光のかたわら
桐嶋遠子
ひかりと影
統合失調症。
過去には精神分裂病とも言われていた病で、精神疾患のひとつ。この病に罹る人間は少なくない。約100人に1人が罹ると言われている普通の病であり、ストレス社会に陥って久しい現代日本ではありふれていると言える。けれど、自分がこの病だと自覚している人間はそう多くない。何せ、症状が自分の内側にしか現れないのだ。起こっていることが現実なのか妄想なのかの区別が付かないまま、猜疑心に溢れて社会生活を送り、心身共に削られ、死を考えるようになりようやく受診する、といったケースも頻発する。中には、自分が病であると気付かないまま命を絶ってしまう人も居る。それは悲劇と言うほかないが、もう少し何か出来たかも知れない、と思うのは残された人の業であり、本人にとってはそうすることしか出来なかったのだろうし、仕方のない結末だと思う。
僕はそうではない。そうではないが、そうしてしまう気持ちは分かる。夢原凪、男子高校生、17歳。半年前に統合失調症だと診断された。部活には所属していない。高校には、行ったり行かなかったり。幸い、家族が理解してくれているので、僕が食事を摂らなかったり感情の起伏が激しくなっても、ある程度まではそのままにしておいてくれる。部屋に居る間は、漫画を読んだりゲームをしたりするが、症状が酷くなるとそうすることも出来ず、ただ一日寝ていることしか出来ない。寝ているといっても、常に不眠が付き纏うので、ただ頭痛と共に寝転がっているだけだ。たまに落ちる短い眠りの中では、何かに追い掛けられたり襲われたりする悪夢を見る。嫌な汗を噴き出しながら飛び起きれば、そこにはいつもと変わらない現実があるだけ。吐き気がするくらい単調で、閉塞感に囚われた逃げ場のない日常。眠れないまま朝方に聞く鳥の声は、全てを壊したくなるくらい呑気だ。こんな世界に誰がしたのだろう? ―いや、それは紛れもなく僕のせいだ。自問自答は闇の中、いつも答えは自分だけが持っていて、扉を開けられるのは僕しか居ないのに、鍵を失くしてしまって出られない。誰か助けて欲しい、誰でも良いから。そう叫んでも、ここには僕だけが居るのだった。
そんな酷い状態の中でも、微かな光は差し込むもので、今日は高校に行ってみようかな、と思える日があったり、今日は散歩をしてみよう、と思ったりする。外に出た結果、嫌な目に遭って余計引き籠ったりすることもあった。苦しくて悔しくて、涙を流す日もあった。それでも続けて前に進もうと思える日は、一先ず自分を褒めて、明日も出来たら良いな、と曖昧な希望を持たせておく。出来なかったからといって自分を貶めることはないと主治医の先生は言っていた。上手くいかないときはつい自分のせいにしたくなるが、人のせいにして明日を待つのも良い、と。どうしても苦しいときはやっぱり自分を責めてしまうけれど、許してあげることも大事なんだそうだ。ときどき、そうだな、と思い、ときどき、いややっぱり自分のせいだ、と反発して、苦しいながらに日々を過ごしていく。
その日は、特に調子が良くなくて、ベッドの上で一睡も出来ずに固まっていた。カーテン越しに見える朝焼けが嫌に不気味で、今下手に眠ってしまったら酷い夢を見そうで、何とか半身を起こす。そのまま家族が起きるのを待とうと思ったのだが、部屋が狭まって来る妄想に襲われて、怖くて、逃れたい一心で外に出た。行き先も分からず走って、近くの河川敷に辿り着く。息を切らしながら、引っ掴んで来たスマートフォンで時間を確認すると、朝の5時だった。流石にこの時間はまだ誰も居ないが、もう少しすると犬の散歩やジョギングなどで人がちらほら見え始めるはずだ。戻ろうかどうしようか、道端で考え込んでいると、後ろから足音が近付いて来た。気付いた瞬間はびっくりして身を竦めてしまったが、続いて聞こえて来たのは、「あれ」と言う知り合いの声だった。
「凪じゃん。久し振り」
恐る恐る振り向いて確認すると、そこに居たのは確かに知り合いだった。僕には、現実と妄想の区別が付かなくなるときがあるが、この人だけは、いつ会っても現実だと分かる。唯一の人間。
「久森、……さん」
久森雛子というのが彼女の名前だった。家が近く、子供のころからの知り合いで、僕にとっては一応幼馴染ということになるが、仲良くしていたのは部活の垣根がない小学生まで。中学に入って彼女が運動部に入ってからは接点がなくなり、偶然一緒になった高校でも話すことは皆無と言って良かった。ただ、家だけは何年時を重ねても変わらないので、たまに会って、彼女の方から話し掛けてくれば答えた。今はそれだけの関係なので、昔は雛子と呼び捨てにしていたけれど、どうしても遠慮してしまう。彼女はそういう感覚が無いらしく、昨日会ったばかりみたいに普通に話し掛けてくる。
「また眠れないの?薬飲んだ?」
東京といっても23区内ではないので、都会の空気はなく、そういった噂はすぐ流れるのだった。無論、僕の病気は近所に知れ渡っている。唯一救われるのが、彼女は好奇心で訊いているのではないということ。常に人を疑ってしまう僕でもすぐに分かるほど、素直に感情を表す人だった。見た目は少しきつめで、鋭い瞳が野良猫に似ているけれど。そういえば、ポニーテールは尻尾みたい。悪夢の中でそっと洩れた陽だまりみたいに苦笑した僕を見て、彼女は目を丸くした。
「なんか変なこと言った?」
「……ううん。猫みたいだなと思って」
「何が?」
「何でもない。……薬は飲んだよ。眠れなかったけど。久森、さんは?」
