間、春の匂いと共に桜の花びらが辺りを包むように舞った。


春がはじまりを告げた。


美雨の恋人になるという願いを叶えた冬は終わり、近々桜が少しづつ咲きはじめるようになった。

その場から見下ろす桜の木は、徐々にピンク色に彩られているのがわかる。


まるで、美雨の後ろ姿のようだ。

淡いピンクの発色は、彼女を想わせる…そんな感じだった。


そうなると、声が聞きたい。


「もしもし」

「京水くん。どうしたの?」

「あのさ…今週の日曜日、桜見に行かない?」


美雨はしばらく考えた後


「うん!行きたい。実はその日お店休みなんだよね」


と嬉しそうに言った。

今までは僕が当たり前のように喜んでいたけど、最近は彼女もこういう誘いに喜んでくれる。


僕はもしかしたら、彼氏としての務めをちゃんと果たせているのかもしれない。

そう考えたら、やっぱり気持ちが空を飛んでいるみたいに落ち着かなかった。


「隣の町の大公園の桜がすごく綺麗らしいんだ。そこ見に行こうよ」

「うん」

「時間は十時でいい?」

「わかった…」


僕は電話を切ろうとする。しかし、美雨がそれを止めた。


「京水くん!早く会いたい」

「え…それは、僕もだよ。最近仕事であまり会えてないから…すごく会いたい」

「私も」

「大丈夫だよ。僕は美雨ちゃんのこと大好き」


それを聞いて、最後に彼女はうんと切なく言った。


「大丈夫?」


僕は聞いた。


「うん!大丈夫」


僕は一安心して、一言告げて通話を終えた。


毎日が、美雨によって鮮やかに染まっている。

僕の日々は、ひたすら彼女への想いでいっぱいである。僕の心を支える、一つの光のように…。


彼女が幸せなら、僕はもうそれでよかったのだ……。





熱は驚くほど下がっていた。

美雨は体温計を見て、ほっと胸を撫で下ろす。


仕事にも元気よく復帰し、いつも以上に丁寧に、数多くこなした。



そんなある日の休憩時間、昼食用のテーブルの向かい側に羽瀬川が座ってきた。


「藤崎さん、なにかいい事でもあった?」

「え、どうして?」

「最近ずっとにこにこしてるから」


この人は本当になんでもわかっちゃうんだ、ちょっと怖いくらい。

でも、嬉しいことがあったのは事実だ。


「日曜日…彼氏と花見に行くんです」


喋ってて京水の顔が頭に浮かんできて、つい微笑みが零れる。


「ずっと楽しみで、落ち着かなくて…」

「桜の季節だもんね」


羽瀬川は、コーヒーをすすりながら言う。

その表情は、どこか暗い。


「羽瀬川さん?」

「ん?」

「なにかあったんですか?」


美雨は聞くが、羽瀬川は表情一つ変えずに返す。


「ううん、なにもないよ。楽しんでおいで…」


羽瀬川は、柔らかい目で美雨に微笑みかけた。


「はい…」


美雨は、日曜日のことを考えながらカップを片付けにキッチンへ向かった。





この会話の前日、羽瀬川は市立病院の遊澤のもとへ訪れていた。

本当は美雨も一緒に連れてくる予定だった。だけどなぜか怖くて、彼女の反応を間近で見たくなくて…。


「来ていただいてありがとうございます」

「いえ…」


落ち着かない気持ちを胸に、椅子に腰を下ろす。


「あの…」


座るやいなや、遊澤に聞く。


「彼女は本当に、ALSなんですか…?」

「まだ確定ではありませんが…ほぼその可能性が高いです」


そんな馬鹿な…でも、事実だとしたら。

めまいでおかしくなりそうなのを、ぐっと堪える。


「ALSを簡単に説明しますと…主に運動神経に支障が出る病です。頭痛や下痢の他に手指が使いにくかったり、話が上手にできなかったり。呼吸困難に陥ることもわずかですがあります」

「死に至るものではないんですよね?」


しかし、遊澤は黙り込んでしまう。

ネットには死に至るとは書いていなかった。


「進行すると手足が動かなくなり、寝たきり状態になります。ごくわずかですが…」


羽瀬川は次にくる言葉を息を止めながら待つ。


「死に至る可能性もあります」


頭が真っ白になった。嘘だ、そんなくだらない話…あるわけがない。

どうして…医師が確信を持って言うのなら、こちらはもうなにも言えない。


「彼女は…死ぬんですか?」


聞くが遊澤はなにも言わない。


「どうなんですか遊澤さんっ!」


つい気が動転して叫んでしまった。慌てて口を押さえる。


「すみません…」


胸がきゅっと苦しくなって…息がしづらくなった。


「あの子には、なんと言えばいいですか?」


そもそも自分から伝えられるのか?


