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 夕方六時過ぎ、美咲がリビングでテレビの夕方のニュースを見ていると、母の敏子が帰宅した。

「安売りじゃったけん、ちょっと買いすぎてしもた。レジ袋有料になったんじゃね」

 敏子はいつも使っているエコバッグのほかに、白いレジ袋を手に提げていた。なかに入っているシチューの固形スープの黄色い箱が透けて見える。

「まったく、なんでレジ袋にお金払わないかんのんよ。あのバカボン大臣のせいで」敏子は悪態をついた。

 今年の七月一日から、環境問題に対処するためという名目で、スーパーやコンビニで買い物をするときのレジ袋が有料化された。消費者にとってはずいぶん評判の悪い政策で、ニュースを見ると小売店側もレジでの接客に支障を来したり、またマイバッグを持つ人が増えたために万引きを見つけることが難しくなったということだった。しかも焦点となるはずの環境対策も、レジ袋を有料化したところでプラスチック消費の総量にはあまり影響がないらしく、本当に誰も得をしない愚策となっている。

 当の環境大臣でさえ、「有料化はプラスチックごみ対策ではなく、環境問題に意識を持つきっかけとなることを期待している」などと、得体の知れない自信を満たしながら言っている。少なくとも美咲には、この愚策は意識を持つきっかけにはならなかった。

「すぐ晩御飯作るけん、待っとってね」敏子はそう言って、台所に向かう。

 冷蔵庫の扉を開けて、食材を中に入れている母に向かって、

「今日、お昼に回覧板来たんだけど」と言った。

「あー、下駄箱の上にあったね」

「見る?」

「別に見んでもええじゃろ。何書いとるか、全部知っとるし」

「そうだよね。じゃあ、私お隣に回してくるね。たぶん、もう帰ってると思うから」

「お願い」

 美咲は玄関に行き、回覧板を手に取るとサンダルを履いた。


 夕食は、サンマの塩焼きに切り干し大根とにんじんの煮物、豆腐とわかめの味噌汁に、昨日の残りものでほとんどショウガと醤油の味しかしないこんにゃくとレバーの煮物。

 テレビを見ながら敏子が、

「サンマも高なったねえ、昔は冷凍もんなら一匹九十八円とかじゃったのに、今は二百円もして、その上に消費税が掛かるんじゃけん」などと独り言のように言っている。

「あ、そういえば今日の昼間、ゆうちゃんに会ったよ。窪園さんとこのゆうちゃん」

 敏子はそれを聞くと、少し箸を止めて何かを思い出すように視線を天井のほうに向けた。

「窪園さんとこの。ああ、そいえば、少し前に帰ってきたみたいじゃね。あの子はたしか○○市のほうにいっとったはずやけど」

「うん、飲食店に勤めてたらしいんだけど、お店が潰れちゃったんだって。だからこっちに帰ってきたって」

「そう。残念じゃね。今はどこも厳しいんやねえ。特に料理屋さんとか旅館とか」

 母は雄一郎がこちらに帰ってきていたことは知っていたようだが、ほかのことは知らないらしい。ということは、雄一郎がバツイチであるということも知らないのだろう、美咲はそう思った。もちろん、わざわざ知らない人に知らせるような情報ではないため、美咲はそれ以上は言わなかった。

「そういや、窪園さんところの子も、一人っ子やったね。子供のころ、あんたとよう仲良うしよったね」

 それを聞いて、母はやはり気づいていなかったのか、と美咲は思った。

 実は、高校一年から三年の夏あたりまで、美咲と雄一郎は恋人どうしという関係だった。ふたりは中学までは学校が一緒だったが、高校は別のところに進学した。しかし、自転車で高校まで向かっていると、家を出るタイミングがほぼ同じなのか、第二新光集落の中央公園のあるあたりで鉢合わせするので、それぞれの高校に向かう分かれ道まで、一緒にしゃべりながら通学するということがよくあった。