遅れて問いに答え、誤魔化すように話を振ると、彼女は素直に受け止めて自分のことを話した。苦しくて逃げたくて、ふと迷い込んだ場所で、昔の人間関係を思い出すことがある。ああ、あのころは良かったな、とひとときでも思うために。そういうとき、僕の記憶のまんなかで、いつも彼女は笑っていた。太陽みたいに明るく、ひときわ眩しく心を照らす指針のような彼女は、何度か僕の救いになった。そんなこと、決して言えやしないけれど。
「私? 私はランニング。大会近いから」
「……何部だっけ」
「バレーだよ。バレーボール」
バレー、と言われても、中学のとき、体育でひたすら嫌だった記憶しか残っていない。漫画や小説で読むスポーツはきらきらして見えるけれど、実際は地味で苦しい練習をひたすら繰り返している、ということを知っているから、自分でやろうとは思わない。いや、そもそも、自分に出来ると思っていない。そうしてすぐ逃げるから、僕はダメなんだ。いや、こういう思考がダメなのか―。せっかく少し前向きになったのに、元の闇に戻されそう。苦しい。逃げたい。無意識にか、光を求めて顔を上げる。そこに、一欠片も現実感を損なわない、彼女が居た。ああ僕はまだこの世界に居て良いのかも知れない、と思わせてくれる。この存在の強さは、果たして昔からのものだっただろうか。僕が勝手に救いを求めて彼女の光を強くしていったのかも知れない。今は、それでも良かった。刹那でも、この陽射しに縋りたい。
そうしてしばらく、話を振られて答えたりしていたが、次第に人が増えて来たのと、ランニングを邪魔してもいけないとの思いで、じゃあ、と背を向けて立ち去ろうとした。光に惹かれるのを、断ち切って。自分の足で、歩かなければ。その歩みを、彼女の声が止める。
「凪」
凛とした声は、朝の澄んだ空気に良く響く。僕の平凡な名前も、彼女に呼ばれるとどこか特別に思えてくるから不思議なものだ。背を向けたまま聞いていると、閉塞感を切り開くように快活に、彼女は言った。
「私、この時間、いつもここにいるから」
それ以上のことは言わず、弾むような足音が向こう側に遠ざかっていくだけだった。あとには僕が残され、一人ぼっちで路頭に迷いながらも、拠り所をみつけてほんの僅か心を緩ませる。いつの間にか鳴き始めた蝉の声で、そういえば夏だった、と気付くくらいには意識が希薄だけれど、それでも何とか生きていけそうだ、という気になってくる。
そして、日常。幻覚と妄想は日々波のように訪れて僕の平穏を掻き乱す。それでも前より高校に行けることは増えて、嫌な汗を噴き出しながら夜中目覚めることは減った。主治医の先生は、少し安定してきたね、と言う。僕はその原因、というか、根本を言えない。別に、あの後実際彼女に会って、話したり何かを貰ったりとした訳ではない。ただ、辛いときに行っても良い場所があることは、僕にとって予想外の特効薬だった、というだけ。僕にとって、と括ってしまったけれど、少しでも悩んでいる人には、誰でも有効な手ではないだろうか。今の僕は自分のことだけで精一杯だから到底無理だけれど、もし将来似たような悩みを抱えている人に出会ったら、そのとき僕に余裕があったら、教えてあげたいと思う。思うだけ、で終わらなければ良いな。
次に彼女に会ったのは、また状態が酷くなった夜、明け方までを何とか耐えて、それこそ縋るように河川敷を訪れたときのことだった。夏の終わりで、まだ暑いのにパーカーのフードを深く被って、目線を避けながら待っていると、やがて彼女が現れた。今度は僕の正面からやって来たので、余計な不安を覚えずに済んでほっとする。彼女は僕の顔を見ると、「おはよう」と笑った。寝てはいないのにおはようと返すのも変な話だな、と思いながら、一応、おはよう、と答えておく。前のように立って話すのかと思っていたら、道端に座り込んだので驚いた。次いで、自分の隣のスペースを手のひらで叩き、
「凪も座りなよ」
とまた笑う。おずおずと、示されたスペースから少し離れたところに腰を下ろした。そのことについて彼女は何も触れず、またほっとする。噂や又聞きだろうに、僕の精神状態についての配慮をしてくれている気がする。これはきっと彼女のお人好しから来るもので、僕だから特別ということは無い。だから、期待などするはずも無かった。そもそも、分け隔てなく光になれる彼女だからこそ、その光に当たっても良いのかな、という気になれるのに、自分からわざわざ特別になりたいとは思わなかった。
座ったところで、彼女はとりあえず部活についてを話し始めた。インターハイ予選はダメだったこと、けれど春高までは残るのでそれが最後の試合になりそうだということ。だからとりあえず予選を勝ち抜かねばならないこと。僕にはほとんど分からないことだらけだったけれど、それなりに切迫詰まっていることは分かった。それならこうして話している間にも走った方が良いのではないかと思うのだけれど、話を聞く限りでは春高の予選とやらは秋らしいので、まだ少し先のことになる。良いのかな、と思いながら、話せることはやぶさかではないので訊かれることには答えた。
しばらくは最近の状態について訊かれていたのだけれど、彼女が急に、「凪ってさ、家で何してるの?」と訊いたので、戸惑う。何、と言われても、誇れるようなことは何もしていない。漫画とか、ゲームとか。ありのままを答えた僕に、彼女は意外なことを口にした。
「昔さ、小学校のころ。読書感想文とか作文とか得意だったじゃん」
「そういえば……まあ……そうだったかも」
「小説とかさ、書いてみれば?いきなりそれが難しかったら、日記とか」
「日記なら一応毎日書いてるけど……小説……って、僕が……?」
