2-3
「乾杯」
わたしはビールのジョッキを、彼はグレープサワーのグラスを軽くぶつけた。わたしは中ジョッキを一気に飲み干した。ジョッキを勢いよく置くと、目の前では、彼はグラスを見つめて、飲むのを躊躇っていた。鼻を近づけて匂いを嗅いでは、かすかなアルコールの刺激臭で眉間にしわを寄せて離し、また匂いを嗅ぐ。ソワソワと落ち着かない様子だ。
それを見られていることに気が付くと、彼はニヘラと笑った。というのも、彼はお酒を飲んだことがないらしかった。
今日20歳を迎えたのだから当然といえば当然なのだが、それでも大学生になれば、法律を守らず未成年のうちから飲酒を始める人間は少なくない。かくいうわたしも、その1人だった。
「今まで禁止されていたことをしていいとなると、なんだか悪いことをしている気分になりますね。果たして、昨日の自分と今日の自分、何が違うのかさっぱりわからないのに、昨日まではだめで、今日からはいい。すごく不思議だ」
そう言って苦笑いを浮かべた。なんとも初々しかった。
「なんか、いいわね」
ついそんな言葉がこぼれた。彼は不思議そうに首を傾げてから、
「どういうことですか?」
「なんというか、わたしはもうそういう新鮮な気持ちになれることって、ほとんどないから。そんな風に新しいことに挑戦するドキドキ感みたいなのが、ちょっと羨ましい」
「たしかに、先輩さんは経験豊富そうです。ですが、やったことがないことぐらいこの世にまだまだあると思いますけど?」
「もちろんそうよ。けれどね、『挑戦すること』そのものに、もう慣れちゃったの。新しいことに取り組むという自体に、もう新鮮さは感じられないわ」
わたしは、ある日を境に、なんでもかんでも取り組むようになった。それは勉強に始まり、スポーツ、資格取得と言ったものから、ボランティアといった社会奉仕活動、地域行事や学校行事。去年の夏休みには、ひとりで海外を1カ月間放浪した。あとは、まあ、人と触れ合ったり。
上手くいかないことばかりだったけれど、できることはすべてやって来たつもりだ。だって何もないなんてつまらないじゃない。
けれど、だからこそ、最近はなにをやっても、つまらないわ。つまらないのが嫌で動き回った結果が、つまらなさを生み出した。なんて皮肉なこと。
感傷に浸っていると、いつの間にか彼はグラスを空にしていた。
「ぼくは、なにもしたことがありません。触れるものすべてが新鮮で楽しいです」
そういってわたしに笑いかける。
わたしにとって、彼はつまらなくない。彼とのやり取りすべてが新鮮で楽しい、のかもしれない。
「お酒って変な味ですね。……別に美味しくないですし。これだったら普通にソフトドリンク飲んでいる方が安いし美味しくないですか?」
「あら、たった1杯で生意気ね。お酒は美味しいわ。もっといろいろな種類を試してからでも、判断するのは遅くないわよ」
「じゃあ、次は先輩さんのおすすめでお願いします」
彼の誕生日飲み会は始まったところだ。ちょうど頼んでいたメニューが届いたので、ついでにわたしは次のお酒の注文を済ませる。
それからゆっくりと話し始めた。はじめの方は今日作った報告用のレジュメとその内容について、報告に向けてのちょっとした打ち合わせのような固い話題だった。しかし、お酒のある席でそんな話は長続きするはずがなかった。
「そういえば、どうしてこのサークルに入ったの?」
「なんとなくですかね。サークルでみんなと活動してみたくなったのです。ここなら比較的まじめな人たちと一緒に楽しくできるんじゃないかと思ったので。それに勉強にもなりますしね」
彼はハイボールをひとくち煽った。それをみて、わたしはグラスのものをすべて飲み干す。
「次頼むけれど、あなたはどうする?」
「あ、お願いします」
そう言って彼もグラスに半分以上残ったハイボールを飲み干した。
わたしはザルだ。酒で酔ったことがない。酔ったふりはよくするけれど。わたしを酒で潰して持ちかえろうとした男たちは、むしろ私が潰してきた。気分が乗れば、わたしが持ち帰ってあげることもあった。はじめから持ちかえるつもりで、相手を潰したこともある。今日は彼を潰して持ちかえってやろうと思った。
しかし、彼もザルだったようだ。わたしのペースに合わせて結構な量を飲んでいるのに、顔色は変わらない。血色がよくなって、普段よりも少し陽気になったぐらい。ちょっと残念。けれど、それならそれで。
「普段はどんなことして過ごしているの?」
「というと?」
「大学のない日はなにしているのかなぁって。趣味とか。あまりあなたのこと知らないから」
