2.魔者の暴走


 グライスを拾って数年の月日が流れた。


 今では元気に走り回る程に成長し、嬉しい事に私には似つかず感情豊かで、困ったことに甘えん坊で、トイレの中まで付いて来る。


 今日も、トイレの扉が開く。


「んへへ~おかあさんだ~」


「閉めて」


 閉まる。


 また開く。


「まぁ~~だぁ~~?」


「閉~め~る~さ~ね」


 また閉まる。ちょっとして遠慮がちに開いた。


「……」


「……」


 閉まった。


 中に入ってきた。


 床に座って便座に座った私を見上げる。


「ねぇねぇ、お話して~?」

 

 鍵を…… 付けるか…… 。

 

 それはそうと、庭を手入れをしてタマリの苗を植えた。順調に育っている。

 蟻ミミズに食われぬように手入れするのが少々骨だ。


 山を散策中に見つけた〝ウクレレ草〟は独りでにいい音色を奏でるので玄関先に移植した。グライスは痛く気に入ったらしく、よくウクレレ草と踊って遊んでいる。


 畑仕事ばかりというわけにも行かないので、私は時折街に降り、私が持つ万百の蝶を使って医者の真似事をしながら生計を立てている。


 街の人間には「先生」と柄にもなく呼ばれる。


「おかーーーさーーーん!はやくーーーー!!」


「まだ雲は変わってないだろう、アレが輪っかになったら街へ行くさね」


「えーーーー!!まだまだじゃーん!」

 

 穏やかな日々だ。


「あ!おかあさーーん!みてみて!わっかんなったよ!!」

 

 グライスはそう言って、輪にした手の隙間から雲を覗いていた。

 あの子の無邪気に触れていると、つい、忘れそうになる。

 私の命がそう長くない事を。


「ふふ、そうさね」


 今日は、初めてグライスと一緒に街へ遊びに行く事になっていた。間もなく出発の時間となり、私達は手を繋いで街のへと向かった。そして、何事も無く楽しい時間を過ごした。

 

 夕暮れになり、十字大通りを通ってこれから帰ろうという時だった。

 

 突如、街を囲み入り込んだ木々が嘶く馬の様に一斉に枝葉を揺らし始めた。木の葉が散り地へと落れば、藻掻き苦しむ蟲の様にのた打ち始めた。地面が激しく振動しているのだ。それも何度も。


 その内野鳥が大挙して羽ばたき、夕闇に浮かぶ月へ向かって逃げてゆく。一瞬にして数々の音が止み、残った人々の不安と焦燥は波及し増幅し広がり次第に恐慌へと変化していく。


『くるぞーー!!魔者イノスが!大っっ群っっだぁ!!』


 衛兵のそれが合図だった。

 

 十字大通りの人混みが波のようにうねって細い路地へ押し寄せる。

 

 グライスが私の足に強くしがみついた。私はその場を動かなかった。

 

 南口の門が破壊され、飛び出してきたのは羊。

 果実を実らせる枝が体から生え、馬よりも二周りほど大きい人面羊。

 

 人面羊は低く悲痛に淀んだ雄叫びを発しながら、逃げ遅れた人々を蹴散らし、涎を散らし、血が蹄鉄を彩った。それが十数頭、森と草原を繋ぐ大門の方へ、つま

 り私の方へ向かってくる。


 そしてそのすぐ後ろには、更に巨大で拗じくれた造形の姦美樹ドライアド。蠢く蔦の裳裾もすそと歪な幹で出来た胴体、乳房を引きずり削りながら、四本の手で這いずり、建物を破壊して人面の後を恐ろしい速度で追っている。下半身は道の途中で捩じ切れてしまったようだ。


 姦美樹は沙蚕ごかいのような頭部の口を裂ける程に広げて甲高く叫びながら、蹴散らされて地面に転がる人間を今度こそ、それは赤くすり潰していく。


『おい先生何やってる!逃げるんだよぉ!』


 顔なじみの男が私の腕を掴んで引こうとするが、それを振り払った。

 

 男は困惑を顕したが『み、見捨てたわけじゃない……』と言い残し走り去った。


 私がここを動かなかったのは

 差し迫った脅威を前に、私は左手に持った鞄の取っ手の片方だけを持ち、重力に任せてだらんと開かせた。


  ―― 開け放たれたソレの中身はただ闇に染まっている。それは、この混沌に置ける唯一の静寂であり、炎の中で羽ばたくことを止めた蛾のような狂気でもある。だが、迫りくる十数頭の人面羊を映し闇は泡く。


 ――最後の気泡が大きく闇の表面で弾けた。瞬間、蜘蛛の足を割いたかような糸が闇から無数に飛び出し、人面共を覆い絡み包み、死を享受する他なかった人々の眼前で停止させた。捕らえられたソレらは糸の中で呻きながら重力を失い宙へと浮かぶ。


 ――次に、彼女が鞄を真上へと放るとソレは糸を出したまま蓋を閉じ、屋根まで浮かんだ人面共は互いの引力に引かれて黒い葡萄のように束となった。そして、鞄の落下をてっぺんで掴み姦美樹の方へ振り下ろせば糸はピンと引かれ、連動、追従、遥か頭上の巨大な葡萄を肉槌として終に姦美樹へと叩きつけた。


 ――強すぎる衝撃に大通りには深くヒビが入り、鞄から伸びていた糸は千切れ、暴力的な質量をぶつけられたソレは瀕死、彼女はいつとなく取り出した煙草に紅く染めた指先で火を着け、紅い煙を横たわる魔者に向かって吐いた。弔いの念を込めて。


「…… すまない、苦しめるつもりは無いんだ。衰えたな、私も」

「おかあさん、かなしいのぉ?」

「どうしてだ?」

「おかあさんがふーってするときは、かなしいときだよぉ?」

「…… そうさね。悲しいね」


 子供というのは、大人をよく見ている。

 

 私はまだ僅かに息をする姦美樹の歪な頭部に右手で触れた。

 そして、魔者らの体は私の色で紅く染まり蝶々の紋様が体に浮かべば私の影からそれらは現れる。


  ― 時と色を吸う蝶たち― 【サイ・レン】


 黒い輪郭に半透明の蝶々は、紅く染まった魔者らの色と時間を吸い付くすと宙に舞い、一匹一匹が折り重なり、頭上、逆さに咲く半透明の華となり夕闇を透かした。

 

 そうして華の中心に蝶々が吸ったものが集められる。ソレは、魔者らが奪ってしまった、記憶、命、選択、そういった人としての色と時間。


 それは集まると紅い塊となり、紅く透ける胎児となった。華が廻り、夕闇を透かす半透明の花弁が彼らを繰返す。そして、胎児が泣けば華は散り始め、彼らを写した花弁はひらひら舞う度、成長し、人の形へと変わっていく。


 地面に落ちる頃には完全な人となった。


 これで先程死んだ人間は衣服を除いて元に戻ったか。まぁ、二、三年は縮んだろうが。


 私は、最後に残った紅い胎児を私の体の中に沈めた。

 

 胎児と目が合う瞬間だけは最後まで慣れそうにない。

 

 

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