日記は、主治医からの提案でもあった。日々の記録をしておくことは、状態の変化に気付くことに繋がるから、と薦められ、スマートフォンでちまちま書いている。とはいえ、あったことと食べたもの、見た夢を覚えていればその覚書と、その日の病状についてをちょっと書いているくらいだ。僕の場合、最初の診断で統合失調症だと言われた訳ではなく、何度か通う内にはっきりしてきたとのことで病名を告げられた。それが半年前のことだが、そのときから一応日記は続いている。大体が眠れない夜に書き綴り、短いながらも眠れた日は起きたそのときに悪夢のことを追記する。稀にちゃんと眠れたとしても寝つきが悪いので、その日あったことを書く時間には十分足りた。寝る前にスマートフォンを見ることは睡眠に悪いらしいが、眠れずにただ布団に包まっているのも暇だし、日記は書くものだという意識があるため、毎度開いてしまう。
とはいえ、そこから急に小説だなんて、敷居が高すぎやしないだろうか。何も最初からまともなものが書けるとは彼女も思っていないだろうけど、基本的に無気力で、何をするにもやる気の足りない僕が、小説。読んではいても、書ける気がしない。思いあぐねていると、彼女が急に手を叩いた。
「あ! 思い出した!」
「……何を」
「小学校のとき、私たち創作絵本クラブで、私が絵描いて、凪が話作ったりしてたじゃん」
「ああ…………あった気がする」
「あのときの話、先生にすごく評判良かったし。あんな感じで書けば良いんじゃないかな」
それは彼女の絵が良かっただけではないかと思うのだが、彼女は全てが僕のおかげだとでも思っているかのように笑ってこちらを見ている。目線が、眩しくて、顔を背ける。
言われてみれば、そういうことも、あった気がする。大分とおぼろげな記憶だ。創作絵本、といっても、画用紙を何枚か折って本の形にしてホチキスで止め、話を作って絵を描いて、とするだけの、子供の遊び程度のもの。そもそもあれは、あのころから暗かったとはいえ一応僕が人並みな生活を送れていたころの話で、こんな精神状態の今、まともな文章なんて、書ける気はとてもしない。日記でさえ、酷かったときのものを読み返すと何を書きたいのか支離滅裂だったりするのに。
それでも何故だろう、彼女が本当に僕のためを思って言っているからか、光である彼女の言うことは正しい気がするという僕の思い込みか、やってみようかな、という気になった。挫折したら恥ずかしいし格好がつかないので、まあ気が向いたらね、とだけ答えて、別の話にすり替えた。
家に帰って、高校に行く準備をしながらも、白紙のノートを一冊、持って行こうかなと考える。すぐには書けないにしても、小説家というのは、日常からネタを書き溜めていくものだと聞く。地獄のような日々でも、何らかの話の筋書きが見出せるかも知れない。どうせ授業は頭に入らないし、今はテスト期間でもないし、劣等生の僕が何をしていたところで教師も気にも留めない。そもそも全ての時間教室に居られるとは限らなかった。いつもは保健室に居る間も本来出るはずだった授業の教科書を開いたりしているが、今日は、ノートを開いてみよう。少しでもやる気が出れば、それで上々。彼女の光に頼った価値もあるというものだ。
最初は教室に行ったものの、視線が気になって吐き気がして来たので三時間目の休み時間、保健室に逃げ込んだ。戻れるか分からないので鞄も筆記用具も全て持って。保健医の先生は僕を見ても嫌な顔はせず迎え、ベッドを使うかどうかを訊ねてくれた。悩んだ末、とりあえず良いです、と答えて、机を借りる。持って来たノートを広げた。今のところ授業に出ていた間得られたものと言えば劣等感だけで、こんな状態で小説なんか書ける気はしないが、最初からやる気を失っていては何も始まらない。一先ずシャープペンを手に持った後、小説ってどうやって書くんだろう、と思い、ポケットからスマートフォンを取り出した。シャープペンを置いて、検索画面で『小説の書き方』と入れて、タップ。検索結果がずらずらと並ぶ中、比較的分かりやすそうなものを選び、開いてみる。
見慣れない文字ばかりが並んでいて良く分からないが、本文を書く前にプロットというものを作るらしい。話の粗筋みたいなものなのだろうか? 後は登場人物の設定を決めたり、舞台設定を決めたり、と言ったことをするようだ。僕の場合、専門的な知識はないし、分かりやすいのは現実世界のことなのだろう。とりあえず、ノートに、『現実世界での話』と書く。しばらくそのまま一時間くらい悩んでいたが、何も思い付かない内にチャイムが鳴り、昼休みになった。食欲はなかったものの、母が用意してくれた弁当があるので、一度シャープペンを置いて食事を摂ることにした。昨日、というか、ここ一週間程状態が良くなく、殆ど食べていなかったせいもあり胃が縮んでいるのだろう、すぐに満腹になってしまった。これ以上食べたら吐いてしまう。母に申し訳なく思いつつ、途中で手を止めて弁当の蓋を閉めた。そして空腹が満たされたからなのか、それとも連日の睡眠不足が祟っているのか、その両方か、眠気がやって来た。保健医の先生に許可を取り、窓際のベッドに潜り込んだ。目を閉じる。
夢を見た。いつものような追い掛けられたり襲われたりする悪夢ではなく、ただひたすらに目映い、彼女の夢だった。過去の記憶から取り出されたように満面の笑みを浮かべた彼女。久森、雛子。何も与えられない僕に、数々の救いをくれた彼女が、笑っていた。僕に向けた笑みではないだろう。笑っているのは『今の』彼女であり、僕にそんな笑顔を向けていたのは小学生のときまでだ。だからこれは、僕が作り出した幻、ホログラフ、幻影―そのどれかに過ぎない。けれど、目が覚めたとき、言い知れぬ高揚感があった。ベッドから起き上がり、机に戻る。保健室の時計で確認すると、寝ていたのは一時間程度だったようだ。夢の内容のせいか、何時間も熟睡出来た気がしていた。もう一度ノートを開き、『光』と書き記す。
