12.始まりの言葉 終わりの言葉
少年は傾いた鈴堂の中膝を抱え、沈む夕日を追う様に伸びていく影を見ていた。
「これでいい」そう何度も心の中で繰り返しながら、一人。
暫くすると、足音が一つ近づいてくる。
少年はどうするでも無く、それが通り過ぎるのを待った。
しかし、その足音は鈴堂の前で立ち止まると、何時までも通り過ぎる事は無かった。そしていつの間にかその音の主は、少年の隣に座っていた。
暗く、狭い鈴堂の中に二人。
何を話すでも無く、伸びていく影を二人して見ていた。
「……夕日が沈むまでだそうだ」
北条が静かに伝えると、少年は横目でチラリと彼を見る。
「……眼鏡さぁ、似合わねぇな」
「……そうかもな」
そんな会話の後、少年は立ち上がり鈴堂の外へ。
夕日を背に、峠の坂を登り始めた。
「―――― グライス!」
坂を少し登った辺りで、北条は少年を大声で呼んだ。少年は振り返った。
風が吹いている。
「オレはこの後、軍に行く! だが直ぐじゃ無い! 一ヶ月はこの街に居る!」
「……それがぁ!」
風に声をかき消されないように互いに大声で言葉を投げる。
「釣りをしないか!」
「釣りぃ?!」
「森に湖があるだろう! 其処で釣るんだ!」
「それってよぉ! 明日の話か、それとも明後日の話かぁ!」
「一ヶ月だ! 一ヶ月釣りをする!」
「……バカかおめぇ!」
「割とな!」
強い風が吹く。
間が生まれ、二人は、交わす言葉の代わりに、風の音を聞いた。
二人の間に吹く風は、明日の方角へ向かって吹き、そして次第に止んでいく。
「……来るか!」
「……気が向きゃな!」
少年はそう答えて背を向け、北条はその背を少し見送って――二人は帰路についた。
家に着いた少年は玄関の戸を開ける。
見える夕日はもう半分程で、明かりの付いていない家は影が濃く見える。
作ったままのスープ、空いたままの書斎、何もかもが昨日のままだ。
二階へ上がり自室の扉の前で止まり、息を吸って吐く。
扉を開けると、彼女がいた。
紅い髪の毛は半分までが白く染まり、その瞳も白く濁っていた。
それは彼女の終わりが近いと言う事を示している。
全てが白く染まった時、彼女は―――― 。
少年が立ち止まっていると、彼女が先に声を掛けた。
「おかえり」
ただそれだけの言葉なのに、少年の心は陽だまりに似た暖かさに包まれていた。
「ただいま」
そう返して、彼女の方へ近づいていく。
「……夢を見ていたよ。とても懐かしい夢だった」
「よかった。俺さ、花にお願いしといたんだ。良い夢見れるようにって……」
「ああ、どうりで……優しい、とても優しい夢だった。あんたは昔からそうだ。優しい子さね」
「俺は、優しくなんてねぇよ。ただの自分勝手で独りよがりで……押し付けてるだけなんだよ。俺が、納得したかっただけなんだ。「これでいい」って一人で」
「そういうものさ。善意というのは突き詰めればそうなる。けど、私は嬉しいよ」
「そうじゃない。そうじゃないんだよ……。俺は不良なんだぜ? ケンカだってするし! 家に帰らなかったのは、一緒に居るのが息苦しかったからだ! あんたの事を憎んでいたし! 恨んでいたし! 殺そうとだってした! 俺は……俺は……一つも優しくなんて無いんだよ……!」
「……知っていたよ。全て。心配だったから……私に勇気が無かったから」
「なんだよ……知ってるなら初めにそう言ってくれよ。何時も言葉が一つ遅いんだよ――"お母さん"はさ」
「――――私をまだ、そう呼んでくれるんだな」
少年は涙を堪えながら言葉を絞り出した。
「……だって、お母さんじゃん」
その後は、母の腰を抱いて泣きじゃくった。
「……ありがとうグライス。ありがとう」
母は小さな子をあやすように、少年の頭を優しく撫でる。
「俺さ、今日、勝ったよ」
「……ああ。よく頑張ったさね」
「お母さん、俺さ……俺……俺……!」
少年は泣きながら言葉を伝えようとしたが感情に押しつぶされ言葉にならず、しかし母は全てを分かっているかの様に少年の言葉の一つ一つに微笑みながら「そうさね」と頷いた。
夕日が沈み、薄明の空、夜が染み出してくる。
母の輪郭は、暗くなるにつれ徐々に見えなくなり、少年を撫でる手の力も少しずつ弱くなっていく。
少年はそれに気が付き、余計に涙が零れた。
嗚呼。夜が来てしまう。
「グライス」
母が優しく少年の名を呼んだ。
顔を上げた少年の涙を母は何度も拭った。
母の表情はとても穏やかで何処か安堵さえ感じ取れる様だった。
それを見た少年の涙は不思議と止まった。
そして、蝶の羽ばたきと抱擁を思わせる様な口調で母は子に言葉を告げる。
「バイミー?( あいしてる?) 」
始まりの言葉。終わりの言葉。
「バイユー( あいしてるよ) 」
最初の記憶。最後の記憶。
似ているものだ、なんとなく。
そう。なんとなく。
愛があるように。
夜だ。
グライス編"後編" 完
次回、エピローグ。
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