第1話 社畜生命の終わり
「…………ぅ……ん」
そこは、あまり綺麗とは言えないワンルーム。部屋の中にあるのは、賃貸にありがちな小さなキッチンに、かろうじて別なお風呂とトイレ。リビングには小さなスプリングベッドと、妙に昭和を感じるちゃぶ台が1つ。
そのちゃぶ台に、身を委ねて眠る女性が一人。
くたびれたカッターシャツに、皺の入ったタイトスカート。悪夢でも見ているのか、眉間にもシワがある。つけっぱなしのエアコンの風に煽られたカーテンの隙間から、眩い日差しが部屋に落ちる。外は既に、朝を迎えていた。
「……っは、まぶし」
瞼越しに刺さる陽光に、女性が目を覚ます。その顔は青白く、お世辞にも健康とは言えない。彼女はふぁっと欠伸をこぼすと、眠たげな目を擦りつつちゃぶ台に置いてあるデジタル時計に目をやった。
9時25分。
9、2、5という数字を認識した途端、彼女の体はカチリと硬直した。
「っ遅刻!? 大遅刻じゃない!」
そして先程の眠そうな顔が幻なのではと疑うほど、瞬く間に覚醒する。
まずは会社に電話!?それとも先に格好だけでもどうにかして……!
大声で独り言を発しながら彼女はクローゼットからシャツを引っ張りだし、急いで上の服を脱ごうとする。慌ただしい彼女の目にふと飛び込んできたのは、先程まで自分が突っ伏していたちゃぶ台。 ーーそこにあるのは飲み干された缶ビールと、揉みくちゃの書類。それらを目にした途端、彼女は小さく小さく呟く。
そっか……私……。
「私……昨日、クビになったんだった」
彼女こと湖詠楓(こよみかえで)は思い出したのだ。
昨日ふとした事でクビになった事を。クビになった理由があまりにも理不尽極まりなくて、帰った途端やけ酒した事も。
ーーその後の記憶が曖昧な事も。
◇◇◇◇
ある夏の日。学生は勉学に励み、社会人達は汗水流して働いているだろう時間。
世の中ではやれ増税とか地球温暖化とか法律が変わるとか、そんな話題でニュースが盛り上がっている。しかし……
「社長のバカヤローーーー!!」
そんな声もかき消されるほどの叫び声が、部屋中に響きわたっていた。
叫んでいる女性は湖詠楓(こよみかえで)。
もう少しで三十路に差し掛かる女だ。
「だいたい、今まで散々こき使われてきてさ? 会社に貢献してきたのに、濡れ衣でクビとか意味分かんない!! 事実確認どうした、そんな事もできない程頭がイカれてしまったのかほんとにブラックだわ倒産してしまえ!」
そう言い切ると楓は缶ビールを飲み干し、ちゃぶ台に叩きつけた。置いた際の衝撃で周辺の埃が浮いたのが分かる。余程の鬱憤が溜まっていたようだ。
「あぁ〜ほんとにやる気なくす。こんな事でクビにされるなんて………もう疲れた」
いっそのことしばらくニートにでもなろうか?社畜だったけどお金を使う暇なくてかなり溜まっているはず……いや、この間親戚に集られたばっかりだからいうほど懐も潤っていなかった。
嫌なことを思い出したと大きなため息をついた楓は、後ろに倒れるように床に寝転ぶ。視線の先で、天井の電気が点滅した。そういえば、電球も変えなきゃいけなかったんだっけ。
「あぁ……辛い」
昨日までの忙しない日々が嘘だったかのように、静かで平和な時間。自分が求めていたもののはずなのに、どうしてこんなにも辛いと思うのか。ただ時が過ぎていく中、自分が何をやっているのか意味が分からず、彼女は思わず涙を溢した。
駄目だ。一旦クビになった事を考えるのは止めよう。笑える動画でも見て、気分を明るくしよう。
楓は寝転んだままスマホを起動させ動画視聴アプリを開く。動画の一覧をスクロールし、なんとなく明るくなれそうなものを選んで再生ボタンを押した。
その時動画の前に流れてきた広告に、楓は大声をあげる。
「これは………!?」
流れてきたのは"とあるゲーム"の広告。広告自体は初めて見たが、楓はそのゲームをずっと前から知っていた。
高校時代、今では疎遠になってしまった友人にオススメされ、その後すっかりハマってしまった乙女ゲーム『12の異能者達』の新作。そのスマートフォンアプリの広告だった。
一通り広告を見終える楓は、今度はぼろぼろと盛大に泣き出した。ただ先程と違い、彼女の顔に浮かぶのは満面の笑み。
「…………あぁ、これは天からの恵み! 神は私に褒美を与えようとしているのね!」
頬を紅潮させながら、楓は妙に演技臭い喋り方をする。ちょっと頭がイカれたのかと思うかもしれないが、ここまで彼女が感激するのには訳があった。
先程【ハマった】とあったがそれは少し違う。【崇拝するレベルでハマった】というのが正しい。
ハマった理由は多々あるものの、社畜になる前の彼女は小遣いやらバイトで稼いだお金を全て、このゲームのとあるキャラクター……つまり「推し」につぎ込んでいた。その額は、高校大学を通して安い軽自動車は買えちゃうレベルに達していた。
社会人となりすっかり"推しごと"から"お仕事"にジョブチェンジ。そんな彼女にとって、推しとの数年ぶりの再会は歓喜に満ち溢れんばかりのものとなった。