 そして、そのころにようやく携帯電話を持たせてもらうようになったので、美咲は雄一郎と電話番号とメールアドレスを交換した。それがきっかけとなり、幼なじみと頻繁に連絡するようになって、距離を徐々に近づけることになった。

 別れを切り出したのは、美咲からだった。理由は、「受験勉強に専念したい」というものだった。言い訳に受験勉強を持ち出したのではなく、本当にそうだった。家にいても雄一郎とメールのやり取りをしているうちに、いくらでも時間が潰れてしまう。しかし、やってきたメールに何時間も返信しないわけにもいかない。いつの間にか、美咲にとって雄一郎の存在が負担になっていた。

 別れを告げられたほうの雄一郎もあっさりしたもので、嫌な顔ひとつ見せずに、「それじゃ、がんばって」と言い、美咲の前から去って行った。後になってから、美咲と別れた後にすぐ雄一郎はほかの女と付き合い始めた、などとどこかで聞いた記憶があるが、真相がいかなるものだったのかは知らない。

 ふたりが交際していることを親に隠していたわけではないが、敏子は保険の外交員としてフルタイムで勤務しており、土日も営業に出ることが多かったので、しぜんと親子の会話も少なくなってしまい、告げる機会もなかった。

 夕食が終わると、敏子は炊飯器の飯を小さなお椀の形をした仏器に盛り、和室に入って仏壇に供えた。そして線香に火を点けて、おごそかに手を合わせた。

 飯の水蒸気と線香の煙、ふたつがいびつな渦を空中に描き伸びて消える。

 美咲は食後のタバコを吸いに行こうと、二階の自室に向って階段を登っていると、それを察した敏子が、

「いいかげん、止めなさいよ。身体にも悪いんじゃけん。女のくせにタバコなんか吸いよったら、いつまで経ってもお嫁に行けんよ」と怒気を含んだ大きな声で言ってきた。

「うるさいなあ。女は関係ないでしょ。今残ってるぶんを全部、吸ってしまったら止めます」おざなりに美咲は答えた。

 部屋に入って、さっそくタバコに火を点ける。「禁煙など簡単だ。私は何回もやっている」と豪語した著名人がいたが、いったい誰だったか。

 IT屋に勤務している人間は男女問わず、おそらく他業種よりも喫煙率が高い。ディスプレイに向かっての単純作業を延々と続けることになるため、気分転換を必要とする人が多いのだろう。

 オフィスに出勤していたころは、少しでも臭いを減らすために加熱式のタバコを吸っていたのだが、リモートになってからは充電の必要がない紙巻きタバコを吸うようになった。

 平均すると、三日で二箱を消費している。それほどのヘヴィスモーカーではないと美咲は自分では思っている。しかし、自分の健康にはあまり自信がない。実家に帰ってきて、外食やコンビニ弁当だけという生活を脱することはできたが、とにかく運動をしない。コンビニまでわざわざ歩いて行っているのも、ペーパードライバーというのもひとつの理由だが、運動不足を少しでも解消しようと思ってのことだった。

 キーボードの上に置いてあったスマホを手に持ち、YouTubeのアプリを起動させたが、よく見ているチャンネルの新規投稿は無かったので、アプリを閉じた。

 敏子は毎日、必ず仏壇に手を合わして美咲の父を弔う。

 美咲に父の記憶は一切ない。父がどんな人だったのか全く知らない。

 父の古瀬光俊が蒸発したのは、美咲が三才か四才のころだった。この第二新光集落に家を建てて、その五年後に蒸発してしまった。父が去った理由はもちろん美咲にはわからない。警察は事件性がない失踪については、ほぼ何もしてくれなかったらしい。

