第398話「エンヴィの小冒険」(別視点/別視点)





 海上を走る人影があった。


 それだけで異常な事であり、普通であれば目を疑う光景だが、問題なのはそこではない。

 どうやっているのかは別として、そんなところを人が走っていれば普通はあっというまに海洋性魔物の餌になるはずである。

 しかしいつまで経ってもそうなる気配はなかった。


 襲われていないわけではない。

 かなりの頻度で魔物たちが人影に襲いかかっている。

 しかしその人影に襲いかかる無数の海洋性魔物たちはみな、一瞬にして死体に変わっていたのだ。


 海洋というのは恐ろしい場所である。

 常に魔物たちによる食物連鎖に晒されており、それによって集約された経験値は、より強い魔物を生み出すことになる。

 そうして生まれた強力な個体は別の魔物たちに集団で襲われる事になり、襲った魔物たちは得た経験値を分け合って、強くなった個体は群れる意義を失い散らばっていく。

 それらをまた集団で狩る魔物が現れ、延々と喰う喰われるを繰り返して、海洋という広大ながらも閉じられた世界は構築されていた。


 そこに突如として現れた、食物連鎖の最底辺とも思われるヒューマンらしき人影だ。

 海洋性魔物たちにとっては食事以上の意味を持たない弱い獲物だが、そんな獲物でも喉から手が出るほど欲しい者もいる。

 そしてそういう飢えた魔物を狙った大きめの魔物も寄ってくる。またその大きめの魔物を狙ったより大きな魔物も寄ってくる。

 そうやって結果的に、海域の頂点に近い位置にいる魔物さえも現れる事になる。

 考えなしに人が海に出るとはそう言う事だった。


 この人影にも同じ事が起きていた。

 しかし、結果はいつもと違っていた。

 次々と襲いかかる魔物たちは徐々にその大きさを増していったが、その誰も人影を喰らうことはできなかった。

 ついには周辺の海域を統べる大型のサメ型モンスター、ハラヘリコプリオンまでもが姿を見せることになったが、これも人影の前に血と肉になって沈んでいった。


 そこまでいってしまえば、海は一気に静かになる。





 しゃがんで足元の海水を掬いあげ、エンヴィは血のついた顔を洗った。

 主である魔王レアは常に美しい。

 ならばその1番の配下であるエンヴィも常に美しくあらねばならない。

 返り血は仕方ないとしても、その後に身だしなみを整えるのは当然だ。


 エンヴィはリヴァイアサンであり、海や水に関わる様々なスキルを取得している。

 海面を走る事が出来るのもそのひとつだが、これは本来は泳ぐ事が苦手な種族にとって有用なスキルである。

 ほとんどの種族は、泳ぎか走り、あるいは飛行のどれかひとつが最も得意な移動手段になる。それ以外の手段での移動が出来るとしても、本来得意な分野よりは一段劣るのが普通である。

 エンヴィで言えば当然もっとも得意なものは泳ぎだ。『潜航』に加え、『キャビティ』という風属性のスキルを使う事で高速で水中を移動する事が出来る。また『海内無双かいだいむそう』により海周辺であればあらゆる行動にボーナスがつくこともあって、基本的に泳いだ方が速い。

 にもかかわらず『擬態』してまで海上を疾走していたのは、主である魔王レアになるべく似せた行動を取りたかったからでもある。

 レアがエンヴィに求めているのは海での行動力や戦闘力である事は理解しているため、必要であれば手を抜くつもりはないが、海を渡ること自体についてはそれほど急いでいない様子だった。

 それよりは海洋の調査、できれば海皇とかいうモンスターの捜索を優先して欲しいとの指示だったので、こうして主の真似をしながら魔物を誘っていたのである。





 かつて、エンヴィがまだ幼体だった頃。

 当時は存命だった母竜から聞いたことがあった。

 エーギル海の底には魚人の国があり、そこは海の支配者を自称するイプピアーラという半人半魚の魔物が治めているという。

 イプピアーラの率いる魚人の軍勢は1体1体では大したことがなく、シュガードラゴンをはじめとする大型の海洋性魔物にとっては餌でしかないが、武器を持ち統率された集団となると侮る事が出来なくなる。