僕の中で一番身近なのが病のこと、その次に身近なのは家族だけれど、僕にとっての光は紛れもなく彼女だ。僕の病と、彼女がもたらした光についての物語を書こう、と決めた。僕は勢いのまま、プロットを作っていった。余り現実に寄せ過ぎると小説ではなくエッセイになってしまうので、登場人物は難儀したが架空の人名を付け、関係性も実際とは異なるものにした。そうしてノートを二ページ埋めるころ、授業が終わり学校がざわつき始めた。今帰ると多くの生徒と帰宅時間が被り、肩身の狭い思いをすることになる。僕はまだノートを埋めることにした。そうして、初めて作ったプロットが一応完成の兆しを見せ始めたころ、保健室に聴き慣れた声が響いた。
「失礼しまーす」
ガラ、と扉が開き、彼女が入って来た。「すみません、絆創膏を……」と言ったところで机を陣取る僕に気付き、笑顔を見せた。勿論さっき夢で見たような満面の笑みではなく、口元を綻ばせただけだ。僕も小声で、どうも、と答えて、何でもない振りをしてノートに向かった。少し間を置いて、絆創膏を受け取り怪我をした部分に貼ったらしい彼女が近付いて来る気配がして、さっとノートを閉じた。顔を上げて向き直る。
「学校来られたんだ。酷いって言ってたのに、すごいじゃん」
「まあ、何とか。……怪我、大丈夫?」
「大丈夫だよ。かすり傷くらいならしょっちゅうだしね」
Tシャツの上からビブスを着た彼女が笑う。保健医の先生が、「友達?」と訊く。どうやら彼女に訊いているようだったので、僕は息を潜めた。
「友達です。幼馴染ってやつです」
そうしてこちらの方を見て悪戯っぽく笑った彼女は何というか意外な感じだった。勿論僕があくまで『昔の友達』としか認識出来ていない彼女も、彼女の中での僕は現状でも『友達』で『幼馴染』なのだ。だから、言葉というよりは、表情に驚いたのかも知れない。昔は快活に笑う姿しか見ていなかったから、こうして少し悪戯っぽく笑うのは珍しかった。僕以外になら誰でも見せている表情なのだろうけど。少し気が紛れたが、先程彼女のことを考えながら小説を書こうとしていたことに気付き、何より先に恥ずかしさを感じた。彼女は感受性が豊かだから、僕の書いた話を読んだだけで気付くかも知れない。実話をベースにした創作を書こうとしているのだから。
ただ、彼女がこの話を読むことはないだろう。どうせ今まで小説など書いたことのない高校生が書いた小説如き、箸にも棒にも掛からないに違いない。そもそも賞に出す気があるのかと言われてもそれも微妙だ。普通の状態でも支離滅裂な文章になる僕が、まともに文章なんか書ける訳がない。これを思うのは二度目だけれど。
彼女は保健医とお喋りを始めた。最初の内はプロットを書く振りをして聴いていた僕だったが、何故か彼女が僕の昔の話ばかり振るので恥ずかしくなって、練習良いの、と訊いてしまう。そこで彼女は、あっ、と小さく叫び、
「ごめん、凪、また今度ね! 先生ありがとうございました!」
と言って去って行った。不安なのか安堵なのか分からないものが胸を過ったが、知らない振りをして一度閉じたノートにペンを走らせ続けた。しばらくそのまま続けていたが、保健医の先生が、ふと、
「良い子だよね、久森さん」
と言ったので、ああ、はあ、まあ、と当たり障りなく答える。彼女が唯一の光だなんて言ったら重いと感じて引かれるだろうし、万が一にも本人の耳に入るとまずい。適度に嘘を吐きながら、またしばらくノートに書いていく作業に没頭した。
しかし、僕には文章を書くということが、案外向いているのかも知れない。プロットと登場人物を決めるのには難儀したが、進み始めてしまえばどうにでもなる。まず文章が頭の中で浮かび、それを抜き取っていく作業。要らないところは省き、足りないところは補う。元よりあってないもののような協調性、そこから発生するコミュニケーションよりは余程身になる作業だ。ただ、傍から見て支離滅裂になっていないか、これが心配ではあった。何分僕の病気は考えがまとまらなくなる病気だ。まとまらない考えから生み出したのに、まとまった文章が書けるものなのだろうか。誰かに読んで貰うのが一番なのだろうが、それは無理な話だった。僕には友達が居ないし、友達だと言ってくれた彼女に読んで貰うのは持っての他、親にも読ませたくはない。まあ良いか、どうせ誰にも見せる気はないし、と開き直り、ノートを埋める作業に没頭し続けた。
やがて日が暮れ、保健医の先生にも「そろそろ帰ったら?」とさり気ない追い出しを食らった僕は、大人しく頷いて荷物を纏めた。流石に部活動と関係のない生徒は帰っただろう。少なくともすぐ出るよりは大分と人も少ない筈だった。保健室を出ると、廊下の明かりは点いていたものの、人は居ない。これなら安心して帰れそうだ。
玄関を出ても、人が居たとして遠くにぽつぽつと見えるだけで、近くには誰も居ない。僕は校庭を歩き、門を出た。電車に乗るのが辛いので、歩いて行ける距離の高校を選んだお陰か、すぐ家に着いた。母はもう家に居て、夕食の支度をしていた。僕は小声で、ただいま、と呟き、自室に上がる。ノートだけ取り出した鞄を床に置いて、パソコンを立ち上げて、その間に着替えた。制服を壁に掛け終わってから画面を見ると、ログイン画面になっていたので、パスワードを入れて椅子に座った。
