その5

 異民局の建物は24区の北端部にあるため、その屋上からは本土に面したトーキョーベイが一望できる。

 この広々とした眺望は施設で働く人間のささやかな特権であり、ルカもバイトを始めたばかりの頃は足しげく訪れていた。

 しかし、1週間も過ぎるとさすがに見飽きてしまい、今では暇つぶしがてらたまに来る程度になっていた。

「あのへんがシンジュクなのかな」

 ルカの視線のはるか彼方、およそ10kmほど海を隔てた先に本土の海岸線が広がり、その奥に高層ビルが群れをなしている一帯がある。

 少し離れた位置にそそり立つ細長い建物は、電波塔兼観光名所として有名なトーキョー・ヒンメル・バウムだろうか。

 目の前に広がる空と海、そしてその下で群れる高層ビルを眺めていると、背後に人の気配を感じた。

「泳いで渡るのはムリだよ。この町はぐるっと壁に囲まれてるからね」

 初夏の日差しに目を細めながら、リンが手すりのそばまでやって来た。

「壁なんて見えませんよ?」

「おかげで見晴らしいいでしょ」

 ルカは海岸沿いに視線を向け、しばらく目を凝らしてみたが、波間の中に切れ目のようなものは見つけられなかった。

「昨日のからあげはうまくいったの?」

 ルカが先ほどまで使っていた屋上のベンチには、空の弁当箱が置かれている。

「いやあ、ダメでした。失敗したのもありますけど、片づけもメンドーだし、当分やめとこうって。背のびはダメですね」

「シャコージレーを真に受けるからだよ」

 リンは紙パックのストローに口をつけ、いちごジュースを吸い上げた。

「その年でカレーも作ったことないってのが、まだ信じられないんだけど。ご両親はしっかりしてそうだったのに何も教わらなかったの?」

「いやぁ、親は悪くないっていうか……」

 ルカは頭をかいた。遠い遠い過去の記憶をたぐれば、中学に上がったあたりで、両親から家事の手伝いをするよう言われていた。

 塾やら部活やらを理由にさぼっていたのはルカのほうなので誰を恨みようもない。

「親っていえば、センパイはどうなんです?」

「部屋の掃除や洗濯物をたたむくらいはしてたよ」

「あ、じゃなくて。ご両親とはどうなのかなって。心配してますよね、きっと」

「たぶんね。中学でひとり暮らしなんて、私ならゼッタイ許さない」

「じゃあ、本土むこうに行ったときついでに会ったりとか?」

「ムリだよ。関係者以外との接触は禁止されてるから。されてなくてもしないけど」

「え、なんでですか?」

 ルカの反応は予想外だったようで、リンは少し驚いたように見返した。

「べつに話すことないし。バイト君だってそうじゃないの?」

「それはそうですけど。センパイ、そういうトコ、キチンとしてると思ってたんで。ちょっと意外でした」

「きちんとしてるよ。だらしないみたいに言うな」

 リンは屋上の手すりに背中を預けた。その視線の先には、本土の光景とはかけ離れた前近代的な低層住宅が広がっている。

両親あのひとたちの中では、私はいまだに『純真無垢で可愛い凛心ちゃん』なんだ。しかたないんだけどさ」

 リンが異世界に飛ばされたのは今から8年ほど前のことだ。小学校に上がったばかりでいきなり家族と離れ離れになり、それから永い永い人生を異世界で過ごした。

 だが、転移と転生を繰り返して戻ってきたとき、現世界ホームワールドの時間はまったく経過していなかったという。

「私も子どもがいたから分かるんだ、親ってのはそういうモンだって。いくつになっても、子どもは子どもなんだよ。朝ランドセルしょって家を出た娘が、半日で何百年分もの人生を体験してきたなんて言っても、信じられるわけない。見た目ゼンゼン変わってないんだから」