 やがて数を増やして戦闘力を増していった魚人たちは海底に王国を築き、集団で防備を固めて大型の海洋性魔物たちから身を守るようになった。


 海皇というのがその魚人の王イプピアーラである可能性は高い。

 それを探せというくらいなのだから、海底の王国の存在はレアも知っているということになる。

 陸上で生活する主君が知っているほどなら、相当有名な話なのだろう。人はそれを常識と呼ぶ。

 エンヴィはそう判断し、常識ならば報告の必要はないだろうと考えたため言わなかった。





 魚人たちの軍勢を大型の海洋性魔物が恐れているのは確かだが、それはお互い様であった。

 それほど数がいないのであれば、魚人など単なる餌の群れに過ぎない。魚人たちがハラヘリコプリオンやシュガードラゴンに対抗するためには、かなりの規模の軍勢が必要だ。

 そのような大規模な行動はそうそうとれるものではないし、ゆえに彼らは普段は海底に引きこもり、海の底にいる小型の草食性の魔物や海藻などを食べて生活しているらしい。


 しかし、だからといって、目の前に巨大な肉塊が落ちてきたとしたらどうだろうか。

 黙って見ているだけだろうか。

 そんな事はないはずだ。

 ドラゴンさえも狩れるほどの人数を養っていかなければならない以上、食糧を得られるチャンスがあったなら出来るだけ物にしたいと考えるだろう。


 エンヴィは移動しながら魔物を誘い、食いついた魔物を始末して死体を沈め、その死体を回収しに来るだろう魚人たちを捕捉しようとしていたのだった。





***





 海洋を支配する魚人王国、エギルガルテン。

 太古より続くその王国は、たったひとりの王によって統治されてきた。

 代々続く王家という意味ではない。文字通り、建国よりずっと同じ王が統治しているのである。

 王たるべくして生まれた種族である、ルガルアブガルのイプピアーラは海皇とも呼ばれ、海洋のみならず地上の大陸にまでその名を轟かせていた。


 そんな偉大な王に仕える闘士隊の第1分隊は、この日も王国周辺を哨戒していた。

 分隊ひとつ程度では中型のサメ、カルカロドンくらいにしか太刀打ちできないが、それ以上大型の魔物は海藻の森に阻まれて海底にまではやって来られない。

 森の外まで遠征するのでなければ、普段の哨戒任務は分隊単位で回すのが一般的だった。


〈この間、森の西の方にいくつか魔物の死体が沈んできてただろ〉


〈ああ、あの外傷もろくになかった綺麗な奴か〉


〈そうそう。ああいうの、また落ちてこないかな。そうすりゃまた祭りが開けるのによ〉


〈あんまり妙なこと考えるなよ。あれだって、漁士頭が安全を確認しなかったら食えるかどうかわからなかったんだから。もしかしたら毒で死んだ死体だった可能性もある。そんなもん祭りで出してみろ。集団食中毒待ったなしだぞ〉


〈内臓さえ食わなけりゃいいだろ〉


 分隊は30人からなる。

 数人くらいなら雑談していても索敵にそれほど影響はない。

 哨戒任務といっても、偵察というよりは王国の縄張りをアピールするという意味合いの方が強い。

 マーマンの軍隊がうろついているエリアに迂闊に足を踏み入れた者は王国によって攻撃される。そう周辺の魔物たちに教え込むのが目的である。

 任務中であるにもかかわらず彼らが無駄話をしているのは、少しくらいは話し声がしているほうが魔物たちもより警戒するだろうという理由からだった。


〈近頃は闘士隊を動員するような大規模な狩りもないしな。漁士隊の連中の数も増えてきて、小型の魔物もたくさん獲れるようになってきた。無理して大物を狙わなくてもいいってことなんだろうが……〉


