気持ちのすれ違いを埋めたもの

江東蘭是

気持ちのすれ違いを埋めたもの

 なんとなく周りが騒がしくて、目が覚めた。もう少し寝ていたいなと思ったけど、なんだかゴトゴト揺れている。時々あるんだよな、こういうの。いったい何だろ? まあいいや。

 しばらくすると、揺れがおさまった。やれやれ。あまりこの揺れ、好きじゃないんだよな。そんなことをぼんやり考えていると、何かガチャッという音がした。あ、この音がしたら、しばらくすると、スーッと体が持ち上げられる感じがする。いつもそうだ。柔らかく、ふわーっと持ち上がるときもあれば、ちょっとゴツゴツした感じのときもある。できれば、ふわーっと持ち上がってほしいものだ。あ、この感覚は、ゴツゴツするときだ。いやだな。自分で言うのもなんだが、起きたばかりであまり機嫌が良くない。ちょっと、抗議してみるか……。


 隆は、自宅の駐車スペースにクルマを止めた。助手席に座っていた妻の奈央がクルマを降り、後部座席のドアを開けた。

「あ、僕がトビラを抱っこして連れて行くよ。もう、だいぶ慣れたと思う」

「ほんと? じゃあ、お願いするわ。私は荷物を持って降ります」

 そう言って、奈央はリア・ゲートを開けてショッピングセッターから買ってき荷物をカーゴスペースから下ろした。隆はチャイルド・シートのベルトをぎこちなく外し、息子のトビラをそーっと抱き上げた。よし、今回は大丈夫だな、と思ったそのとき、トビラが「エッ、エッ」と泣き始めた。あちゃー、やっぱりダメか……。小さな泣き声は、やがて赤ん坊特有の「オギャーっ」という泣き方に変わった。

「あらあら、また泣いちゃったのね」

「君が抱き上げると泣かないのに、僕だと、どうしてこうなっちゃうのかな?」

「まだ、なんとなくぎこちないからね……そういうの、敏感に感じる子なんじゃない?」


 ゴツゴツとした感じから、ふわっとした感触に変わった。どうやら、抗議の成果が出たようだ。これからも気に入らないことがあれば、こうすれば自分の思い通りになるようだ。

 ところで、ここはいったいどういう場所だろう? だいぶ前、と言ってもどれぐらい前か説明できないけど、僕は薄暗くて、ゆらゆらと心地いい場所にいた。規則的に聞こえる「トックン、トックン」というリズムのある音も良かった。僕はゆらゆらとしながら、好きなときに目覚め、好きなだけ眠った。

 それがある時、もうここには長くいられないんじゃないか、と感じるようになった。なぜそう思ったのかはわからない。少し窮屈になってきたような気もしたし、寝ているときに、誰かから「もう、そろそろ出ていく頃だよ」なんていう声が聞こえたような気がする。

 そんな気がしてから、しばらくすると、自分の周囲に異変が起こっているのに気づいた。まず最初に、あの心地よかった「トックン、トックン」という音がものすごく早くなり、時にはそのリズムが乱れた。それから、自分を取り巻いていた心地よい空間が渦巻いたような感じになった。さすがに、これはちょっとまずいんじゃないか、と思ったほどだ。しかし、どうしていいのかわからない。困ったな、とりあえず少し体勢を変えてみようかな、なんて考えていると、自分の頭がスーッと引っ張られるような感じがした。引っ張られているだけでなく、足下から押されているような感じもする。抵抗しようとしたが、僕の力ではどうすることもできないようだった。「ママが大変なことになるから、ここで踏ん張ってはいけないよ。流れに身を任せなさい」という声が、やけにはっきりと聞こえた。どこから聞こえたんだろう? それに、ママって何だっけ? 前に、どこからか聞こえた声から教えられたような気もするが、今はそれを思い出している場合ではない。

 とにかく、僕にとっては天変地異だ。どうしようかと思ったが、ここはひとつ、素直に「あの声」に従ってみようか。そう思って体の力を抜いて、できるだけ息をひそめてじっとしていた。いつまでこうしていればいいんだろ? ちょっと、息苦しくなってきたぞ……と思っているうちに、今までと違う、とても明るい場所に来てしまった。うわ、なんだこの明るさは! こんなところは嫌だ。元の暗い場所に戻りたい。どうすればいいんだろう? ここは一つ、大声で叫んでみるか……。


 「元気な男の子ですよ」という助産師さんの声を聞いて、奈央はホッとした。想像していたほど大変ではなかったので、安産だったのだろう。今から3ヶ月ほど前のことだ。夫の隆とふたりで考えて、名前を「トビラ」と付けた。将来の扉を自分で開けて欲しいという願いを込めた。