 帰還民のうち、異世界での記憶を持ったまま戻ってきた者は、多かれ少なかれ似たような経験をしている。

 異民局の統計によれば、当人の実年齢が低下するほど、異世界での体験談を空想の類として受け取られる傾向にある。

「向こうでのコトは自分から?」

「はじめは隠すつもりだったんだけどすぐバレた。そういうトコ、親ってスゴイなって思うよ。それからどんどんすれ違っていった感じかな」

 リンの両親は急に大人びてしまった娘の言動に戸惑い、リンは無理解ゆえの「過保護」な親に悩まされた。

「うちの両親、まだ40になってないんだ。若いよね。人生まだまだこれからだよ」

 それは数百年生きた経験からくる言葉なのだが、口にしているのが「14歳の少女」なだけに、いささか珍妙な印象が伴う。

「海外旅行もろくにしたことないっていうから、あの人たちの見えてる世界って、ものすごく小さくて、狭くて、平凡なんだと思う」

 リンはいったん姿勢をただし、身体の向きを変えると、両腕を手すりにのせて寄りかかった。

「『帰還民大禍乱』『オガサワラ異変』『ターンウォー』。なんでもいいけど、アレだけの騒動を経験して、いまだに危機感ないっていうか、なんかヌけてるんだよね。世界中がヒドイニュースであふれてるのに、どっか他人事っていうか、『自分たちだけは安全』って思ってる」

「まぁでも、ウチもけっこうのん気そうでしたよ? そういうヒト、けっこう多いんじゃないですか?」

「それが悪いとは言わない。そういう生き方もいいと思う。ただ、私とは違うってだけ。いろんな世界、たくさんの国を見てきた。人間のキレイなトコも汚いトコも知ってる。清く正しくだけじゃダメってことも分かってる。そんな私に『純真で無垢な子供』のマネごとしろって? ムリムリ」

 24区への移住はリンから言い出したことだが、両親は承諾しなかった。数週間かけて説得を試み、2人の理解を得られないと悟ったリンは、自ら異民局に連絡を入れ、親には内緒で移住の手続きを行った。

「近所の人にもバレだしてたし、限界だったんだよジッサイ。あそこにいたら家族にも迷惑かける」

 帰還民への風当たりの強さには地域差があり、発見され次第迫害されると決まっているわけではない。帰還民の存在を受け入れるコミュニティもあった。

 そのためリンの両親は気楽に構えていたようだが、当事者であるリンは周りの空気が変わっていることを感じ取っていた。

 同級生の家に遊びにいったとき。

 近所の商店で買い物をしたとき。

 横断歩道で信号が変わるのを待っていたとき。

 リンは他人の視線を感じた。そこにこめられた感情は、好奇心、不安、疑念など、さまざまだった。

 敵意や害意と呼べるほど強烈な悪感情にさらされたことはなかったが、集団心理の恐ろしさを知るリンは、両親ほどに楽観的にはなれなかった。

「妹になにかあったら、ゼッタイ切れる自信あったし」

「センパイ、妹いるんですか!?」

「いるよ。すっごいカワイイ。目に入れても痛くない」

「や、それはオオゲサでしょ。目薬じゃないんですから」

 このときリンの相談に乗ってくれた異民局の担当が慧春えはるで、煩雑な手続きについて懇切丁寧に説明してくれただけでなく、リンの両親の説得も買って出てくれた。

「ツバキさんがいてくれなかったら、サイアク、ケンカ別れしてたかも」

「そこまで!?」

「サイアク、ね。ゼンゼン話聞かないんだもん。分かるけどさ。2人にしたら、カワイイわが子の何回分かの誕生日やクリスマス、卒業式とか受験とか、楽しみなイベント全部すっ飛ばして、心の準備するまえに子離れ強制するんだからさ。悪いコトしたって思ってる。けどそれはそれ。ムリなもんはムリ」

 手すりに寄りかかっていた体を起こすと、リンは通用口に向かって歩き出した。

「そのぶん妹を可愛がってくれればいいよ」

 そう語りながら階段室の手前まで来たところで、リンは足を止めてルカのほうを振り向いた。

「あ、そうだ。4日後に決まったよ」

「何がです?」

イツキあの子の命日。週明けにユウトが戻ってくるんだって。あの子にも伝えておいて。夕方の5時にココに来るようにって」

「分かりました」

 反射的にそう応じた声が、ルカには自分のものとは思えなかった。自分でも信じられないほどリンの通達にショックを受けていた。

 安楽死はイツキ自身が待ち望んでいることであり、最初から決まっていたことだ。何も驚くことではないはずだった。

(そっか、フウマさん、最短で一週間って言ってたからな。イツキ、大丈夫かな。引き伸ばされたって、落ちこまないといいんだけど……)

 喜ばしいことのはずなのに、ルカは困惑していた。理由は自分でもわからない。呆然と立ち尽くすルカに構うことなく、リンの背中が建物の中へ消えていった。

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