〈そもそも、王国にちょっかい掛けようなんて命知らずな魔物も居ないしな。そうなってくると、俺たち闘士隊の存在意義ってのにも関わってくるよな〉


〈周りの全部が獲物ってことになりゃ、全部の戦いは漁になっちまうからな〉


〈ちげえねえ!〉


〈──お前たち! 静かにしろ! ……何か来る〉


 その時、隊員たちの側線に隊長の鋭い声が響いた。

 任務中のおしゃべりが多すぎるような不真面目な隊員であっても、訓練を受けた一端の闘士だ。

 すぐさま黙り、静かに動きを止める。ヒレも極力動かさないようにし、振動ひとつ起こさない。


 海中においてはちょっとした動作でも音を響かせてしまう事になる。声をひそめるときはヒレ先ひとつ動かしてはいけない。

 闘士や漁士が最初にやらされるのがこの訓練だ。

 実戦に出るほどの闘士であれば出来て当然の事である。


 しばらくそうやって潜んでいると、上層から巨大な何かがゆっくりと沈んできた。

 同時に血の匂いも漂ってくる。

 死体だ。

 巨大な死体は森の上に落ちると、海藻に堆積していたマリンスノーを舞いあがらせた。

 あれほどサイズが大きければ森の中まで落ちてくる事はない。


 死体はどうやら、大型のサメのギガロドンのようだ。


〈──サメだ! ラッキーだぜ! 祭りだ!〉


〈馬鹿! 森から出るな! 何かの罠かもしれん!〉


〈大丈夫ですって隊長! 近くには大型の魔物の反応もありませんし、大方上の方で生存競争に負けた奴が沈んできただけでしょうよ〉


〈それがおかしいと言うんだ! そうだとしたら、なぜ勝った方はそいつを食わんのだ! なぜ沈んでいくのをただ見送ったというのだ!〉


 海に棲む魔物たちは、基本的に海と同じような重さの者ばかりだ。

 そのため死亡して死体が沈む時も非常にゆっくりと沈む。海底に落ちている石を放り投げた時とは訳が違うのである。

 そんなゆっくりと沈んでいく獲物を、ただ見逃すなどということがあるだろうか。


 それに見たところ、サメは大きな力で捩じ切られたかのような妙な死に方をしていた。

 ということは、このギガロドンを倒したのはそれが可能なほど大型の魔物である可能性が高い。であれば食べきれないから捨てたというのも考えづらい。


〈そんなのわかりませんが、このあいだのやつと一緒でしょう。ほら、向こうにも、あっちのほうにも沈んできてるみたいですよ〉


〈どこか遠くの海域から移動してきたやつが、気まぐれにそこらの魔物を殺して回ってるんじゃないですかね。何にしても海藻の森の中にまで入っては来られないでしょうし、上に報告は上げるにしても死体はいただいちまってもいいんじゃないですか?〉


 別の海域に生息していた強力な個体が、その縄張りを移動してきた。

 仮にそうだとしたら重大な事態だ。

 この周辺海域のパワーバランスを一変させてしまう恐れがある。

 混乱した中型魔物が森の中を暴れ回らないとも限らないし、そういう中型魔物のスタンピードを許してしまえば、森が荒らされ王国の防衛力にも影響してくるかもしれない。


〈……いや、ダメだ。まずは報告だ。報告を上げて上の指示を仰いでから、余裕があれば死体の回収だ〉


 回収するにしても、これほどのサイズでは森の中にも王国の中にも入らない。前回同様、細かく切り分けてから運ぶ必要がある。そんな悠長なことをしている間に、事態が悪化しないとも限らない。

 ならば何をおいてもまずは報告を上げるべきだろう。


〈相変わらず隊長は真面目ですねぇ。まあ、でもわかりました〉


 しぶしぶ、といった感じで隊員たちは頷いた。

 若いマーマンたちは素直なのだが、食欲に目が曇りがちなのが玉にきずだ。

 死体はそのまま触らずに、第1分隊は急ぎヒレで王国に取って帰った。


 この判断は結果的に正解だった。


 しかし、すべての闘士隊が正解を選べたわけではなかった。







★ ★ ★


今回の〈 〉は例外的にチャットではなく水中特有の会話です。

あ、次回もその次もそうです。

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