その3
過去に思いを馳せていたヒュムラは、ある人物の顔を思い浮かべてハッとなった。そうだ、このようなとき、もっとも頼りになる男が王宮にいたではないか。
「アーセラはどうしたんだ? 陛下に助言する立場だろ? アイツならきっと……」
「彼は宮廷導師を辞めたわ。もう王宮、いえ王都にもいない」
「!?」
今日のヒュムラはミスカに驚かされてばかりであった。戦友の近況についてまったく知らなかったのだ。
「婚姻の話は昨日今日決まったことじゃないの。陛下の周りで私との結婚を囁く人は、ずっと前からいたのよ。みんなで王都に凱旋した直後くらいからね」
「そんなに前から……」
「話が王宮の外まで広まらなかったのはアーセラが止めてくれていたから。国王陛下はアーセラを信頼し、復興に関する全権を彼に委ねられていたけれど、貧困に苦しむ民のようすを伝え聞くたびに胸を痛められていたわ」
婚姻推進派はそこにつけこみ、朝な夕な国王の耳に聖女との結婚話をささやき続けたという。
「お優しい方だから『民衆のため』とお聞きになられると、お心が揺らいでしまわれるのよ」
国王の相談役でもあるアーセラは、毎日多くの資料や報告書を抱えて謁見の間に赴き、復興が計画通りに進んでいることを説き、悩める主君を励ました。
アーセラの報告は明快で力強く、国王は彼と話している間は、再建をとげた未来を信じることができた。だがアーセラが謁見の間から去ると、入れ替わるようにして国王にすり寄る者がいた。
「伝え聞くところではラガ地方で野盗の数が増しているそうです」
「治水工事の遅れから東方一帯で多くの餓死者が出る可能性が――」
「農村では先の見えない生活に疲れきって、田畑を耕す者がいないとのことです」
出処の怪しい風聞を語り、善良な国王を悩ました。
そのような婚姻推進派の横槍を知ったアーセラは、ある時、国王の御前で彼らを厳しく弾劾したという。
「近頃、徒党を組んで、陛下の御心をいたずらに騒がせる輩がいると聞く」
アーセラの視線が居並ぶ重臣たちに向けられると、心当たりのある者たちは一斉に顔を伏せた。
「実績のない名声など虚名に過ぎぬ。聖女の名声にすがるばかりか、虚構を並べて民の信を得ようなど言語道断。民の範となるべき王家が率先してそのような過ちを犯せば、遠からず怪しげな予言や迷信を言い立てる者が国中に現れ、怯える民衆の心を惑わし、騒乱を巻き起こすであろう。そうなっては、もはや再建どころではない」
謁見の間にアーセラの力感に満ちた声が静かに響き渡る。
「今が苦しい時期であることは承知している。みな光の届かぬ闇の中に落ちこんでいる心境だろう。だが開けない夜がないように、厳しい試練にも必ず終わりが来る。復興は順調に進んでいる。予定通りいけば、ここ3年のうちに国力の9割まで回復するめどがついている」
「!!」
アーセラが再建までの期限を明言すると、参列した百官たちの間から歓喜のさざなみが沸き起こる。
「あと3年。たった3年の辛抱だ。それも一日一日が希望へつながる3年だ。魔神の支配に長年耐え抜いた我らなら、必ずやりとげられるはずだ。のちほど復興計画の詳細と現状についてまとめたものをお手元にお送りする。何か疑問があれば遠慮なくおたずねいただきたい。計画に不備があればすぐに対処しよう。そのうえで、諸卿らには、このことを広く民衆に知らしめるべくご協力いただきたい。王国再建は魔神討伐に匹敵する難業だが、ここにおられる諸卿らの力があれば、必ずなしとげられると信じている!」
参列した文武の重臣たちの中には若すぎるアーセラに不満を抱く者もいたが、救国の英雄から賛辞を呈せられれば悪い気はしない。もともと祖国を思う気持ちは強いのである。
重臣たちの顔を見回し、多くの者が奮起しているのを確認したアーセラは、最後に冷厳な表情で釘を差した。
「この大業を成しとげるためには、貴賤を問わず国民が一丸とならねばならない。もし今後、虚言を弄し、和を乱す者があれば、国の基を揺るがす大罪人とみなし、我が職権において処罰する。このことしかとお忘れなきよう」
若い導師の眼光がその場にいる全員を射すくめる。重臣たちのなかには心中で「虚仮威しだ、こんな若造になにができる!」と強がる者もいたが、アーセラは本気であった。
その日の夜、アーセラの警告を無視し、密かに国王に謁見を願い出る者たちがいた。
徒党を組んで謁見の間に乗りこんできた7人は、いずれも名門貴族の子弟たちで、彼らは国王の前に進み出るや否や、昼間のアーセラの言動を批判した。
そしてそれが一段落したとき、若者たちの背後で控えの間の扉が開いた。
隣室で貴族たちの訴えを聞いていたアーセラは、動揺する貴族たちに対して、彼らの中傷がいかに事実無根であるか完膚なきまでに論破してみせたうえで、衛兵に命じて全員を拘束させた。
