伍番『洗礼』
お遍路のような信仰が文化として根付いている土地などを巡っていると、それまで無神論者だった人でも妙に信心深くなったりする。
四国の人の善意に触れ、苦労して辿り着いたお寺でお経や真言などを唱えたりしているうちに、生きている事に対する感謝の念だとか、災難、幸運を素直に受け取る態度などが身について来た。
また行く先々で出会う山や海の絶景などを目にし、そこに神や仏の世界を感じたりもした。
四国ではそんな信心深くなっているお遍路さんに擦り寄る新興宗教の勧誘も盛んにあった。
神も仏も根っ子は同じ。
そんな親近感を装いながら、キリスト教系の新興宗教の人たちがよく声をかけて来るのだ。
徳島の海沿いの国道を歩いていた時も、坂道で自転車を押していた小柄な年配の女性が急に声をかけて来た。
どこか幸の薄い印象がある女性で、立ち止まって話を聞くと、あまり馴染みのない名前の宗教団体の信者さんだった。
ちょうど集会からの帰りだったらしく、団体が発行しているチラシを僕に渡し、「すぐ近くなのでよかったらお遍路さんもうちの教会で洗礼を受けていきませんか?」と誘う。
特に断る理由もないし、サンダルが素足に擦れて痛かった事もあり、その女性に言われるまま休憩を兼ねて集会場の教会に付いていく事にした。
その女性は人見知りするのか、恥ずかしそうな素振りで僕より少し前を歩き、道案内をしながら、僕にいろんな質問をして来た。
歩くスピードや会話に変な間が空くと不安になるらしく、たまに僕の方を振り返ってぎこちない笑顔を浮かべ、なるべく会話が途切れないように努めていた。
ひょっとしたら勧誘のノルマがあって、僕を逃さないように気を遣っているのかもしれない。
教会は国道からちょっと外れた静かな森の中にあった。
「ようこそおいでくださいました」
事前に信者の女性から携帯で連絡を受けていた支部長と思われる女性が笑顔で出迎えてくれた。
幸が薄そうな小柄の信者さんとは対照的なふくよかな年配の女性で、僕はさっそく教会の聖堂の方に案内された。
神父が来るまでここで待つように言われたので、信者さんからもらったチラシを読みながらとりあえず待っていた。
チラシの内容によると、この教団の教理はカトリックやプロテスタントなどの正統派と違うようだった。
イエス・キリストを三位一体の“子”であるという位置づけではなく、イエス・キリストその人こそが全能の神の本質であり、キリスト自身に父、子、聖霊の三つの位格が存在すると説いている。
そして救い主イエスキリストの洗礼を受けていない者は皆等しく地獄へ行くらしく、もし死後に地獄へ落ちても、この世で生きている親しい者が死者の代わりに洗礼を行えば、その死者も一緒に天国へ行けるような内容が書かれていた。
しばらくすると、支部長の女性と神父の恰好をした白髪の細い年配の男性が入って来た。
「ようこそおいでくださいました」
二人は夫婦らしく、素足で歩いていた僕の傷だらけの足を見て、絆創膏と靴下、それに紅茶とクッキーを用意してくれていた。
教団の人たちは皆とても穏やかで親切だった。
しばらく世間話をして和んでから、神父さんが再度この教団の教理を僕に説明してくれた。
「要するに洗礼を受け、神を心から信じればみんな天国へ行って救われます」
紅茶とクッキーを食べ終わってから、正面のキリスト像に向かってみんなで一緒に礼拝する事になった。
この教団の礼拝法は聖堂のキリスト像に向かって「ハレルヤ」。
この祈りの言葉をただひらすら連続で唱えるものらしい。
ふくよかな支部長と真面目で神経質そうな神父さんがまず手本を見せてくれた。
「ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ……」
二人とも早口言葉を競うような感じで「ハレルヤ」を連呼した。
だんだんそのスピードが上がっていき、後半は高速の巻き舌状態で、最早「ハレルヤ」ではなく、「レロレロレロレロ、レロレロレロレロ……」としか聞こえなかった。
カエルの鳴き声のような祈りの合唱が教会内に響く。
息継ぎをする暇もないのか、支部長も神父さんも目をひん剥き、すごく苦しそうな顔をしていた。
ヤバいカルト宗教だったかな?
穏やかな印象の二人から急に狂気を帯びた凄みが出始めたので正直動揺した。
「噛んでもいいからとにかく高速で「ハレルヤ」と唱え続けてくださいっ!そうすれば神に祈りが通じますっ!」
「ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ……」
逆らったら何をされるか分からないので、猛烈に恥ずかしかったけど僕も一緒に「ハレルヤ」を「レロレロ」になるまで必死に唱えた。
息苦しさが極まった支部長と神父さんの顔は完全にイっているように見えた。
おそらく変性意識状態に入っているんだろう。
人がなぜ変性意識状態になるのかはわからないけど、神懸かり的な事象は概ねこの変性意識状態ありきで起こる。
「家族の中でもう既にお亡くなりになった方はいますか?」
祈りを終えた後、神父さんにそう聞かれたので、父方、母方両方の祖父と祖母がもう他界している事を告げた。
洗礼を受けていない者は皆等しく地獄行きという教理なので、この4人を救うには僕が代わりに洗礼を受ける必要があった。
「ではこれから洗礼を授けます。このガウンに着替えてください」
教会の裏手に洗礼用の小さいプールがあるらしく、神父さんに渡された白いガウンに着替えてから、信者さんにそこまで案内された。
膝くらいまで水を張った浅いプールで、神父さんと二人っきりになった僕は、そのプールの中に跪くように命じられた。
夕暮れ時だからか、プールの水が思いのほか冷たかった。
跪くと、鳥肌が立って全身にぶるぶる寒気が襲って来た。
「私があなたの頭の上に手を置いたら水の中に顔をつけて心の中で「ハレルヤ」と唱えてください。これを三回やれば洗礼を受けた事になります」
かなりきつい洗礼だな、と思ったけど、先祖の供養になるのであれば仕方がない。
神父さんの合図と共に、そんな気持ちで水の中に顔をつけた。
すると突然何を思ったのか、神父さんがそのまま僕の頭を抑え込んで水の中に沈めようとした。
やっぱりカルトかッ!? もしかして殺される?
細身の神父さんの力があまりに強かったので、僕は本気で殺意を感じて背筋が一瞬凍った。
そしてそのまま計三回、無理やりプールに沈められる形で洗礼の儀式を終えた。
「はい、これで洗礼は終わりです。あなたもご先祖様もきっと天国へ旅立てますよ。そしてこの先のお遍路でもイエス様とご先祖様が守護霊となってあなたを守ってくださるでしょう」
さっきの殺意はどこへやら、完全に正気に戻った神父さんが、満足そうな笑顔を浮かべてそう言った。
え、なにこれ?
時折狂気を孕んでいるような教団ではあるけど、その後しつこく入信を強制させられるような事もなく、僕は教会を後にした。
お遍路ついでの洗礼。
僕自身に特に何ら変化があったわけでもなく、その教団ともそれっきりだ。
ただ既にお大師様と一緒に歩いていた同行二人のお遍路に、イエス様と先祖の守護霊まで加わった事を想像すると、それはそれで賑やかで頼もしいから、まぁいいか、とも思った。
その見えざる他力本願に縋って、今後の困難を自力で乗り切る。
そんな気持ちでその日はなぜか無駄に張り切って夜遅くまで歩いてしまった。
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