「ああ、それでしたら、えーっと、何しているのでしょうかね? 寝ています」
「寝ているの?」
「はい。寝るのが趣味なんです。1日中、何も考えないで、ただボーっと天井を眺めて過ごすんです。これがなんとも言えない気持ちになるんですけれど、やめられませんね」
彼はグラスに残っていた赤ワインを飲み干してから、トイレに行ってきますと席を立った。それと入れ替わるように注文していたお酒が届いた。
芋焼酎のロック。
わたしは彼のグラスに、ほんの少しだけ素直になれるお薬を入れた。彼がちょっと勇気を出すだけで気持ちよくなれる、そういうものを。
彼が戻って来たので、それを勧めて飲ませた。ひとくちなめるように口に含むと、
「おいしいですね」
そう言って無邪気に笑う。わたしも嗤う。
「それを飲み終えたら、そろそろ出ましょうか。あなた初めてなのにわたしに合わせて飲み過ぎよ。わたしはお酒に強いからいいけれど、あなたはわからないでしょう?」
「そうですかね。規準はわかりませんが、確かに、そうかもしれません。でもぼくもそれなりにお酒に強い方なんじゃないでしょうか?」
「かもしれないわね。だからと言って、初回で潰れるまで飲む必要はないわ。……そろそろ外の空気が恋しいの」
彼の少し熱くなった頬に触れながら、言う。
「まだまだ夜はながいのだから」
わたしはさっき来たばかりのを一気に飲み干して伝票を掴み立ち上がる。それを見て、彼もそれを一気に飲み干した。
わたしが会計をしていると彼がすぐに追いかけてきて財布を出したが、それに見向きもしないわたしを見るとなにも言わずに店の外に出て行った。
「ごちそうさまでした! 美味しかったです!」
わたしが店を出ると、彼はかなり大きな声でそう言いながら頭を下げた。普通に人通りの多い繁華街の真ん中で、その反応は予想していなかった。わたしは久々に戸惑った。それから頭を上げて、
「今日が、ぼくの人生において、一番素敵な誕生日だったかもしれません。ありがとうございました」
その表情はいつものような純粋な笑顔ではなく、陰の差した自嘲だった。
我慢できるわけがなかった。
わたしは彼の腕をつかんでグイグイと引っ張る。何がなんだかわからずに、彼は抵抗することなくついてくる。そして人気のない路地裏に、引きずり込んだ。
彼を壁に追い込み、手で囲うことで逃げ道を塞ぐ。彼をわたしの中に閉じ込める。
「先輩? どうかしましたか?」
顔1つ分高いところから、彼の間抜けな声がした。まるで緊張感のない彼の様子に、笑いが込み上げる。なんて我慢強い子なのか。右手を壁から離し、彼の下腹部に触れる。そこにはどうやっても隠し切れない、彼の立派なものがズボンを突き破らんばかりに膨らんでいた。それを優しく撫でてやる。刺激を喜ぶようにピクンと跳ねたのが分かった。
「先輩」
そういって、彼がわたしの肩を強くつかんだ。来るか。そうだ。素直になればいいのよ。わたしはあなたを受け入れてあげるわ。いまこの瞬間だって。さあ。さあ。
肩の痛みはいっそう強くなる。
さあ、さあ、さあ! さあ!!
「こういうのは、ダメですよ」
いま、なんて?
「こういうのは、ダメですって」
顔を上げると、やっぱりそこには彼の顔があって、わたしは彼に肩を掴まれていて、わたしは彼のものに触れている。それなのに。
「先輩。もお、こんな風にぼくを揶揄って楽しいですか? 悪趣味ですよぉ」
彼はわたしを突き放した。
「美人なんですから、そんな風にして勘違いされたら、困るのは先輩の方でしょう?」
彼はいつも通りの笑顔で。
「こんなのぼくだからよかったものの、他の男性だったら完全に襲われていましたからね」
彼は、いった。
「さあ、出ましょう。こんな暗いとこに居たら危ないです」
わたしの右手を取って歩きはじめる。なんて屈辱。わたしは歩きはじめない。
「もう、どうしたんですか?」
そう言って彼が振り返った時に、強く引っ張る。彼はなされるまま、引き寄せられて、わたしはそれに合わせて彼の唇に触れようと背伸びをする。しかし、
「ねぇ先輩」
わたしの唇が触れたのは、路地裏の汚い空気。わたしに触れたのは、彼の手。わたしの顔面を鷲掴みにした、彼の大きな右手だった。
「3回目ですよ」
その声は無慈悲だった。
「こういうのは、ダメです」
「ど、うして……?」
「こういうのは『愛』がないと、」
右手が離されてわたしの目に移ったのは、彼のニヘラとした笑顔だった。
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