 敏子は配偶者である光俊が蒸発した後も、この家に住み続けた。母子ふたりで住むには、二階建て4LDKの一戸建てはあまりに広大だが、それでも引っ越すことはなかった。

 敏子は結婚後は専業主婦になることを選んだのだが、光俊の失踪後には自分が大黒柱となるために結婚前に勤務していたところとは別の保険会社に入社した。

 昔の言葉でいう「生保レディ」だった母の成績はかなり良かったのか、美咲は一般的な母子家庭としてイメージされるような貧困を感じたことはない。実際、母の受け取る歩合制の給料は平均よりも高かったようなのだが、しかし住宅ローンをいなくなった光俊の代わりに払い続けるのはかなり厳しかったはずだ。おそらく光俊の父母つまり美咲の祖父母の援助もあったものだと推察するが、そこまでしてこの家に住み続けた理由はいったい何なのだろうか。

 美咲はそのことを母に尋ねてみたことがあるが、「引っ越すのが面倒だった」とか、「引っ越してあんたの保育園が遠くなると大変だし、保育園を変わるのもかわいそうだと思った」みたいなことを言った。その答えに美咲はいまいち納得できていない。

 父が蒸発してから七年が経過した日、ついに家庭裁判所より失踪宣告がされた。

 美咲が十一才だったある日、業者がやってきて、和室に仏壇を運び込んできた。当時の美咲の身長より高さのある大きな仏壇で、実際かなり高級なものだとのちに知った。

 仏壇にはややこしい漢字の書かれた位牌がおかれ、次の日曜日には寺の住職が呼ばれて、簡単な法要も行われた。

 失踪宣告は法的な死を意味するが、敏子はそれをリアルな死としても捉えたようだった。仏壇を購入して供養まで行うということは、敏子は配偶者が帰ってくることはないと覚悟を決め、気持ちに区切りをつけたのだろう。

 寺の敷地には父の墓もある。もちろん納めるべき遺骨はないので、骨壺のなかには父の写真と使用していた眼鏡などを入れているということだった。

 美咲は母と違って、父の位牌を拝んだことは、一度もない。正確には何度か敏子に促されて、手を合わせる真似事をしたことはあるのだが、自ら進んでやったことはない。記憶にない人間を、どのようにすれば弔うことができるだろう。

 実は美咲には、幼いころに見た父の記憶らしきものがある。

 場所は間違いなくこの家のリビングで、短髪で口ひげを生やしていた男だった。しかし、生前の父の写真を見ても、父は当時には珍しく耳が隠れるほどの長髪に近い髪型をしており、髭を伸ばしたことは一度もないらしい。

 記憶の底にはあるあの髭の男は、いったい誰なのだろう。ひょっとしたら父はまだ生きていて、そのうちひょっこり帰ってくるのではないだろうか。そんなことを考えたこともあった。今でもある。

 美咲はタバコの煙を吐き出した。先に宙に薄く漂っている煙を、自分の吐息が吹き飛ばして混ざっていく。

 先ほど敏子が言った、「女のくせにタバコなんか吸いよったら、いつまで経ってもお嫁に行けんよ」という言葉が頭の中で残響となって消えない。もし同じ言葉を会社や公的な場でえらい人が言ったならば、即座に問題発言とされるだろう。政治家の発言ならば、辞任要求すらされるかもしれない。

 男女同権が求められ、自由で多様な生き方が容認されるようになったことは良いことなのだろうが、一方で堅苦しさを感じることもある。

 二十九歳のころ、同僚に誘われて業者が主催する婚活パーティというものに何度か行ったことはあるのだが、自らの過去や体形を「スペック」と比喩される形に数値化して顕し、その情報を交換するという作業は、まるで自分が店頭に並んでいる値札の付いた食材になったようで、あまり気分のいいものではなかった。

 タバコを吸っている人間を配偶者に選びたくないという人は男女を問わず確実に一定数いて、婚活パーティに参加する際に書いたプロフィールにも、喫煙者か非喫煙者かを記入する欄があった。母の言っていることはそれほど的外れというわけではないだろう。パートナーを見つけるという目的を果たすためには、喫煙がマイナスになることはあってもプラスになることはない。

 美咲は三十三歳で、今年で三十四になる。東京で借りているワンルームと職場を往復していると、いつの間にか二十代が終わっていた。

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