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美咲は実家に帰ってきてから、昼食をあまり摂らなくなっている。
朝と晩は母が用意してくれるが、平日の昼間は食べないことが多い。そもそも家で座ってパソコンをいじってるだけなのだから、それほどエネルギー消費はなく、あまり腹も減らない。夕方くらいに甘いコーヒーを飲みながらパンやスナック菓子などをつまんで、夕食までのつなぎとしている。
その日も何も食べないまま、昼の十二時五十分にパソコンのオンライン会議のソフトを起ち上げた。
十分後に会議が始まるのに、ログインしているのは二年先輩の三宅優子だけだった。オンライン会議が時間通りには開始されることは、ほとんどない。画面を通してだと人を待たせているという感覚が薄れるのか、直前になって「すみません、少し遅れます」などというSNSのメッセージが飛んできたりするのが常だった。
画面に現れた三宅の顔が動いて、
「どうも、おはようございます」と言った。
三宅の自宅からの会議参加のようで、画面の背景は住宅用の白い壁紙が写っている。
「おはようございます」と美咲は返事をした。
「古瀬ちゃん、今実家よね?」
「ええ、そうですけど」
「実家って、H市って言ってなかったっけ?」
「はい、そうです」
三宅は身を乗り出してきて、画面に顔が大きく映る。
「今朝、H市で、殺人事件があったんじゃない? 知ってる?」
「あ……」
三宅は地獄耳の能力でも持っているのだろうかと、少し唖然としてしまった。もう、そんなに話が広まっているのだろうか。
「なんで知ってるんですか?」
「なんでって、お昼のニュースでやってたよ。たぶん検索したらネットニュースにもなってるんじゃないかな」
朝に現場に行ったときには、近隣住民の野次馬と警察と救命士しかいなかった。あの後にマスコミがやってきたのだろうか。
画面の向こうの三宅は、殺人事件を怖れたり美咲の身を心配したりというふうではなく、興奮して好奇心むき出しの表情になっている。美咲は、三宅がミステリ小説の愛好家だということを思い出した。リモートワークになる前は、昼休みに昼食を終えた三宅がいつも電子書籍や投稿サイトで、最新作のミステリ小説を難しそうな顔をして読んでいた。
何冊か、美咲も勧められるままに読んだことはあるのだが、いわゆる本格ミステリというのはトリックに少し無理があるような気がして、結末に納得できないことが多かった。
「今日、朝の五時すぎくらいですけど、現場に行ってみたんですよ」と美咲は言った。
「うそ、本当? 古瀬ちゃん、わざわざ現場に行ったの?」
「行ったというか、すぐ近所なので……。実家から百メートル以上は離れたところですけど、二百メートルよりは近いかな」
「すごい、すごいじゃない」三宅はなぜか拍手をし始めた。
人が死んでいるのに「すごい」という反応はいかがなものかと思ったが、ミステリ愛好家にとっては現実の犯罪というものはリハーサルで鍛えた思考力を役に立てる絶好の機会と感じるのかもしれない。
「で、どう? 機捜は来てた?」
「キソウってなんですか?」
「あ、ごめんなさい。機動捜査隊のこと。事件があったら刑事部のなかで真っ先に現場に駆けつけて、初動捜査を担当する部隊のこと」
「あれが機捜かどうかはわからないですけど、制服のおまわりさんのほかに、私服の警察官も何人かやって来てましたよ。現場近くに集まってる人に、変な音は聞かなかったか、とか一通り聞いてました。私も聞かれましたけど」
「拳銃持ってたら、機捜で間違いないんだけどね」
美咲は朝の警察官の姿を思い出した。薄手のスーツを着ていたが、あの下に拳銃のホルダーを閉めていたのだろうか。
「じゃあ、もしかしたら古瀬ちゃんの家にも、近いうちに聞き込みに来るんじゃない?」
「まあ、たぶん来ると思いますけど」
「それじゃ、『警察手帳見せてください』って言ってみて。警察手帳規則第五条で、警察官は呈示を求められたら基本的に拒めないってことになってるから」
その三宅の知識と好奇心に、圧倒されてしまう。
