肆番『菩提心』
菩提心。
悟りを求める心や、人々を救おうという心を起こすこと。
愛媛を巡礼していた時、そんな気持ちになった。
歩き疲れたので、自動販売機でジュースでも買って一休みしようとしたら、地元の人らしきお婆さんが僕に話しかけて来た。
お婆さんは、僕にお接待をしたかったらしく、買おうとしていたジュース代を財布からを出して僕に渡した。
四国には八十八か所のお寺を廻るお遍路さんのために、地元の人が食事や金銭、泊まる場所などを無償で提供する「お接待」という風習がある。
だから地元の人たちは、僕みたいな見知らぬ他人であってもみんなごく自然に、何かと親切に世話をしてくれた。
四国の人にとってお遍路さんはお大師様や仏様と同じ存在。
個人が徳を積むための善行として、お接待には見返りを求める気持ちが一切ないようだった。
一方的に恩を受ける事になる僕としては、慣れるまで少し心苦しかったりもした。
それでもお接待は素直に受けるのが礼儀とされていたから、申し入れがあった時は僕も遠慮せずに有難く受け取る事にしていた。
頂いた缶ジュースを飲みながらそのお婆さんと何気ない立ち話をしていると、「少しばかりお布施をしたいからぜひ家にも寄ってくれ」と、また僕にお接待を申し出た。
「ありがとうございます。でもジュースだけで十分です」
そうやんわり断ってみたけど、お婆さんは「どうしても」と僕の手を引いて家に招こうとする。
仕方がないので僕もまたそのご厚意に甘える事にした。
お婆さんの家は三世帯が十分暮らせるくらいの広い一軒家だった。
玄関先までお邪魔すると、お婆さんが居間の方にお金を取りに行った。
その時玄関先からチラッと覗いた居間の様子がひどく閑散としていた。
「ご家族は?」
戻って来たお婆さんに話を聞いてみると、お婆さんは玄関先に深く腰をおろし、一息ついてから溢れ出すように自分の身の上話をはじめた。
以前はこの家で旦那さんと息子さん、娘さんの四人で暮らしていたらしい。
娘さんが他所の家に嫁いで家を出てから、旦那さんと息子さんが相次いで亡くなり、今はお婆さん一人だけになってしまった。
「……もうすっかり慣れて寂しくはないんやけど」
そう言いつつ、「この辺を立ち寄るお遍路さんとの会話が私の唯一の気晴らしですわ」と漏らすお婆さんの表情は強がりと寂しさが交差した複雑な感情を見せていた。
頼れる娘さんも親戚もみんな他所の土地に住んでいて、近所ともあまり付き合いがないみたいだった。
夕暮れ時だったので、あまり長居は出来ないな、と思った。
でもお婆さんから漂って来る孤独の正体がだんだん見えて来たので、本腰を入れて話を聞く姿勢にもなっていた。
お婆さんは若い頃、大王製紙で働いていた事もあったようだ。
「あの人には何かと世話になってね」
一従業員ではあったものの、当時の社長さんとはすごく親しい仲だったと笑いながら話した。
社長さんの人柄を一頻り褒め、同時に少し顔を曇らせながら、当時の会社の事情を皮肉や少し憎しみの籠った感情で語る時もあった。
熱が籠り過ぎたのか、表沙汰には出来ない暴露話も口にした。
お婆さんは感情の記憶をベースにして話すので、話題が急に飛んだり、同じ話を何度も繰り返したりした。
「気弱なくせに酒を飲むと気が大きくなる人でね、よく暴力を振るわれたよ」
亡くなった旦那さんについても、そんな愚痴を漏らした。
お婆さんが本気になって旦那さんに挑みかかっていくと、旦那さんはあっという間にその場にへたり込み、すぐに負けを認めたらしい。
息子さんも旦那さんに似て、勤めていた会社の上司や先輩によく揶揄われたり、言いように使われてしまう気弱なところがあったらしい。
お婆さんは旦那さんの話をする時は陽気な思い出話のように話したけど、息子さんの時は顔が強張っていた。
お婆さんの口から「イジメ」という言葉は一度も出て来なかった。
でも息子さんが会社の人たちから受けた行為に関してはかなり根深い怒りと憎しみを抱いているようだった。
挙句息子さんは相手側の不注意による交通事故で痛ましい亡くなり方をしていた。
「ワタシが守ってやれなかったばっかりにね」
これまでのどの言葉よりもお婆さんから深い後悔の念を感じた。
いろいろお接待を受けておきながら、僕はそのお婆さんに投げかけてやれる言葉が何も思い浮かばなかった。
相槌を打つのも忍びない感じになって、俯いてしまった。
それから娘さんの孫の入学祝にあげようと思って用意した20万ほどのお金を、畑仕事をしている間に紛失してしまった話も聞かされた。
お婆さんは「ひょっとしたら隣近所の誰かが盗んだのかもしれない」と疑っていて、その事をずっと黙っていると、不信感だけが募っていくようだった。
「困った時に散々世話をしてあげたのに、近所の人の顔を見る度に憎らしくなってしまってね。お遍路さんにこんな話をしても仕方ないんだけど、なんてこの世は薄情なのかと思ったわ」
繰り返し何度もそうぶつぶつ呟くお婆さんを見ていると、僕みたいなお遍路さんでも仏様に見えるなら救いたいと思った。
何時間くらいい話を聞いていただろうか?
お婆さんの話が全て終わった頃には、外は完全に真っ暗だった。
何も見返りも求めていない人に対する恩返し。
それがまったく思いつかなかった。
いろいろ考えて唯一出た答えが、お婆さんの想いも一緒に背負って巡礼を続け、代わりに祈る事だった。
それが恩返しになるとは思わないけど、それくらいしか僕に出来る事がなかった。
旅先で出会う人の想いも一緒に連れて歩く以上は、必ず結願しなければならない。
お婆さんとの出会いが、僕がお遍路をやる強い動機付けになった。
この時点で僕のお遍路は僕一人のものではなくなった。
名前も住所も教えてくれなかったので、その後のお婆さんについては分からない。
でもたまに自分でお経や真言を唱えたり、誰かが唱えているのを側で聞いたりすると、玄関先に座って溢れる想いをたくさん話していたあのお婆さんの事を、今もふと思い出す。
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