逮捕の報せを受けた青年貴族の親たちはすぐさま王宮に馳せ参じ、子供たちの解放を訴えた。そのなかには、アーセラと共に復興計画の中枢を担う財務大臣もいた。
だが、アーセラは重臣たちの請願を一顧だにせず、翌朝、7人を王門の前で杖刑に処したのち貴族専門の監獄塔に投獄した。
独房の扉を自ら魔法で閉ざす念の入れようであり、これ以降、婚姻推進派は鳴りをひそめ、宮廷内の文武官たちは、アーセラの再建計画に従い、自らの作業に力を注いだ。
その結果、当初の予定より半年ほど早く、最初の目標を達成した。農作物の収穫量が上昇し、水陸の流通網が再築されたことで、国内は往年の活気を取り戻すことができたのである。
「アーセラの才能と正しさが証明されたわけだな。しかし、それならどうして彼が王宮を去らねばならない? 何も間違ってはいないだろう?」
ミスカは目を伏せると、力なく首を振った。
「そうよ、彼は正しかった。いつだってそう。でも誰もが理屈で動くわけじゃない。正論を煙たがる人たちもいるし、もともとアーセラを快く思っていない人もいた。そういう人たちが集まって、彼を批判するようになったの」
復興が順調に進んだことで、王国は明るさを取り戻し始めた。まだ生活は苦しいものの、人々に笑顔が見られるようになり、田畑を耕す手にも力が入り、市場でかわされる声も日増しに大きくなっていった。
それは王宮内においても同様で、それまで仕事に没頭していた役人たちが、作業の合間に手を止め雑談に興じるようになった。
予想以上によい結果が出たことで張り詰めていた空気が緩んでしまったのだ。
「当初の予定より順調だからといって慢心してはならない。まだ道半ばにも達していないのだ。我らは、いまだ薄氷の上に立っている。そのことを肝に銘じ、これまで以上に気を引き締めていただきたい」
アーセラは綱紀の粛正を図ったが、いったん緩んだ人の心を締めつけることは容易ではなかった。
それまで1年近くもの間、王宮内の誰もが、責任感や不安を背負って職務に励んでいたのである。最初の目的を達成したことで、開放感に浸るのは無理からぬことであった。
「アーセラ卿め、まるで我らが怠けているとでも言いたいのか!」
「まったくだ。アヤツの計画など、しょせん現実を知らぬ机上の理想論。実際に汗水流し、事を成したのは誰だと思っているのだ!」
「そうだ! やつは毎日王宮でふんぞり返って何もしておらん! それをなんだ! 長年の難事を片づけて、ようやく一息ついただけであの言いようだ。バカにしおって!」
「あの若造め、いつか思い知らせてくれる!」
気持ちに余裕が出たことで、厳格なアーセラへの不満や愚痴を口にする者が出始めた。自分たちの力で国力が復興したという自負もあったろう。
命令する立場という点では、宮仕えの彼らも同様である。彼らは上からの指示に従って、庶民たちを働かせたにすぎない。
汗水を流したとは言っても、土にまみれて鍬や鋤を振るった民衆に比べれば微々たるものであろう。
「最初はアーセラもそういう声を無視していたようだけど、ついにわずらわしくなったんでしょうね。去年、病気を理由に陛下に暇乞いをして、そのすぐあと王都から姿を消したの。翌日、彼の執事が『資産はすべて王家に返上する』と記された書状を王宮に届けるまで誰も気づかなかった。魔術書の類は持ち出されていて、使用人への退職金も用意されていたそうだから、だいぶ前から準備していたんでしょうね」
アーセラに不満を持っていた者たちは、この事実を知るや、声をそろえてアーセラの行動を批判した。
「筆頭導師たる身でありながら、国家存亡の危機に職責を果たさず出奔するとは何事か!」
「重責に耐えられぬ者が辞職するのは当然だが、後任も決めず、残務処理も済ませずとは無責任の極み!」
「陛下のご寵愛を傘に来て大言壮語した挙げ句にこのざまか!」
廷臣たちの一部からは、アーセラを探し出し職務放棄の罪で罰っすべきという声すらあがったが、これには国王が明確に反対した。
アーセラが暇乞いに現れたとき、国王はおおよその事情を察していたようだ。玉座の前に控えていた侍従長が、御前に跪くアーセラから上奏書を受け取ると、国王は彼に立ち上がるよう促した。
「これまでよく仕えてくれた。導師殿がいなければこの国はとうに潰えていた。先に世界を救い、いま我が国を救ってくれた賢者アーセラよ、我が国を代表し感謝申し上げる。導師殿の深遠にして聡明な知は天界の理にこそ向けられるべきものであり、あたら人界の雑事にとどめおいたは我が不明。あとのことはお気にめさるな」
快く送り出そうという国王の気遣いに感謝したアーセラは、無言のまま深々と一礼すると、王の前から去っていたという。
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