8

 目玉焼きの乗ったトーストをかじりながら、美咲は敏子に朝の出来事を話していた。

 敏子はおどろいたことに、朝方のサイレンにはまったく気づかずねむり続けていたという。目を覚ましたのはいつもと同じように七時ちょうどだったらしい。

「で、あんた朝からそれ見にいったん?」

「だって、気になるじゃない。死体が見つかったなんて。美容院の酒本さんも来てたよ」

「へえ、さっちゃんまで。……で、どうなん、事件なん? 死んどった人は、男なん? 何歳くらいなん?」

 敏子は少し興奮気味に、矢継ぎ早に疑問をぶつけてくる。

「わかんない。亡くなってたのは若い男の人なんだって」

「若い男……、て何歳くらい?」

「さあ。二十代か三十代前半みたいなことを、言ってたけど」

 コーヒーを一口飲むと、唇に移っていたマーガリンがコーヒーに溶け出して、小さく丸く浮いている。

「そう。あんま、うろうろして警察の邪魔したらいかんよ」

「わかってるよ。もう行かないから」

「まあ、殺人事件だったら、ずいぶん珍しいことじゃろね。田舎じゃけん、市内でも凶悪事件は年に一回あるかないか」

「もちろん、この第二新光でこれまでに殺人事件なんて起こったことないよね?」

「あるかいな。絶対にない。こんな家ばっかりのところで。空き巣騒動は何年か前にあったような気がするけど、人殺しは聞いたことない」


 敏子はいつものように、七時四十五分ぴったりに家を出て、軽自動車を運転して職場に向かう。敏子は五十五歳で生保レディは引退して、今は和菓子を製造している地場の食品工場で、午前八時から午後四時までのパート勤務をしている。

 朝早くに目が醒め、その後に眠れなかったせいか、神経はやたらと高ぶっているが、眠気がある。なにせ、近所で人が殺されたかもしれないのだ。犯人は、まだ近くに潜伏しているかもしれない。気温は窓を開ければ心地よいくらいで、昼を過ぎると暑くなって最近は開けっ放しにすることが多い。しかし美咲は、朝から家の窓がすべて閉まっていることを確認してから自室に入った。

 パソコンを開いてメールチェックをすると、上司から今日美咲がすべき作業の指示が届いており、午後一時からはオンライン会議が開催されるということだった。

 朝の二度寝を思わぬ形で中断されたため、まぶたが少し重い。少しだけ寝ようか、作業は晩御飯を食べた後にゆっくりやったので間に合いそうだ、と怠惰が首をもたげようとしたとき、

「いちおう、確認しとこうかな」と美咲は独り言を言った。

 家の固定電話の棚に置いてある、手書きの電話番号帳をめくる。そして、窪園雄太郎の項目を見つけて、その番号に電話を掛けた。

 三回コールしたところで、相手は電話に出た。

「もしもし、窪園ですけど」

「あ、朝早くにすみません。古瀬と申します」

「あ、みっちゃんか。どうしたん? 何か用?」雄一郎が言った。

「あ、昨日はありがとう。いきなり、ごめんね。ちょっと気になることがあって電話したんだけど。ゆうちゃん今朝のこと知ってる?」

「もしかして、公園の殺人事件のこと?」少し興奮気味に言う。

 やはりすでに第二新光集落のなかで話は広まっているらしい。

「そう。っていうか、殺人事件なの? 朝、私が見に行ったときは、事件か事故かわからない、みたいなこと言ってたんだけど」

「さあ。俺もさっき、朝飯食う前にちょっと見に行ってみたんじゃけど、パトカーのほかにも鑑識っていうんかな、青い服着た人がたくさんおって、何やら調べよったけん、殺人かなって思て」

「そう。まあ……」

「で、何か用があって掛けてきたんじゃろ。なに?」

「あ、いや……、亡くなってた人って、二十代か三十代くらいの男の人なんだって。だから、もしかしたらその死体がゆうちゃんだったんじゃないかと、ちょっとだけ思って、一応念のため」

 それを聞くと、雄一郎は電話の向こうで大きな声を上げて笑った。

「なんじゃ、心配してくれとったんかい。俺なら元気じゃ。死んどりゃあせんわい」

「警察の人が、ぜんぜん詳しく教えてくれなかったから。朝に行ったときは、『またお話をお伺いします』みたいなことを言ってたから、たぶんそのうちゆうちゃんの家にも聞き込みに来ると思うよ」

「しかし殺人にしても事故だとしても、物騒なことには変わりないのう。うちのオカンも興奮しっぱなしで、すっかり探偵気分で、朝からあちこちにメール打っとるみたい」

 美咲は子供のとき以来、何度も会ったことのある雄一郎の母親の姿を頭に思い浮かべた。なぜか美咲は、彼女に対してあまりいい印象を持っていない。小学校低学年のころ、雄一郎の家で遊んでいると、「もう五時になるよ」とか「雨が降りそうよ」と言ってきて、やたら帰宅を促してきていた。直接何か嫌なことをされたということはないのだが、好かれていないことは子供心にも理解できた。

「昨日、職安どうだった?」美咲は雄一郎に尋ねた。

「うーん……、先週に比べて、求人は増えるどころか減っとった。飲食とかホテルとか旅館だけじゃなくて、ほかの業種にも悪影響が出てきよるみたい。ハローワークの窓口も失業者で溢れとって、いま日本で繁盛しとるんは、病院と職安だけじゃろね」

 それを聞いて美咲は少し笑いそうになったが、まんざら冗談ではないかもしれないと思う。日本中が、かつて経験したことのない大不況に陥り、回復の見通しは全く立っていない。他人事ではない。遠からず、巡り巡って美咲の会社にも影響が及ぶだろう。

「まあ、もし何かええ仕事がありそうやったら、教えてえな。できれば和食の飲食店で働きたいけど、贅沢言うてられんかもしれん」

「うん、わかった。……あ、ゆうちゃう。もし良かったら、携帯の番号教えてくれない?」

「ああ、うん」

 雄一は番号を言ってから、大手のSNSの名前を挙げて、

「IDも番号で登録しとるから」と言った。

「わかった。あとで申請しとくね」

 電話は切れた。

 早速SNSの友だち申請すると、しばらく経って承認されたという通知が来た。

 時刻はまだ午前八時過ぎ。美咲はスマホのタイマーを二時間にセットして、Tシャツ姿のまま布団の上に寝転がった。

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