第8話 超能力少年と特別帰還民
その1
パキスタン北部にある標高約7,500mのバトーラー山は、長大な氷河に隣接することから、山頂部のほとんどが硬い氷で覆われている。
頂上に至る1,500mほどの硬い氷の壁をロープ無しで登るのは至難の技で、これまで多くの登山家の挑戦を退けてきた世界有数の未踏峰である。
今、バトーラー山の周囲一帯には厚い雲がかかっている。雲の下では季節外れのブリザードが吹き荒れ、地面に根を張ったテントの群れを吹き飛ばさん勢いである。
山肌に貼りついているテントの一団は、帰還民排斥派で知られるIT起業家マイケル・シプトンに率いられた登山チームであった。
「我々の世界には、我々の作った秩序がある。歴史も、文化も、この世界で生まれたものがすべてだ。何処とも知れない場所から染み出してきた、余計な不純物に汚染させてはならない!」
凶悪な帰還犯たちによる世界規模の騒乱が終息したあと、こうした過激な主張は世界各地で散見されている。
騒動の元凶である帰還民たちに対する怒りや恨み、疑念は、程度の差はあれども非帰還民の誰もが共有するところであり、簡単にぬぐい去れるものではない。
だが、帰還民の排斥を強く唱える者たちの根底にあるのはそれだけではなかった。
「この世界に生きる我々には、この世界で生まれた事物を、清らかな形のまま次世代へ伝える義務がある! 異世界の力を振りかざす帰還民は、我々の世界を汚す異物だ。文化的、社会的、思想的、宗教的侵略者だ! 異端者に世界を渡してはならない。この世界は我々のものだ!」
自分たちには決して手に入れられない異世界の力。それを手にした帰還民への嫉妬や劣等感が、彼らを過激な主張に走らせるのである。
シプトンが撮影スタッフを従えてバトーラー山の登頂に挑戦したのも、そうした帰還民への反発心からであった。
人跡未踏の地にたどりつくさまを世界中に配信することで、非帰還民たる自分たちの偉大さを証明し、異世界の力など不要であることを世界中のシンパに知らしめようとしたのだ。
だが現実は彼らの期待通りにはいかなかった。
予想外の天候悪化で撮影の中断を余儀なくされ、ベースキャンプのスタッフたちも交えて撮影続行の可否について話し合っている間に雪と風が激しさを増し、下山の機会を失ってしまったのだ。
絶え間なく吹き荒れる吹雪で視界が完全に遮られ、一歩でもテントの外に出たらたちまち方向感覚を失う。隣のテントへの往来さえ命の危険があった。
2日前からベースキャンプとの連絡が取れなくなり、もはや同行者たちの安否すら分からない。手持ちの燃料と食料はとっくに使い果たしていた。
暴風に煽られたテントの中で凍える身体を抱きかかえ、残り僅かな命が尽きるのを待つばかりであった。
「…………?」
シプトンは朦朧とする意識の中で、かすかな異変に気づいた。最初は夢を見ているのだと思った。やがて自分が目を覚ましているのだと分かると、ただの気のせいだと思った。だがそうではなかった。
吹雪に乱打され、嵐の海の小舟のように震えていたテントの揺れが収まっている。あれほど吹き荒れていた風が、いつのまにか静まっていた。
(……嵐が、やんだ、のか……?)
かすかに目を開けて辺りをうかがう。外の様子を確認しようと思ったが力が入らない。気力をふりしぼって身体を傾け、視線をテントの入り口に向けたとき、ダブルウォールのインナーの口が何者かの手によって外から開かれた。
「マイケル・シプトン?」
ライトを手に入ってきた人物は、声や背格好からして少年のようであった。黒い髪と瞳、黄色がかった肌の色からしてアジア系と思われる。
「……そう、だが? キミは……?」
乾ききった唇が震え、わずかに開いた隙間から、うめくように言葉がしぼり出される。
「政府の要請で救出に来た。ケガは?」
救援隊を名乗るわりに、少年の服装は海抜数千メートルの超高所に似つかわしくなかった。
濃紺のジャケットとグレーのスラックスという組み合わせは、どこぞのパブリックスクールの制服を思わせ、登山家や山岳救助隊員には到底見えない。
だが、シプトンの朦朧とした意識ではそこまで気が回らず、スーツの上に羽織った無骨なジャケットから政府か軍の関係者だろうと思いこんだ。
「私は、なんとも無い。ただ、エリック……、エリック・ヴィッサーが、凍傷に……。ほ……ほかの仲間は隣にいる、はずだが……、吹雪のせいで、連絡が取れない」
シプトンの説明が終わらぬうち、少年を押しのけるようにして別の人物がテントに入ってきた。
現れたのは少年と同じように軽装の女性で、マリアム・ラマヌジャンと名乗ると、寝袋で震えているヴィッサーの体を起こし傷の具合を確認する。
シプトンは女性の名に聞き覚えがあった。
「……ラマヌジャン?
シプトンが意識を明瞭化させていく間にも、来訪者たちはテキパキと作業を進めていく。
「マリアム、ケガの具合は?」
「凍傷のほかに脱水症状も見られるが問題ない。すぐ治る」
「じゃあ、任せた」
そういうと少年は返事を待たずにテントを出ていった。
残ったマリアムはヴィッサーの治療を済ませると、続いてシプトンの診察を始めた。といっても実際には「患者」の額に手を当てただけだったが。
シプトンは額に置かれたマリアムの手から不思議な波動が伝わるのを感じた。波動は額から頭部全体、頭部から首、首から胸と、緩やかに伝わっていき、やがてシプトンの全身へと行き渡る。
それに合わせて冷え切っていた手足が温かくなっていくのを感じる。まるでマリアムの手から直接生命力が注がれているかのようだ。
「貴方も軽い凍傷にかかっていたみたいね。どこか痛みは?」
「……いや、大丈夫そうだ。ありがとう」
「じゃ、終わり。全員の安否を確認したあと、まとめて下山するから、それまでおとなしくしてて」
そう言い残すとマリアムもテントを出ていった。
どこか夢心地のシプトンとヴィッサーは、たがいの顔を見合わせた。
「……マイク? 俺たち、助かった、ってことでいいんですかね……?」
「そういうことなんだろうな……」
ほんの数分前まで暴風雪の中で死を覚悟していたのが信じられない。切り刻まれるほどの痛みがすっかり消え、飢えと渇きすら満たされている。
「彼女がラマヌジャンなら、本物の
「つまりコレが異世界の能力か……。まさに魔法だな」
「HP全回復ってやつですね。ゲームのキャラクターになった気分ですよ」
どちらともなく寝袋から起き出した2人は、もそもそとテントの中をはって外へ出た。
仲間の状態が気になったのもあるが、数日間テントに閉じ込められていたため、久しぶりに山頂からの開放感を味わいたいという欲求もあった。
だが現実は再び彼らの期待を裏切った。
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