「はあ……」
「で、どうなの? 犯人の目星ついてるの?」
「いえ、ぜんぜん。ていうか、そもそも本当に殺人なんですか?」
「ニュースではたしか、事件・事故両方で捜査を開始、みたいな言い方だったと思うけど、現場に刃物が落ちてたから、ほぼ確定でしょう」
「そうなんですか?」
すぐ近くに住んでいて、実際に現場まで足を運んだ自分より、東京にいる三宅のほうが事件についてなぜか詳しく知っている。もちろんメディアで報道された情報なのだろうが、少し不思議な感じがした。
二人の同僚が続けてオンライン会議のソフトにログインした。
「おはようございます」
三宅はそう言って、以降は事件については語らなかった。
オンライン会議は途中休憩を挟んで二時間を要した。
自分の業務に関係しないことが大半を占めていたが、途中で抜けるのは不可能ではないにしても心理的に難しい。美咲は結局会議の最後まで付き合うことになった。
営業担当者はみんな今でも東京にいて、業務の一部しかオンライン化できないため、直接クライアント回りを続けているらしい。
飲食店のクライアントからは、求人の停止のほかには、テイクアウトを導入したのでそのようにウェブサイトを改変してほしい、という依頼が山のように来ていると営業担当者の一人が言った。
新たにページを増設しなければならなくなる。それに伴ってトップページも書き換えなければならなくなるだろう。その手間を思い、美咲はバレないようにため息を吐いた。
また店舗の営業時間を変更したり、テイクアウトオンリーにしてしまう店も多くあるようだ。
「リモートワークを恒久化するか、それともどこかのタイミングでオフィスワークに戻すかはまだ未定です。リモートワークは利点が多いものの、コミュニケーションが一部困難になっているのは事実ですので」美咲の上司にあたる部署の長がそんなことを言った。
そして付け加えるように、
「完全リモートの勤務になっている人は、来月から交通費の支給が停止されます」と言った。
ということは、美咲のお給料からも、月六千円あまりの交通費は無くなってしまう。
多少不満に思ったが、やむを得ない。実家に帰ってきて、交通費は要していないし、水道光熱費も要らず、食費として月に二万円を母に渡しているが、外食とコンビニ弁当ばかり食べていたころより、だいぶ安く済んでいる。
東京に借りている部屋はそのままにしているので、その家賃はもちろん払い続けている。リモートワークが恒久化されるか否か、早く決めてほしいと美咲は上司に要望した。
オンライン会議が終り、台所に降りてコーヒーを入れ、自室までカップを持って上がった。
ブラウザを起ち上げて、「H市 事件」で検索すると、三宅が言っていたとおり、ニュース記事がいくつも出てきた。
美咲はそのうちの、テレビの地方局の記事を開いた。自動で動画が再生される。
”今朝、午前五時ころ、H市で男性が死体が発見されました。
発見現場は、H市北部の閑静な住宅街です。
犬の散歩に出かけていた近所の住人が、公園で男が倒れている姿を発見し、警察に通報しました。
男性は二十代から三十代と見られ、詳しい身元はわかっていません。“
アナウンサーが写っていた画面が切り替わって、昨日役員班長会議が開催された集会所を映した映像になった。それから画面は動いて、現場である隣の公園の入り口を映し出した。
続いて、「近くに住む人は――」というテロップが画面右端に表示されて、首から下だけが映されている男が、インタビューに答えている。
「長いことここに住んどるけど、こんなん初めてじゃ。おう、普段は平和、平和。住人どうしも仲良しじゃし、おかしなことなんか起こったことないよ。ええ、もちろん心配ですよ。早いこと解決してほしいね」
テレビを通して聞くと、不思議と方言がキツく聞こえる。
「現場には凶器と見られる刃物も見つかっており、警察では事件事故の両方から慎重に捜査を進めています」というアナウンサーの声を最後にして動画は終わった。
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