 隆はあまり器用な方ではないので、トビラの扱いもぎこちなかった。隆がトビラを抱っこすると、必ずと言っていいほどトビラは大声で泣いた。ぎこちなさがトビラにも伝わるのだろう。隆は一生懸命に子育てを手伝ってくれるが、抱っこしてもなかなかトビラが泣き止んでくれないので、気落ちしているようだった。

「もう3ヶ月になるのに、どうしてトビラは慣れてくれないのかな」

「焦らないことよ。そのうち、きっとトビラもあなたに微笑んでくれるわ」

「そうかな。なんか、自信がなくなってきたな」

「大丈夫。あなたが寝る間も惜しんでトビラの面倒を見てくれること、とても感謝しているのよ」

「うん、でも感謝なんていいよ。僕らの子供なんだから、二人で力を合わせてやっていくのが当然だろ? だけど、やはり父親はハンディがあるのかな? なんといっても、トビラはずっと君のお腹の中にいたわけだから……」

「そんな風に考えちゃ、ダメよ。単に、時期が違うだけなんじゃないかしら?」

「時期が違う? どういうこと?」

「想像だけどね、トビラもたぶん、最初の頃は私のお腹の中で違和感があったと思うわ。それが何ヶ月も経って、やっと慣れたんだと思う。そして今、こうやって生まれてきて、今度はあなたの手の中にあるわけ。私に対して最初に感じた違和感を、トビラは今、あなたに対して感じているだけよ」

「へえー。そんなもんかな」

「そうだと思う。だからね、トビラが泣いても、ひるまないで、今までどおりに接してあげて。きっと大丈夫だから」


 どうやら、また眠ったようだった。なんとなく、目を開けてみる。最初のうちは明るさぐらいしか感じなかったが、今は、ぼんやりとだけど何かが見えるようになってきた。とにかく、周りにはいろんな珍しい物がたくさんあって、たいへん興味深い。触ってみたいのだが、残念ながら、まだ思い通りに体が動かせない。

 近くには、僕より大きい人がいつもウロウロしているようだ。ふわっと持ち上げてくれて、ときどき僕に何か飲ませてくれる人が、「あの声」が教えてくれたママっていうのだろう。もう一人、僕をガクガク・ゴツゴツと持ち上げてくれる方が、パパという人なのだろう。ママはなんとなくわかる。持ち上げてくれたときに聞こえる、あのときの「トックン、トックン」というリズミカルな音に聞き覚えがある。どうやら、僕はこのママという人と深い関わりがあるらしい。では、このパパという人は、僕とどういう関係があるのだろう? よくわからないが、とにかく、僕はママとパパという、二人の大きい人たちと一緒にいるらしい、ということは理解できた。

 僕が目を覚ましている間、ママとパパは一生懸命に何か僕に喋っている。だけど、何を言っているか、さっぱりわからない。薄暗いところにいた時に、ときどき聞こえた「あの声」はよく理解できたのに、これはどうしたことだろう? ひょっとしたら、この先、僕はこのママとパパの喋っている言葉を覚えなければならないのだろうか? ちょっと面倒だな。

 ただ、二人の喋っている言葉のうち、頻繁に「トビラ」と聞き取れるものがあることに気づいた。「トビラ」と聞こえたとき、声がした方に少し顔を向けると、ママとパパはやけに嬉しそうにしている。悪くない気分だ。しばらくの間、「トビラ」と聞こえたら、そうやって反応してみるか……。


「ねえ、この子、もう自分の名前がわかっているんじゃないかしら」

「そんな感じだね。トビラって呼びかけると、こっちを向くもんね」

「だいぶ首もしっかりしてきたようだし、出産祝いで友達から貰ったあれ、出してみる?」

「そうだね。ちょっと待ってて」

 隆はそう言って、クローゼットの中から箱を取りだしてきた。箱の中身は、フィンランドに住んでいる奈央の友達が出産祝い送ってくれた木製のベビー・ジム。10分ぐらいで組み立て終わった。

「ねえ、トビラが興味深そうに見てるわよ」

「ほんとだな。試しに、トビラの上に置いてみるか」

 組み立て終わったベビー・ジムを、寝転がっているトビラの上に恐る恐る置いてみた。最初はぽかんと口を開けていたトビラだが、そのうち、おもむろに手を伸ばしてぶら下がっているものに触ろうとした。奈央と隆は、その様子を固唾をのんで見守った。


 僕の横で、ふたりの大きい人が何やらあれこれ喋っている。眠くなってきたので、少し静かにしてもらいたいものだ。あれ、パパ、と呼ばれる人が、大きな四角い箱から何か取り出してゴソゴソやっている。バラバラだったものが、少しずつある形になっていくようだ。体が大きくなると、こういうことができるようになるのか。ところで、僕もいつかは、これぐらい大きくなるのだろうか。見たところ、いまはとても小さいように感じるが。

