4-3
わたしは彼に嫌われたと思った。けれどあの日以降も、彼は何事もなかったかのように接してきた。だからこそ、わたしはとても侮辱された気分だった。悔しかった。
だからわたしはまたすぐに彼を誘ったのだった。今度こそ仕留めると決意して。
「え、いいんですか! やった!」
彼は無邪気に喜んでついてきた。まるで数日前のことなんてなかったかのようだ。隣り合って電車の席に座る。
「それで今日はどこで飲むんですか?」
「今日は宅飲みよ」
「それって先輩のお家ですか?」
「そうよ」
息を吐くように嘘をついた。わたしが彼を連れ込むのはわたしの部屋ではない。わたしの友達の部屋だ。お願いしたら貸してくれた。
「おお、ぼく女性の部屋は初めてかもしれません」
目を輝かせる彼を見て、罪悪感がわたしを覗いた。わたしはそんなものゴミ袋に押し込めて捨てる。
「あら、意外ね」
「どうしてですか?」
「あなた普通にモテそうなのに。顔もかっこいいし、頭もいいでしょう?」
「かっこいいだなんて初めて言われました。頭いいってモテると関係あるんですかね」
「さぁ。けれど、少なくともわたしは男性の知性に惹かれることもあるわ」
「そうですか」
彼はわたしの好みには全く興味がないみたいだった。いや、これはさすがに被害妄想かもしれない。彼はわたしと目を合わせることなく、斜め上をただ見ていた。中吊り広告でも見ているのかと思ったが、目の焦点はなににも合っていないように見える。それからは黙って電車に揺られていた。
駅に到着したので、何も言わずにわたしは立ち上がった。当然彼もついてくる。隣に立つ彼は何も話さなかった。意地になって、わたしも何も話さなかった。独特のアナウンスが流れる中で電車はゆっくりと減速して、やがて停止した。ドアが開く。わたしが下りようとしたとき、マナーの悪いおばさんがそれを待たずに乗り込んできた。それにぶつかってよろけてしまう。
「おっと」
そう言って肩を抱いて支えてくれたのは彼だった。
「大丈夫ですか?」
わたしはとっさに返事ができなかった。ぶつかって来たくせに、おばさんは舌打ちをして電車にのりこんでいった。彼は特に気にする様子もなく、そのままわたしの手を取って、歩き出した。人波をかき分けて、わたしに気を遣ってくれているみたいだった。むかし父がこうして手を引いてくれたことを、なぜか思い出した。改札の前でその手は離された。それをとても名残惜しいと思った。
「どちらにせよ、ぼくは頭良くないですからね」
彼は急に口を開いたが、わたしには一瞬なんの話なのか分からなかった。しばらくしてから、電車での会話の続きなのだと気が付いた。
「それで、先輩のお家ってどっちなんですか?」
彼はわたしの言葉を待ってくれなかった。頭の処理が間に合わない。ぶつかられたことへの苛立ち、それを助けてくれた彼に感謝もしていない。急に手を取られたことに驚いたこと。どうしてわたしの手を取ったのか、彼の気持ちが知りたい。父のことを今さら思い出したのは? そして手が離されたことが、どうしてこんなに切ないのか。他人に触られたことにどうしてこんなに動揺しているのか、自分の気持ちもわからない。彼はなんで急に電車での話の返事をしたのだろうか。そして、その言葉の意味は。彼を部屋に案内しないといけない。あ、お酒を買っていかないと宅飲みができない。
どれも整理がついていないのに、次から次へと思考が巡る。こんなにたくさん、複雑なタスクを同時に処理なんてできるわけないじゃない!
「まって!」
つい叫んでしまった。久々に自分を制御できなかった。いつ以来だろう、なんて急に冷静な思考と自己観察。人の往来激しい改札の出入り口で、たくさんの注目を集めている。こういう目立ち方は、とても嫌だ。
わたしはしゃがみこんだ。何も見たくないし、聞きたくない。消えてしまいたかった。しかし、
「はい」
透き通った声がわたしを貫く。現実にわたしを張り付けにする。彼の顔を見上げると、ニヘラとわたしの嫌いな笑顔があって、
「待ちますよ。いつまでも」
彼はそう言ったのだ。
わたしは逃げ出した。それから数時間分の記憶がない。気づけば知らない駅のホームに立っていた。
その日、わたしは2回目の恋を自覚したのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます