9.―― STAND OUT ――

 暗い意識の底で、少年は目覚めた。


 此処には何も無く、吐き出したモノが泡となって少年と共に絶えず暗闇に沈んでいくのみ。


「…………負けちまったなぁ」


『あれだけ啖呵を切っておいて、もうあきらめるの?』


「…… また、オマエかよ」


『此処にはしか居ないからね』


「はぁ……諦めるも何もねぇだろ、もう終わってんだよ。俺はもう動けない」


『……ボクはそう思わない。それに、キミにはまだ勝つって事以外に、彼よりも愛されるって事が、が、残っているはずだよ』


「……それも、もういい。あの人は俺を愛せない。結局、愛ってのは自分と似てるモノに分けやすいんだ。アイツはよく似てるよ、俺はそうじゃない。だから……だから一度だって、愛なんて向けられた事は無いのに、ヘンに取り返そうとしたんだ。最初から、俺には何も無いんだよ」


『……本当にそうかな?』


 突如、暗闇しか無かったはずの景色が一変し人混みで溢れるあの大通りが、まるで初めから此処にあったかの様に現れ、やはり少年は、人混みから離れ一人街灯の下に座っていた。


『此処はキミの底だ。記憶の底でもある。だから、聞いてご覧よ――彼女に』


 有象無象、雑多な人の流れに記憶の欠片からアカイ髪の彼女が現れ西に向かって歩いて行く。


 少年は立ち上がりこそすれど、彼女の姿をじっと目で追いかけるばかりで動かなかった。


『怖いの?』


「……怖ぇよ」


 記憶の底に触れ、尚も愛されていなかった事実を突きつけられる事が少年は怖かった。彼女の後ろ姿は、既に遠い景色の一部になりかけている。


『でも、キミは行くしか無いんだ。憶えておいて、どうしようも無くなった時、最後に背中を押すのは自分なんだよ……だから……ほら! 走って走って!』


 動こうとしない少年の背中を心が押し出した。

 押された少年はふらふらと走り出したが、その内段々と意思を持って、力強い走りとなって、息を切らしながら彼女の記憶を追った。


『――きっと、キミの輪郭も" 際立つ" 筈さ』


 そんな少年の背に、心はポツリと言葉を残して雑多に消えていった。


 少年は、見えなくなっていく彼女の背中を追いかけ無我夢中で走った。


 脚は沼の底にあるかの様に重く、有象無象の人混みは幾度となく少年を阻み、肺は破裂するほど痛んだ。距離は徐々に詰まり始めているが、依然として遠い。何度か脚がもつれ転げもする。


 走るよりも立ち上がる事の方が、少年には辛く、何度も諦めようとした。


 だが、その度に。


『がんばれぇ!!』


 誰かが。


『まだいけるぞぉ!!』


 何かが。


『走れぇグライス!!』


 いや、少年の中で培ってきたモノの全てが。少年を口々に励ました。


 そして、立ち上がる。


 立ち上がれてしまう。


 こんなにも苦しいのに。



 どうしようも無く一人なのに。



 たった一つを諦めきれないで、彼女の背中を死に物狂いで追いかけている。



 遂に人混みを抜けた。



 大通りも過ぎて、少年と彼女を残し元の暗闇の世界に戻る。



 距離が縮まる。



 あんなにも遠かった背中は、今は声が届く距離。少年は声を張り上げた。



「カアさん!!!」





 彼女は振り返らない。





 少年は何度も何度も呼び掛けるが反応は無く、追い付く筈の速度なのに、距離は縮まらない。少年は必死に考えた、この距離の理由を。





――ちがう。そんなのはもう分かってるんだ。これは、俺が作った『溝』だ。俺が埋めなくちゃいけない『溝』だ。だから言葉を探せ。この距離を埋める、この『溝』を埋める、言葉を。





 少年は必死に探した。





 自身が一番に望み、一番に恐れる、たった一つの言葉。




 

 彼女が立ち止まり、振り返って微笑んでくれる。






 幼い時間の、あの日のような―――― 。











「お母さん」












 それは、一番古い記憶だった。












 一番最初に母と会話した記憶だった。

















「バイミー?(あいしてる?)」


















「バイユー(あいしてるよ)」












 いっぱいの笑顔。




 いっぱいの愛。














 ―― S T A N D O U T ――












 色、際立つ。








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