ノートを横に置いて、昼間書き連ねたことをテキストに纏めていく。その際、要らないところは省き、足りないところは埋め、としていたせいで、全てを入力する前に夕食の時間になってしまった。一旦保存して一階に降り、食卓に座る。夕食をテーブルに並べながら、母は、「今日はどう?」と心配そうに訊ねた。
「うん、まあ、多分……今は大丈夫」
夜から朝に掛けては酷かったものの、彼女のお陰か、彼女の助言のお陰か、その後は安定していたような気がする。そう、と返す母はほっとしたような面持ちだった。その会話をして思い出したけれど、今日の僕は一睡もしていない。今日は金曜日だから多少夜更かししても明日に響くことはないが、確かに頭が重い。ノートに書いたことを全て入力したら寝てしまおう。夕食を食べながら、そんなことを考えた。
風呂に入った後自室に戻ると、僕はすぐパソコンに向かった。ノートを見ながら、添削をし、打ち込んで、ファイルが完成するころには結局日付を越えていた。薬を飲んで寝支度を整え、ベッドに入る。慣れないことをして疲れているからすぐ眠れるかと思ったが、やっぱり不眠は付き纏うもので、ごろごろと寝返りを打っている間に、今日の日記を書いていないことに気付いた。枕の傍に置いてあるスマートフォンを手に取り、今日あった出来事を打ち込んでいく。
―と、気付いたら朝だった。手に持っていたはずのスマートフォンを探すと床に落ちていた。恐らく、打ち込んでいる途中で寝てしまったのだろう。スリープを解除すると、ぱっと日記の画面が表示された。やっぱり、と思いながら読んだら、ふとおかしなことに気付いた。
いつもの日記では、彼女の話題を上げるときも『彼女』とだけ書くのに、昨日は何やら『雛子』と書いてある。眠気で、脳内が小学生のころまで退行していたのだろうか。恥ずかしかったので直そうかと思ったが、どうせ誰も見ないし良いか、と思い直し、そのままにしておいた。ただ、降りて身支度を整えたり、朝食を食べたりしている間もずっと気になり、そわそわと落ち着かない。スマートフォンは持って来ているので今直しても良いのだが、万一家族に見られたら恥ずかしい。大学に通うため一人暮らしをしている兄の元へ向かう両親を玄関先で見送った後、走るようにして自室に向かってすぐ日記アプリを開いた。何故さっきは平気だったのだろう。どうしても恥ずかしくて仕方がない。かあっと熱くなる頬を感じながら直し、一息を吐く。けれど脳裏からは、彼女と未だ親しい間柄であるように振る舞ってしまった事実が消えず、一人、悶々としながらしばらくベッドに寝転がっていた。恥ずかしい、消えたい。気持ちがどんどんと底へと向かう中、続きを書こう、と思い立って、まあ正直に言えば気を紛らわせたい一心だったが、とりあえずパソコンを立ち上げた。昨日書いたところにおかしな文がないかをチェックしながら、続きを打ち込んでいく。
喉の渇きと空腹に気付いて時計を見ると、昼に近い時間になっていた。随分集中していたようだ。普段何をしていても気持ちがまとまらない僕が、こんなにも集中するのはとても珍しい。一階に降りて母が置いていってくれた昼食を食べた後、飲み物のペットボトルを持って再び自室に戻った。また、ひたすら書き続ける。たまに最初から読み直し、その度に誤字を見付けてうんざりしながら直し、続きに戻る。それの繰り返しだった。
休憩を入れたとき、外が大分と暗くなっていることに気付いた僕は、玄関と居間の電気を点けに行った。両親はまだ帰って来ていない。時刻は18時半。兄と夕食を摂った後、僕には何かを買って来てくれるのだろう。余り空腹は感じていないが、今日は生産的なことをしたからか、調子が良い。こんなに生産的なことをしたのは、彼女が言っていた『創作絵本クラブ』以降初めてのような気がする。でも、慣れないことをずっと続けていたからか少し疲れていて、それを癒すためにも先に風呂に入ることにした。まだ完全には夏も終わっていないが、ちゃんと湯船に浸かろう。風呂掃除をして、湯船に湯を張り、その間、今日ほとんど見ていなかったスマートフォンを見て過ごした。SNSには僕と同じような人が沢山居る。僕よりもっと酷い人も沢山居るが、それより多いのが、自己顕示欲と構って欲しいがために病んでいる振りをする奴だ。近頃はそれに『ファッションメンヘラ』という名称が付いているらしい。実際のところ誰が本当で誰が嘘なのかは分からないし、SNS上のことだから何がどうでも僕に関係はないのだが、自分が真剣に悩んでいる病を、それこそファッションのように使われると正直腹は立つ。若干ながら心に暗い陰が落ち、沈みつつある間に風呂が沸いた。この気持ちも洗い流してしまおう、とソファから立ち上がり、洗面所で服を脱いでいるとき、いつもより肋が目立っていないことに気付く。昨日の夜こそ調子が悪かったものの、ここ最近は安定していたので、そのためだろう。幾らか満足感を覚えて風呂から上がると、両親が帰って来ていた。二、三言葉を交わし、買って来てくれた寿司を食べて、自室に戻る。そのまま1時過ぎまでずっとパソコンの画面と向き合い続けた後、眠りに就いた。
目が覚めたとき、カーテンの隙間から差し込む光が大分と弱かった。雨でも降っているのかと窓の外を見たら、まだ薄明るい程度で、今度はスマートフォンに目をやる。時間を確認すると、朝の5時だった。寝つきが良かった代わりに早朝覚醒をしてしまったらしい。ゆっくり眠るつもりだった僕は、肩透かしを食らった気分だった。せっかく調子が良かったのに、思わぬ傷を負った。無意識に救いを求め、また河川敷に行こうかと思うものの、一昨日会ったばかりだ。頻度が高すぎて、気持ちが悪いと思われるかも知れない。勿論彼女がそんなことを思う人間ではないと知ってはいるが、不安なものは不安だった。しかし眠れる気もせず、仕方がなく身支度だけ整えて続きを書こうとベッドから起き上がる。顔を洗って歯を磨いた後、念のために頓服で処方されている安定剤を飲んで、パソコンを立ち上げた。
