その9

 ゴンドラに乗っている2人の身体にも強烈なGが襲いかかり、ルカは押し潰されそうな重圧に耐えながらなんとか船体を制御する。

 周りを見ている余裕などない。意識を保つだけで精一杯だ。かすかに開いた目に飛びこんでくる星空のおかげで、上に向かって飛んでいることだけは分かる。

「この速さでぶっ飛べば──!」

「逃げ切れると思った?」

「!!?」

 ルカは恐怖に総毛立った。

 折り紙越しとは違うリンの肉声が、すぐそばから聞こえた。

(追いつかれた!? あんな後ろから!?)

 首を動かすこともできないルカに対して、リンの声には余裕すら感じられる。

 実際、大小4枚の翼を広げて飛ぶリンの表情は、平時とまったく変わらず落ち着き払っている。意識を保つだけで精一杯のルカには知るよしもないことだが。

「甘いんだよ。異民局を何だと思ってるの?」

「……っ、まだまだぁっ!」

 見えない相手に向かってルカは吠えた。吠えることで自らを奮い立たせる。

(加速はあと2発。全部使うのは初めてだけど──)

 ここから先はルカにとっても未知のゾーンだ。

 イツキには大きなことを言ったが、風船でできた船体が音速に耐えられる保障などない。なによりルカ自身の意識が保つかさえ分からない。

(ケド、何もしなければここで終わりだっ。一か八か! 賭けるしかない!)

 ルカは残っていた加速用風船を開放する。

 直後、これまでに勝るGが襲いかかってきた。ゴンドラの内部にミシミシと不吉な音が響き、壁全体がプレス機のようにルカの身体を圧迫する。

「いっっけぇぇええええ──!!」

 圧死スレスレの状態でルカは絶叫した。

 ゴンドラの壁に潰された身体は血行不良を起こし、手足の感覚が鈍くなり、視界が色調を失っていく。

 呼吸することもままならず、意識も朦朧としているが、それでもルカは必死に歯を食いしばる。

(あと1秒、もう1秒……!)

 少しでも長く耐えれば、それだけリンを引き離せる。

 その思いを支えに気力を振り絞る。

 ――だが。

「甘いって言ったろ」

 パァァァァァンッ!

 追跡者の無情な宣告に続いて、盛大な破裂音が澄み渡る星空に鳴り響いた。

 それは、霊刀の一閃で両断された双胴船の断末魔の叫びであり、ルカたちの逃走劇の終演を告げる合図でもあった。

 パルムドラゴンの鱗でコーティングされ、巨大弩バリスタの鋼鉄矢すら弾き返す外膜も、霊刀の前では紙切れ同然であった。

 千切れ飛んだ風船の細片を浴びながら、ルカの身体が高高度の宙に漂う。

 暴力的な圧迫から解放されたことで、ほんの数瞬、夢心地の浮遊感に浸っていたが、血行が回復したことで意識と視界がクリアになる。

 ──そしてルカは見た。

 澄み渡る星々の天蓋の下で、どこまでも広がる真っ黒な大海原を。

 前後左右、いずれの方角を見ても、空と海のほかには何もない。

「……!」

 そこは、トーキョーベイの埋立地ではなかった。

 湾内に70以上あるといわれる人工島も、湾を形成する2つの半島も存在しない。

 大都会の夜景どころか、陸地の影すら見えない。

 月明かりに照らされた白い波頭の連なりが、空と海のまじわる水平線まで続いている。

 唯一陸地の名残をとどめるのは、眼下の大海に浮かぶ小さな孤島「24区」だけであった。

(なんだ? 本土も、街も、何もない。何もないじゃないか! ココはドコだ? 俺はドコにいるんだ?)

 広大な空間に独り放り出されたような孤独感に襲われ、自由落下中の恐怖すら忘れ、月下の夜景に見入った。

(ココがトーキョーベイじゃないなら、屋上から見えてたあのビルなんだったんだ? あの島はなんなんだ!?)

 想像を絶する光景を目の当たりにして困惑の極みに達する。

 しかし次の瞬間、そうした疑念も不安も吹き飛んだ。もっと重要で大事なことを思い出したからだ。

「……イツキ! そうだ! イツキは!? どこだ!?」

 飛行船で逃走劇を繰り広げている間、リンを振り切ることに夢中で、いつの間にかイツキのことが頭から抜け落ちていた。

 ゴンドラの中で押し潰されながらの飛行は、自分でもギリギリだったのだ。小学生には地獄の苦しみだったに違いない。

「くそっ! なにやってんだ俺は! 何のためにこんな……!」

 スカイダイビング時、体を水平に広げた状態での落下速度は、およそ時速200kmと言われる。全身で空気を押しのけながら落下するため、強烈な向かい風にさらされているようなものだ。

 空気抵抗の暴風を浴びながらルカが必死に辺りを探すと、うつ伏せになったルカから見て足もとの方角、ルカより少し高い位置にイツキを発見した。距離にしておよそ10m。

「イツキ! 大丈夫か! イツキ!!」

 ゴンドラの重圧から逃れるためだろうか、イツキは猫に変身している。呼びかけても身動きひとつしないのは気絶しているのか、あるいは……。

「死なせないぞ! ゼッタイ! イツキだけでも!!」

 ルカは空中で不器用に手足をばたつかせ、泳ぐようにしてイツキのもとへ向かう。

 だが、生まれてこのかたスカイダイビングの経験などなく、無茶な逃避行で体力を消耗している。

 風圧に耐えながら腕をひとかきするだけでも、全身の力を振り絞られねばならず、なかなか思う通りに進めない。

 そうしている間にも2人の身体は落下し続け、地上がどんどん近づいている。

「俺が連れ出したんだ! 守ってやるんだ! 俺が!!」

 突き上げる風圧にもてあそばれ、2人の位置が目まぐるしく入れ替わる。

 それでも、ルカはイツキに向かって腕を伸ばし続けた。そして、気絶したままの猫がかたわらを通り過ぎようとした刹那、両腕で抱きとめることに成功する。

「……やった!」

 両腕に抱きかかえた猫の体から呼吸音と温もりが伝わってくる。少年が生きていることを確信し、安堵したときだった。

 うつぶせになったルカの背後で月が陰り、赤い輝きが月光をさえぎった。

「ハイ、おしまい」

 少女の声に乗せて衝撃が来た。同時に6ヶ所。

 頭、心臓、右腕、左腕、右脚、左脚。

 6枚の翼から放たれた炎の杭がルカの体を貫き、全身を炎に包みこむ。

「お……、が……」

 体の内と外から射しこむ赤い輝きに目をくらませながら、ルカの意識は溶けて消えた。

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