5.帰宅

 古ぼけた一軒家。


 薄ボケた窓ガラスから滲む灯りは、この夜の中では星よりも明るく見える。

 少年はガタついた木のドアに手をかける。


 かさり、何か擦れる音がする。顔を向ければ、ぽぽろんっと一つ佇むウクレレ草が、音をかすかに奏でた。少年は強張っていた表情をすっと緩ませる。


「…… ただいま」


 掠れた声で、その音に応える。いい加減ドアを開こうと取っ手を回せば、軋むような音を立ててぎぃっと開いた。外の空気とは違う、なんとも言えない、湿った様な、ほこりっぽいようなそれは、何処か少年を安心させるものがある。


「ただいま」


 今度は掠れることなく声はでた。しかし、正面に見える開けっ放しの書斎の扉の隙間からは、いつも机に向かい合っているはずの母親の姿が見えず。書斎の点けっぱなしのランプの灯りにも人の影は写っていなかった。


 入り口のドアは、手を離すとひとりでにぱたんと閉まった。狭い我が家だ。


「カアさん?」

「んー?」


 少年が再び声をかければ、右手の台所から返事が聞こえた。

 少年が顔を覗かせるといい匂いのする湯気が立ち込めていた。

 ほのかな甘味を含み、鼻腔をくすぐっていく匂いの正体は、『タマリのスープ』だろうと少年は思った。


 タマリとは、彼女の故郷の特産品の果実であり、調理や加工次第で甘味にもスパイ

 スにもなり得る万能果実である。


「カアさん、ただいま」


 そこには彼女がいた。冷めた血のように紅い髪を後ろでひとまとめにくくり、コンロに敷いた赤い『火石』で温めながら鍋をお玉でかき混ぜている。


「タマリのスープでしょ? なんか、手伝う?」

「いや、もう出来るから器だけ」

「……はいよ」

 

 この狭い台所の、後ろにある食器棚から二つ、丸くガサガサの木でできたお椀を取り出す。器の底には落書きみたいな字で『カア』『グライヌ』と小さく書かれている。いい加減新しい物を買おうと、これ見る度に思う少年だが、何時も忘れてしまう。

 

 彼女の横から器を一つ手渡して、その中にスープを注いでもらった。「カアさんは?」と少年がもう一方の器を差し出したが、彼女は首を横に振った。


「私はもう寝る」

「そっか……」


 少年は一人食卓に着いた。スープの入った器の隣に、空の器を並べて。


 スープを一口啜った。

 ほってりと温かく、甘くてしょっぱい。思えば外は寒かった。


「うまいよ」


 目が合う。

 ドアの無い框に手を掛けていた彼女は無表情で、直ぐにその目をそらした。


「じゃあ――」

「カアさん!」

「ん?」

「…… その…… ただいま」

「…… ああ、おかえり」


 無理な笑顔で伝えた何度目かの『ただいま』はようやく届いたようだ。だが、あとに続く言葉を少年は持っていなかった。足音が遠のいて書斎の扉が閉まる音がした。

 

 今日、どこに行ったとか、何をしたとか、花を見ただとか、帰りが遅かった理由だとか、お互い、言わず、聞かず、言えず、聞けず。器の間に溝が見える。あの日から深くなっていく『溝』だ。


 いや、実際はそこまで深いモノではないのかもしれない、だが少年にそれを覗き込めるだけの心の余裕は無かった。


 二口目のスープが、ぬるい。


 スープを飲み終えた少年は、後片付けをして台所の灯りを消し、玄関の左の階段から二階へと上がった。

 二階に廊下は無い、上がって左は少年の部屋、右は彼女の部屋だ。もっとも、彼女の部屋はほとんど物置と化していて書斎で眠ることがほとんどだ。

 ここ数年この物置の扉を開いておらず。少年は中にあるモノの事など忘れてしまっていた。しかし通る度、何かそこに忘れ物をしているような感覚を覚える。が、同時に胸が錨の様に沈み、音が遠くなり、扉には触れられない。


 扉を過ぎ、自分の部屋に入ると、今日一日締め切っていたせいか妙に空気が湿っていた。宙に漂っている苔の生えた『苔月いし』は握ると蓄えた月光を蒼い光に変えて灯す。


 少年は一先ず、ベッド正面の大きい窓を開けようとしたが、窓が固く半分しか上に上がらず諦めた。


「……んだよ、くそ」


 座高の低い椅子に座りながら上着を脱ぐ、ブーツも脱いで、窓側にちょこんと置いておく。部屋には軽めのダンベルや、ガラクタ箱、子供の頃に読んだ絵本。週刊誌『亜人メイラのコート』や『世界の遺跡と次元裏店舗百三選』といったトラベル誌『能爆貧打- スキルジャンキー- 』等のライフハック本。その他、薄い大衆向け雑誌は乱雑に積み上げられている。


 少年はベッドに倒れ込む。苔月の光が薄まって徐々に消えていく。


(能力祭…… 一ヶ月後だよなぁ…… ステータス低すぎてフツーに無理だよな~かといってすげぇスキルがあるわけでもねぇし、スキル欄空欄だったし…… 順当に獣とか狩って色核でステータス上げてもなぁ~向こうさん殴ったら人がぶっ飛ぶレベルだぜ? 数字じゃあどうやっても追いつけねぇよ……そもそも数字ってなーんか違ぇんだよな)

 

 ベッドでうつ伏せのままあれこれ考えていると一つの記憶に行き当あたる。


(そういや、昔カアさんがめっちゃデカイ魔者とかぶっ倒してたな。アレってスキルじゃない……よな? 数字の気配は感じなかったし。いつも飛ばしてる蝶々とかもそんな感じじゃあないし、煙草とかも手で付けてるよな、指が紅くなってボウって『火石』みたいに…… 。聞いたら教えてくれっかな………… うしっ!)


 決心がついた少年は、自分の頬を両手でぱちんと挟んで仰向けになった。


 舞い上がった埃。そして月光に幾何反射する埃を幾つか数えて少年は眠った。

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