書き続けているうちに昼になり、夜になった。空腹は感じず、僕はそのまま書き続けることにした。ひたすら頭に浮かんだ文章を整えながらキーボードで打ち込んでいく。次第に、終わりが見え始めて来た。何分初めて書くのだから短く終わるものを、と考えたので、一日中書いていればそうなるのも無理はないのかも知れない。集中しているせいか、朝懸念した不安感や焦燥もなかった。ほっと一息を吐く間もなく、また思い浮かんだ文章を書き留める。文字が洪水のように浮かんで、浮かんで、次々溢れる。中には関係のない思念も混じっているので、その中から今書いているものの続きだけを抜き出し、綴る。気持ちがまとまらない、妄想、幻覚・幻聴といった、病気の症状が出ないのはいいが、これはこれで困る。放っておいてはすぐ消えてしまうから、書き留めるしかない。今関係なさそうなものも、何れ使えるかも知れないと別のファイルにメモをしておく。
夜中の2時少し前、僕が書いた最初の物語は一先ず完成した。病に苛まれる主人公と、それを知らずのうちに救う女の子の話。自己投影が多分に含まれているが、手記というよりは小説の形になっている、と、思う。そう思いたいだけかも知れない。
推敲は明日にしようと立ち上がり、伸びをしてから風呂に向かった。普段は風呂に入ってから夜を過ごすので、夜中に入るのは久し振りだ。当然ながら居間の電気は消えていたので、家族を起こさないように風呂場の電気だけ点け、夜も遅いのでシャワーを簡単に浴びて、部屋に戻った。薬を飲み、明かりを落とす。けれど、書き上げたという達成感のためか、はたまたそこから湧き上がる興奮のためか、なかなか寝付くことが出来なかった。寝ようとした時点でもう4時だったので、少し寝返りを打ったりしている間に5時を過ぎた。僕はこのことを誰かに共有したい気持ちが抑えきれず、上着だけ羽織って玄関を飛び出した。
河川敷に向かっている途中で気が付いたが、今日は月曜日だ。高校へは行こうかどうしようか。眠くはないから行ってもいいけれど、特に得るものもないし、それなら家で推敲をしていた方が生産的且つ有意義な気がする。ただ、親に学費を払って貰っている以上、そんな理由で行かないのも申し訳ない。行くか、と心を決めたところで、河川敷に着いた。9月も終わりという時期なので、流石にもう蝉の声は聴こえない。微かに風があり、ススキが揺れていた。日々自分のことでいっぱいになっている上に閉じ籠もりがちな僕は、季節の変化に疎い。思えば気温は大分と低いし、朝5時の暗さも以前とは様子が違った。そうした違いに思いを馳せていると、右側から足音が近付いて来た。弾むような。踊るような。彼女だった。
「おはよ」
「……おはよう」
「どう? 調子」
「まあ……大分まし、多分……」
良かったねと言って彼女は笑った。その笑顔は相変わらず陽の光みたいに眩しい。そんなに眩しい彼女に、僕なんかがひとつ何かを成し遂げただけで報告していいものなんだろうか。急に迷いが浮かぶ。すると彼女は、それを敏感に察し、「どうしたの?」と問い掛けた。暫く、あ、とか、えっと、とかを繰り返していた僕は、こうして迷っていること自体が恥ずかしくなって、話し始めた。
「この間の、……えっと」
「何だっけ? あ、小説?」
「あ、うん……」
「どう? 書いてみた?」
「一応……ひとつ、終わった」
曖昧に濁しながらもそう言うと、彼女は手を叩いて喜んで、「えー! すごいじゃん!」と朝には似つかわしくないほど明朗活発な声を上げた。すごいすごい、と繰り返され、いやすごくないから、と答えていると、突然嫌に真面目な口調になって、彼女はこう言った。
「凪ってさ、昔からそうだよね。創作絵本クラブのときも、読書感想文で賞取ったときも、すごくない、誰でも出来るって言うの。でもそれって、やっぱり誰でも出来ることじゃないよ。凪だから出来たんだよ。もっと誇っていいと思うよ」
「そう、なのかな……。……なんか、ごめん」
「謝るとこじゃないよ」
口元だけで微笑んで、彼女は一度背を向けた。ランニングを再開するようだ。でももう一度振り返って、「今日は学校来る?」と僕に訊ねた。行くつもり、と答えたら、彼女は満足そうにもう一度笑い、ポニーテールを揺らしながら走って行った。
家に帰り、高校へ行く準備を整えながらも、彼女に言われたことを反芻していた。確かに僕には、ひとつでも何かを成し遂げることができたとして、こんなの普通の人なら誰だって出来る、と思う節があった。高校へ行く、教室で座って勉強をする、部活をして帰宅し、食事と風呂をこなし、普通に寝入る。それが僕には出来ないからだ。高校にはときどきしか行けず、教室で座ることも出来ず、部活もせず、食事を摂らないことはざら、風呂だけは毎日入るものの、寝つきは悪く眠れない日も多い。だから、こんな僕が出来ることは誰にだって出来るという意識があって、どうしても、『普通の人』に対して劣等感を感じてしまう。僕なんか、という意識、それが良くないことは分かっているのに、気付くとその思考に陥っているから、自分でも止められない。日常生活すら送れない僕がまともな社会生活を送れるはずがなく、職にだって就けるか怪しい。でも。
―もし、この『小説』という表現手段が、僕に合っているとしたら。
―もし、この手段で、生活することが出来たら。
