6.翌日

 次の日。汗ばむような気候に少年は目を覚ます。


「……暑っつ」


 窓が半分ほどしか空いていないせいか風があまり通らず、余計に暑い。

 少年は一先ずベッドから起き上がると、軽くストレッチをした後に服を一旦全て脱いでゆるい軽装に着替え、つっかけを履いて頭の後ろを掻きながら部屋を出た。


 書斎の前、少年は今一度立ち止まり考え、意を決して扉を叩いた。

 だが、中から返事はなく、寝ているのかと思い中に入ると、彼女がベッド代わりにしているソファに姿はなかったが、いつも作業している机の上には分厚い日記のようなものがあった。

 

 少年がそれを開こうとした時、紅い蝶々が少年の手に止まった。


「あ、カアさん知んない?」


 蝶々が止まった手を顔に近づけ少年が話しかけると、それは主人の元へ道案内するかのようにひらひらと玄関に向かって飛び始めた。

 玄関のドアを開けた少年は日差を手で遮りながら空の雲を確認する。


「げっもう輪っかの終刻おわりどきじゃん」


 時計というのは転生者がもたらした文化であり、あまり一般的ではない。

 何故なら少年を含め彼らは、雲の形を見ることによって一日の流れを知ることが出来るからだ。秒針の針や目盛は正確すぎて窮屈でしか無い。


 一日は、渦巻き状の雲から始まり、誠実な朝の四角形、怠惰な昼の輪、美しい三角形の夕暮れ、夜月を真似る雲の丸、そして終わりの線、この線が途切れたなら一日は終わり、またゆっくりと渦を巻いていく。


 蝶を追えば、庭で彼女を見つける。手入れをしているようだ。大きな麦わら帽に白シャツに短パン姿の彼女は、柄杓を持って青い水を背の低いタマリの双子木に気だるげに撒いている。


 蝶が彼女の周りを飛んで来訪者を知らせた。彼女が振り向く。


 振り返った彼女に言葉を発そうとして妙な間が生まれる。

 数年間まともに会話というモノをしてこなかった故の間だ。

 しかし、何時までもこうしている訳には行かない。

 少年は意を決して話を切り出す。


「……カ、カアさんってさ" ステカ" 持ってんの?」

「" ステカ" ?」

「あーステータスカード」

「ああ、アレか。売ったぞ」

「え…… マジで?」

「…… アレは良いカネになったな。確か組織がどうたら―― 」

「待ったまった! じゃあカアさん、今の自分のステータスとか、スキルとか知んないワケ?」

「全然」

「一つも?」

「ああ」

「まったく?」

「これっぽちも?」


「……」

「……」


「…… その、めちゃくちゃ変だと思う。いや、カアさんの事じゃなくて、いや、カアさんも十分変なんだけどさ。オレが今から聞こうとしている事は、普通じゃあないんだ。でも、聞くよ、昨日決めたんだ」


 少年の瞳をじっと見つめた彼女は、徐に眼鏡を掛けた。


「しっくり来ないんだ、正直。すれ違ったアイツらの話とか、そもそも、カードの数字を見てもさ、自分って感じがしないんだ。自分が写ってない鏡みたいなそんな感じ。で、カアさんは、どう、思う? ステータスとかさ、数字ってどう思う?」


 とぎれとぎれ、言葉を継ぎ接ぎ、やっと自分の考えを少年は伝えた。


 彼女は合わせていた視線をふっと外し、梢の隙間から空を見る。


「……グライス、あんたには話していない事が多くある。薄々は、気づいているだろうが」


 彼女の言葉を聞いて、少年の胸の鼓動は早くなった。


 鼓動が耳を少し遠くさせ、背筋を刺す冷たい棘の正体は期待と疑心だ。

 口に溜まった唾液をうまく飲み込めない。


「そうだな、数字というのは必ずしも悪ではない。千年生きた私は思うよ。数字は、人が抱える不揃いな才能を平たく出来てしまえる。そしてソレを、自分の伸ばしたい方に伸ばせる、時間さえ掛ければ誰にでも。目に見える地道な近道だ。しかし、そこなんだ。近道だからこそ、目に見えてしまうからこそ、人はそればかりを意識して心がだんだん鈍くなっていく」


 数字についての見解を語り始めた彼女は視線を少年へと移す。


「いつしか数字でモノを考えるようになり、数字でモノを競うようになり、数字でヒトを見るようになる。何かがそこから抜け落ちていく。心を置いて、己の比重が数字に方へ傾いて、気付けばソレを大事そうに抱えている。そうして、いずれ目の前に立つ困難や死を前にして推し量り選択しようとするだろう。だが、第三者である数字によって示された明確すぎる選択は、知らずの内にヒトの心を砕いていくのさね。そして、そうなった人間を私は多く見てきた」

「……」

。結局の所、何かを乗り越えるには心の強さというものが必要なのさね。数字ではソレは育たない。人……いや、そもそも生命というのは、数字で表わされるべきモノではない。在るが儘で在ればいい――だがグライス。私は、この言葉を覚えてくれるのなら、それでいいと思っている」


 彼女は煙草を取り出して、指を紅く染めてそれに火を着けた。


「それでも、知りたいか? この意味を、この生を」

「俺は……」

 

 少年は彼女が吐き出した紅い煙が消えるのを待ってから言った。


「カアさんと同じがいい」

 

 静かに目を閉じた彼女は、ゆっくりと瞼を開いた。


「ならば告げよう。万象は色を司り、世界は――色で出来ている。その事実を」


 少年の肌に鳥肌が立つ。


 ずっと昔に忘れてしまった記憶が奥底から引きあげられた様な衝動が全身に広り、身体を縛り上げていた違和感の鎖が砕けていく様な気がした。

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