しばらく恍惚とした顔で広告の画面を眺めていた楓。そのままインストールをするのかと思いきや、急に我に返った彼女はスマートフォンを置き、そのままうつ伏せになってTVデッキへと這い始めた。ーー高校時代の友人は楓に布教する為にと、『12の異能者達』のゲームソフトを誕生日にプレゼントしてくれていた。高校生にしては、とんだ太っ腹である。
「どうせやるなら過去作の復習しなきゃ。忘れてる部分もあるかもしれないし」
そう言いながら、家庭用ゲーム機と過去作を並べる。
このゲーム、シリーズとしてはまだ1作品しか出ておらず、攻略キャラクターも6人と少なめ。しかしその分一人一人のシナリオが長く、全てやり直すとなるとそれなりの時間を使う。
しかも、彼女はクビになったとはいえ元ブラック企業の社畜。当然1日そこらで蓄積疲労が消えるはずもなく、そんな状態でゲームを一からクリアしていくことは自殺行為に近かった。
しかし、楓はそんな事は微塵も考えておらず
「こんな中途半端な状態で新しいのをお迎えなんて出来ないっ!」
いちファンとして、自分のプライドが現在の中途半端な状態を許せないようだ。……若干、ブラック企業での日々のせいで、情緒不安定なのかもしれない。もしくは、今まで我慢してきた分はっちゃけてしまったのか。
勿論一人暮らしの楓を止める人は誰もおらず、彼女は生き生きとしながらTVにゲーム機を接続し始めるのだった。
ーーあれからどのくらいの時間が過ぎ去ったのだろうか。
「尊い……尊すぎる!!」
楓は、再度この作品の素晴らしさと推しの尊さに感極まっていた。
『12の異能者達』
世界観としては、魔法や剣、超能力があったりと王道なファンタジー世界。けれど乙女ゲームにしてはかなり強めのRPG要素、キャラ攻略には戦略シミュレーションが必要な為かなり珍しいタイプの作品だ。
主人公は冒険者として、各キャラと関わりつつ旅をする。
戦闘はコマンド方式で操作方法は簡単。だが、ストーリー上きちんとレベル上げしないと勝てない仕様で、恋愛の発展にも"必要レベル"というものが存在する。
恋愛イベント発生までにレベルを達成していないと間違いなくバッドエンド行き、達成していても選択肢によればもれなくバッドエンド。しかも、バッドエンドのだいたいは攻略キャラが死ぬ。推しが目の前で死ぬ。推し目当てで遊んでいたプレイヤーのライフを0にする勢いである。
それならレベル上げればいいんでしょ?となるが、そう簡単にはいかない。単純に、敵キャラクターが強い。もはや乙女ゲーでやるレベルではない。まさに鬼畜の極み。乙女ゲームは攻略キャラとイチャコラ恋愛をするものではなかったのか。
賛否両論。純粋にシュミレーションゲームとして乙女ゲームをやりたい人達にとってやや魅力は劣る……と思われるだろう。
しかし、意外にもこの作品は大ヒットを遂げた。
乙女ゲームならではの異性として魅力的なキャラクター達や美麗スチル。ゲームの世界観に関わる特殊能力の数々。RPGならではの派手な演出。その他諸々あるが、とにかくハイクオリティのゲームタイトルとして、世の女性にクリティカルヒットした訳だ。
「さて……」
彼女はコントローラーを手放すと、自分のスマホを操作し始めた。画面に表示されたのはインストールの完了の文字だ。
正直、全部復習とかもう無理だと途中で諦めかけた。実際疲労と二日酔いがダブルで襲いかかってきており、今にも倒れそうだ。
しかしここまでやり遂げられたのは、やり遂げなければならない理由があったからだ。
高校時代、画面越しに出会ったその時から、自分の持てる財力全てを注ぎ込んできた存在に、再び本当の意味で出会う為に。
「もうね、レイの為なら仕方がないよね!!」
レイ・スペイショル。
この物語においてどのルートにも登場するキャラ、主人公の義理の弟。
ビジュアルは切れ長の目に黒髪の美形。基本敬語で穏やか、たまに出る照れ顔がとても可愛らしい。その他にも語り尽くせないほどに魅力はあるが、様々な要素が楓のストライクゾーンを綺麗に刺激した。
つまり、彼が楓を魅了してやまない「推し」である。
レイ自体、グッズ展開も豊富で2次創作なども結構なレベルで盛り上がったほど、作品内でも人気なキャラだ。
しかし、何故か彼の公式ルートはずっと出ていなかった。脇役、時には主人公の恋愛の後押しをしてくれるような存在であり、彼の攻略ルートはずっとないまま……気づけば新作が出る事なくリリースから8年近く月日が経っていた。
そんな中、まさかのスマートフォンアプリにて新作の発表、レイルート実装。やる気が沸かないはずがない。復習も終わった。これでいよいよもってレイのルートが進められる!と楓が意気込んだ時だった。
やけに前が見にくい事に彼女は気づく。
それに異常なくらい身体が重く、力が入らない。
思わず彼女はスマホを落として床に倒れこんだ。
(………流石にーー寝ないのはまずかったかな? まあ、いいや。少し休憩しよう)
すでにアプリはインストール済み。体を休めて万全の状態で推しのストーリーを進めればいい。時間はまだたっぷりあるのだから。
期待に胸を膨らませて楓は瞼を閉じる。
ーーそのまま彼女の瞼が開く事はもうなかった。
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