そんな考えが、脳裏をちらつく。著名な文豪たちも、心に病を抱えている人は多かったと聞く。日本文学で言えば、有名なのは芥川龍之介、太宰治だろう。勿論その二人と自分を並べるのはおこがましい。それに、二人とも最期は壮絶だったという話だ。ただ、僕にだって、出来ないことはないのかも知れない、と思い始める。
高校へ行き、一・二時間目だけは何とか教室で受けて、三時間目になるころ限界が訪れて相変わらず保健室に避難した。ノートを開き、授業で気になった言葉などをメモしておく。勉強のためではなく、新しく書く物語のきっかけになる可能性があるからだ。いつどこで思い付くかは分からないから、少しでも浮かんだ言葉は全部書き留めることにした。ノートを出すのが難しければ、スマートフォンのメモ機能を使い、落ち着いてからノートに書き写す。昔の文豪のように原稿用紙と万年筆で、というのは無理だが、全てをパソコン上で終わらせるより、僕にはこの方法が合っているようだった。
繰り返し、繰り返し、ネタをメモに残し、それを文章化し、としている内に、冬になっていた。相変わらず季節に鈍感な僕だったが、冬であることに気付いたのは、応募した賞の発表が迫っているからだ。11月初旬に締め切られたその賞に、今まで書いた中で一番の出来だとおもえるものを投稿したのだった。発表は、2月の中頃。今は1月だから、それまではまた、ルーティンとなったことをひたすらこなしていく。幾つか書き上げる内に、どうやら僕は書くのが速い方だという認識が芽生えた。早ければ三日、遅くても二週間で賞に出せる程度の長さの小説が書き上がる。まあ、それが賞足り得るものかは別として、これはある種長所のようなものに思えた。
その日は何となく、予感があった。妙に早朝に目覚め、それだけならいつもの早朝覚醒で済むのだが、何だか嫌な感じがした。自身の精神の悪化とは異なる、嫌な感じが。
彼女とは、小説が行き詰ったとき、河川敷に行き、他愛のない話をしていたが、最近は会っていなかった。最後に会ったのは、確か12月の末。「予選突破したから、来月になったらすぐ春高なんだ」―そう笑った彼女は、何だか誇らしげに見えた。
ベッドの上でスマートフォンを見ると、1月17日、午前5時、と表示されている。けれどもう春高とやらも終わっているだろうし、センター試験だって終わったばかりだ。そんな日にランニングになんか来るだろうか? けれど、何か嫌なものを感じた僕は、部屋着の上からコートを羽織り、河川敷に向かった。
果たして彼女はそこに居た。但し、いつもと違う姿で。川に向かって腰を下ろし、こちらから見える横顔も暗い。やはり何かあったのだろうか、と不安になり、呼び掛けようとしたとき、ある違和感に気付いた。
今は、真冬だ。しかも今は朝方の殊更寒い時間。通常なら、完全防寒の服装をすべきだろう。しかし、彼女は片足が裸足で、サンダルを履いていた。その足には、ギプス。やがて近付いて来た僕に気付いて振り向き、力のない笑みを見せた。
「凪……来ると、思ってた」
「……どうしたの、それ」
「春高の……一回戦でね、やっちゃったの。こっちがリードしてて、マッチポイントだってもうすぐで……でも、わたしが抜けて入った子は二年生で、初めての全国大会に上がっちゃって、そのまま……負けちゃった」
僕には、返す言葉も見付からなかった。あれだけ小説を書いて、書くだけではいけないとあらゆる小説を読み、語彙力だって多少ましになった筈なのに、ひとことも出て来なかった。
何より、彼女がこれだけ元気をなくしているのが、初めてで。勿論今まで、僕の知らないところでは幾度もあったのだろう。中学校のときだって部活で負けたことはあるだろうし、高校になってからも勝ち続けていた訳じゃない。現に、夏のインターハイ予選は負けたと言っていた。でもそのときですら彼女は明るかったから、彼女の笑顔は失われないものなのだと、勝手に思い込んでいた。あれだけ眩しかった陽射しも、今は見る影もない。
気付くと彼女は、涙を溢していた。それは、昔から知っている彼女の、初めての涙だった。彼女のことだから、きっと、チームメイトや同級生には、笑顔で振る舞ったのだろう。けれど、僕にだけ見せているかも知れない涙も、僕にとっては痛々しいだけだった。彼女が泣いていて辛いだけだった。何も言えないまま、時間だけが過ぎていく。
「凪……」
彼女が僕の名を呼ぶ。恐る恐る、何、と訊ね返すと、彼女は涙の残る頬で無理に笑ってみせて、こう言った。
「ほんとはね、今日、凪が来るの待ってたの。いつもは普通に眠れるんだけど、今日だけはどうしても思い出しちゃって眠れなくて、でも凪が来る気がして、早めに家出て来たの。会えて良かった」
「でも、僕……気の利いたことも言えないし……」
「いいの。聞いて貰えただけで嬉しい。それに、今日本当に朝まで眠れなかったから、凪は毎日こんな感じなんだなって思った。辛いね……」
思い掛けず僕を慮る言葉を掛けられて驚いた。眠れないのは確かに辛い。辛いが、今本当に辛いのは彼女だ。僕はここ最近酷くなることも少なくなって、ただひたすら小説を書き綴る毎日だったから、余計にそう思う。言葉を失ってしまった僕だが、僅かに首を振ることだけは出来た。それを見た彼女は一瞬、子供のころのようなきょとんとした顔になったが、すぐあの力のない笑みに戻り、腕で体を支えながら立ち上がった。こういうとき、僕はどうするべきなんだろう。支えるべきだろうか。でも、相手は女性だし、無闇に触れて嫌な思いをさせてもいけない。そう迷っているうちに彼女は背筋を伸ばした。一瞬、左足のギプスが見えないみたいだった。頭だけで振り向いて、