 今まで見たこともない、不思議な物が出来たようだ。なんだろう?と思っていると、それを僕の上に持ってきて置いた。いろんな物がぶら下がっていて、ゆらゆら揺れている。そのうちの一つの揺れ方が不規則で、ちょっと気持ち悪い。手で押さえたら、揺れ方も変わるのではないか、と思った。よし、ここは頑張って、手で掴んでみよう。このところ、ようやく手と足が調和をとって動かせるようになってきた。ちょうどいい練習になるだろう。

 最初はうまくいかなったが、何度かトライしているうちに、ようやく揺れている物を捕まえることができた。僕って、ひょっとして天才だろうか? いや、待てよ。たまたまってこともある。一度手を放して、もう一度やってみよう。なんだか面白いぞ。


「やったやった! うまく掴めたよ!」

「ほんとだ! もうこんなことが出来るようになったんだね」

「手を放したわ。もう一度、掴もうとしているみたいよ」

「同じことが出来るかどうか、試しているのかな?」

「まさか。そこまで、まだ考えてないでしょ」

「あ、でもほら、同じ物を掴んだよ。ちゃんと認識しているんだよ。いやぁ、この子、ひょっとして天才なんじゃないか?」

「それは、ちょっと親馬鹿よ。でも、トビラ、楽しそう。ほら、笑ってるわよ!」

「かわいいなあ」

「隆さん、今なら抱っこしても大丈夫なんじゃない?」

「ええ、そうかな? せっかく機嫌良くしてるのに、これで泣かれたら……」

「なんか大丈夫なような気がするわ。ねえ、やってみたら?」

「よし、じゃあ……」

「ほら、肩の力を抜いて!」

 深呼吸して、隆はトビラを抱き上げようとした。


 うん、やっぱり二度目も同じように掴むことができた。そうか、手はこうやって使えばいいのか。こうなると、他のものも掴みたくなるが、まだ自分で移動できない。大きい人たちを見ていると、移動するには、どうやら足を使えばいいようだが。

 うわ、パパと呼ばれる人が、僕を持ち上げようとしているのか? せっかく面白いところなのに、水を差さないでほしいな。ああ、やっぱりゴツゴツした感触だ。抗議の泣きを入れてやろうか。あれ、なんだこれは? 掴みやすそうなものがあるぞ。さっきのやり方を応用して、ちょっと掴んでみようか。なんかちょうどいい握り具合だ。これは……パパと呼ばれる人の指なのか? ああ、パパは、こんないい指を持っているのか。しばらく握っていようか。

 でも、やはりそろそろ眠くなってきたな。ちょっとゴツゴツしているけど、このまま寝てしまおう。寝てしまえば、ゴツゴツしてても関係ないから……。


 できるだけ緊張しないように、隆はトビラを抱き上げた。じっと顔を見ていると、トビラが泣きそうな顔になった。あ、やっぱりダメか……。そのとき、思いがけないことが起こった。トビラの頭を撫でてやろうとした右手の親指を、トビラがパッと掴んだ。そして、そのまま離さない。隆は硬直したように固まった。これは一体……。

「あら、トビラが隆さんの指を掴んだわよ!」

「あ、ああ。そうみたい、だな」

「ほら、見て! トビラが笑ってる!」

「はは、ほんとだ。笑ってるよ。あれ、もう大丈夫なのかな」

「そのまま寝ちゃったみたい。たぶん、もう大丈夫よ。でも、良かったわね」

「うん、そうだね。ホッとしたよ。きっかけは、このベビー・ジムかな」

「そうかもね。ところで、トビラをベビーベッドに寝かせる?」

「いや、このままでいいよ」

「2時間ぐらい、起きないわよ」

「かまわないよ。しばらく、こうしていたいんだ」

「わかったわ。じゃあ私、夕飯の支度をしてくるから、何かあったら、呼んでね」

「OK。そうか、やっと慣れてくれたか」

 感慨深そうにしている隆に優しく微笑んで、奈央はキッチンへと向かった。ホッとしたのは奈央も同じだった。フィンランドに住んでいる涼夏が送ってくれた、ベビー・ジム。木製の温かみのあるデザインが、トビラの気持ちのどこかを和ませたのかもしれない。彼女に感謝しなきゃ。あとでLINEでも……いや、こんなときだから、味気ないスマホのメッセージはやめて、久々にエア・メールを書いてみよう。彼女も、そういうものは久しく受け取っていないはず。私たち家族の写真も、一緒に同封して。

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