「本人にも言わなくてはなりませんが…僕から言いましょうか?」


どうしたらよいかわからなかった。


「お願いします」


だから、結局先生に任せることしかできなかった。


今までに感じたことのない、操りようのない黒く濁った感情。

羽瀬川は、痛みを覚える胸をぎゅっと押さえながら美雨のことを考えるのだった。





土曜日の午前、空は快晴だった。

明日からはじまる臨時休業に備え、羽瀬川は一人キッチンに立ちながら残っている食器の片づけを行っていた。


目の前の鏡を見上げる。

そこまで顔も老けてないはずだし、体も全然しっかりと動く。それなのに…。


四十五歳の僕がここまで元気なのに、まだ二十二歳の彼女が…寝たきりなんて。

死なせたくない、それだけは避けたいんだ。


僕は彼女が重い病であることを知っている。だけど美雨は、自分が病気だなんて知るはずもない…。


「僕にはなにもできないのか…!?」


悔しくてシンクの縁を勢いよく叩いた。


「羽瀬川さん?」


聞き覚えのある声にぎくりと肩が震える。

振り返ると、そこには美雨がいた。


「藤崎さん…」

「どうかしたんですか?」


きょとんとする美雨を前に、焦りを隠せない。


「きみこそどうしてここに?」

「本屋の帰りです。明日から休業だからちょっと寄ってみたんです」

「そうか…」


羽瀬川はバレないように愛想笑いを作るが、うまくいかない。


「羽瀬川さん、なにか隠してるでしょ」

「え?」


その質問に言葉を失う。


「そんなことないよ…」

「本当ですか?最近の羽瀬川さん、いつもと違う」


当たっている。だから、なんとも返せなかった。


「僕は大丈夫だよ…」

「そうですか?」


美雨は安心したように笑った。

あとどれほど、この笑顔を見られるだろう。


「楽しみかい?明日は」

「はい!服も買っちゃいました…」


美雨は嬉しそうに目を細めた。


「藤崎さん」

「なんですか?」


だめだ、言えない。楽しみなことがある子に…病気のことなんて言えない。


「いや、ごめん…なんでもない」

「ならよかった」


そうやって微笑む彼女は、まるで夢見る少女のようだった。

軽い足取りで歩いていく美雨を、扉からそっと見つめる。


どんな反応をするだろう、自分が病にかかっていると聞かされたら。

怖いだろうに…あれほど若い子が寝たきりなんて、考えたくもない。


先の見えない現状に、羽瀬川は頭を抱えることしかできなかった…。





二年前…僕が店員を募集するために面接を開いていた時のこと。

一人の若い子が面接に来た。


その彼女というのが、当時二十歳の美雨だった。

今と比べてみても、その時の姿はまったく変わっていない。


美雨は膝に置く両手を震わせていて、どこか緊張している様子だった。


「オーナーの羽瀬川です」

「藤崎美雨です。えっと…よろしくお願いしますっ」


緊張しながらも頭を下げるその姿は、ちょっぴり微笑ましくて笑ってしまった。


「きみはどうしてこの面接を受けようと?」

「えっと…自分の味で、沢山の人に幸せになってもらいたくて…」


質問に対する自分の答えに納得がいかないのか、美雨は小首をかしげる。

それは短い答えだったが、僕にはどこかしっくりくるものがあった。


「自分の味…か」


僕はふむふむとうなずきながら考える。


「あの~どこか変ですか?」


美雨は不安そうに聞くが、僕は微笑みながら言った。


「どんな味にしたい?」


美雨はしばらく黙ったあと


「羽瀬川さんのように、多くの人から愛される味です」


と緊張気味に言った。

なるほど…この子には教えがいがある、そんな直感が僕にはあった。


「作ってみるかい?」

「え?」


僕は立ち上がると、扉の前まで行った。


「コーヒー。作ってみる?」

「いいんですか…?」


実際高校生の時から通ってくれていたのはわかるし、どんな味を作るのかすぐにでも確かめたかった。

これは、僕の興味本位が出てしまったものだった。


カウンター席に座って、美雨のコーヒー作りを見守る。


「あの…上手にできるかわからないです」


泣きそうな目で見つめてくる美雨に、優しく言いかける。


「大丈夫。とりあえずやってみて?」


美雨はおぼつかない手つきで、いつも僕が使用している豆で手順通りに淹れていく。

彼女は高校生の頃、学校帰りに寄っては僕が作るコーヒーをいつも美味しいと笑顔で言ってくれた。

若くして両親を失くしていた彼女は、僕にとって本当の子どものような存在だった。


「できました…」


少しして美雨が言った。


「どれどれ」


僕がコーヒーの入ったカップを持とうとすると、美雨が慌てるように言った。


「羽瀬川さん…!美味しくできてないかもしれないですよ…?」

「飲んでみないとわからない。誰だって最初から完璧にはできないよ」


僕は心配する美雨を横に、コーヒーを一口すすって口の中でよく味わう。


「んぅ…!?」


その瞬間、体が動かなくなってしまった。


「羽瀬川さん…?」


美雨は不安そうに僕を見つめる。


「藤崎さん…これ、すごく美味しい」

「え?」


びっくりした、あまりに美味しくて。同じ豆を使っているのに、今まで飲んだことない新しい美味しさのコーヒーに衝撃を受けた。


僕は本当に驚いて一週間ほど味が忘れられないほどだったが、美雨は相当反応が嬉しかったのかとても喜んでいた…。





思い出すと涙が溢れた。

守ってやれない自分が情けなくて、どうしようもなくて…。


桜色に染まる町は、美雨の寿命を表しているかのようで、羽瀬川の胸をさらに苦しくさせた……。


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きみとの恋は儚い雪のように るるぱんだ @ri-neru

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