「凪、小説、頑張ってね」
そう言って、ゆっくり、ゆっくりと背中が遠ざかっていく。僕はその背中を、見えなくなるまでずっと追っていた。
季節はまた巡り、3月になった。卒業式には出ず、家で過ごした僕は、それから幾日か経ったある日、母から驚きの事実を聞いた。
「雛子ちゃん、一人暮らしするらしいよ」
「そうなんだ……。いつから?」
「引っ越しは今日だって。昔お世話になったでしょ。挨拶しに行ったら?」
「えっ」
引っ越しが今日ということにも驚いたし、挨拶しに行けば、という軽い一言にも驚いた。最近は安定しているし、彼女は僕の中で唯一現実であることを疑わない人間ではあるが、気軽に挨拶になど行けるだろうか。勿論、子供のころから知っているから、彼女の両親を僕は知っているし、彼女の両親だって僕のことは知っているだろう。以前彼女が僕の病状について知っていたのも、恐らく彼女の両親が知っていたからだろうし。高校生としての生活をしている僕らに親世代の噂が耳に入るなんて、それしか考えられない。
僕はしばらく悩み抜いた末、行くことを決めた。彼女に、伝えたいことがあったからだ。昔はともかく最近は殆ど通っていない道でも覚えているものだな、と思いながら、彼女の家に着いたとき、彼女は丁度家の前に居た。僕に気付き、二ヶ月前のことなどなかったかのようにいつも通りの笑顔を見せる。
「凪。来てくれたんだ」
「ああ、うん……」
「もうそろそろ、準備終わるんだ。一人暮らしドキドキするなあ」
「そう、だよね」
何について頷いているのかも自分で分からないまま、視線をうろうろさせる。そろそろ準備が終わるということは、これが終わったら彼女とは会えなくなるということだ。今、言いたいことを、言っておかなければ―。
「僕、賞、取ったよ。小説家になるよ」
思い切ってそう言うと、彼女はいつかのように手を叩いて喜んだ。すごい、すごい、と繰り返している。実際、小説家のはしくれになれたところで、第一線級になるには努力と才能と運が必要だから、僕に出来るとは思っていない。けれど、少しでも、少しだけでも、彼女が僕に与えてくれたものを、返したかった。全ては彼女のお陰だから。僕を飲み込んだ闇の中に手を伸ばして救い上げてくれた、彼女の。
「サインちょうだい!」
「いや、それはまだ……考えてないし」
「じゃあ、えーと、そうだ! ちょっと待ってて!」
そう言うと彼女は家の中に入って行ってしまった。何が起こるのかと待っていると、脱兎の速さで戻って来た彼女が何かを差し出す。それは、卒業アルバムだった。高校のではない。小学生のときのだ。
「これ! 名前書いて!」
寄せ書きページを開き、渡されたペンを手に、とりあえず自分の字で名前を書く。書き終わってから気付いたが、小学生のころはまだ仲が良かったから、そのページに普通に昔の僕の寄せ書きがあった。これは意味がないのではないだろうかと考えながら、思い付いたので、もう一度ペンを走らせる。
「……はい」
「ありがと!」
ペンとアルバムを返すと、彼女は早速寄せ書きのページを開いた。そして僕の名前の隣に書いてあるもう一つの名前を見て、首を傾げる。
「ひの……陽野……洸太?」
「……ペンネーム。本屋で見掛けたら、よろしく」
「分かった!」
元気良く答えたところで、彼女の両親からそろそろ出発する旨が伝えられた。手を振り、「小説家、頑張ってね!」と言って背を向け、去って行こうとする彼女を引き留めたくて、咄嗟に、名前を呼んだ。
「雛子!」
彼女は、驚いたような顔で僕を見ていた。正直、僕も恥ずかしい。だって、何年振りかも分からない、下の名前。さんも付けずに呼び捨て。日記に書き殴ってしまったことはあるけれど、すぐ直したし、あれからは出来るだけ考えないようにしていた。彼女、という概念を用いて個体を認識しないようにしていたのだ。けれどどうあっても彼女は彼女で、だからこそ僕の光になる。陽射しになる。
行かないで、という言葉を飲み込み、頑張って笑顔を作って、
「元気でね」
とだけ呟いた。彼女は何か言いたそうな顔をしていたが、両親に急かされ、「……分かった。凪も元気でね! 無理はしちゃだめだよ!」と言い、車に乗り込む。二ヶ月前のように見えなくなるまで送ることはせず、さっさと家に帰って、今書いている小説を仕上げに掛かった。了、と打ち込み、ふう、と息を吐いて背もたれに倒れる。そのまま目を閉じて、暫し想いに耽った。
もしあのとき、行かないで、と言っていたら、彼女はどう答えたのだろう。
結局、僕から彼女への想いは恋だったのか? ―いや、それは違う。虫が光を求めるのと同じで、暖かな場所を求めて辿り着いた先が彼女だったというだけ。他には何もない。そう、何もない……。
―というのが、僕が高校時代に経験したことだ。彼女が傍から居なくなった今、幻覚や妄想は始終周囲をうろつき、いつ襲って来るか分からない。ただ幸いにして小説家としてそれなりの成功を収めていて、食べるには困らない程度に仕事が出来ている。
そんな今でもときどき、彼女のことを考える。あのころは彼女が現実だと疑わなかったが、実は僕の幻覚というか、幻想が生み出したものなのではないか? と思うことさえある。
まあ、例え彼女が幻影でも構わない。重要なのはあの夏から春に掛けて、彼女が、僕のことを救ってくれたということ。僕にとっての唯一の光だったということ。ただそれだけなのだから。
光のかたわら 桐嶋遠子 @adormidera
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