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 スニーカーを履いて玄関を出ると、まだ夏の熱気で満ちていた。

 玄関に鍵を掛けて門扉を出ると、美咲は自分の住んでいる家を眺めた。敷地六十坪の一戸建てはすでに築三十年を超えている。白かった塀はすっかり色あせて、ところどころに緑の苔が貼り付いている。

 ここに家を持つことを強く希望したの父だったと、美咲は母の敏子から聞いたことがあった。市の中心部からは十キロほど離れており、決して便利な立地とは言えない。農村と言ってもよい地域を抜けて、山のふもとにいきなり現れる密集した戸建て群は、異様な雰囲気に満ちている。

 集落のなかを歩いて、集会所の前を通り、その横の公園をちらりと横目で見る。公園と道路を隔てる金網に、「第二新光中央公園」という古びた看板が掛かっているが、「中央」などとたいそうな名前にはふさわしくない、大中小の各サイズの鉄棒とブランコがあるだけのふつうの公園。

 子供のころは、この公園で美咲もよく遊んだものだが、集落は少子高齢化しているため、最近はあまり利用する人がいないようで、公園の地面はびっしりと夏を越えた雑草に侵されていた。年に二回、この公園の草むしりをすることも自治会役員の重要な仕事だと母が言っていた。

 十分あまり歩いて、第二新光集落を超えて第一新光集落を抜けると、道路の左右は農地や耕作放棄地に囲まれる場所に出る。

 道路の右側を歩いていると、左車線を軽自動車が通り抜けて行った。しかしその軽自動車は、いきなり減速し、そのまま停車した。

 気に留めず通り過ぎようとすると、軽自動車の運転手の男が運転席からこちらを見ている気配を感じた。

 そして運転席の窓が下に降りていく。

 いったい何なんだろう、まさか昼間から道端でナンパでもしてくるつもりだろうか。

 そう思って歩く足を速めると、

「ねえ、すみません。あなた古瀬さんじゃないですか? 古瀬美咲さん」という声が聞こえてきた。

 いきなり自分の名前を呼ばれたので、立ち止まって振り返る。帽子のつばを少し持ち上げた。青いシャツを着た、短髪で丸顔の男が運転席に座っている。

 どなたですか、と問おうとした瞬間に、一気にいろんなことを思い出した。

「やっぱり、みっちゃんだ。ひさしぶりやん。覚えとる?」

「あー、ゆうちゃん!」と美咲は言った。

 窪園雄一郎。美咲と同い年で、第二新光集落の八班が属する区画住んでいる。子供のころはよく一緒に遊んでいた。いわば、幼なじみという関係になるのだろう。

「みっちゃん、こっち帰ってきとったんやね。いつ?」雄一郎は言った。

「うん、今年の四月くらいに」

「へえ、全然知らんかった。……で、今どこ行きよるん?」

「ちょっと、コンビニに」

「コンビニって、公民館前のファミマ?」

「うん、そう」

「ほいじゃ、乗ってく? 俺もちょうどそっちのほうに行くけん」

 雄一郎はそう言って助手席のほうを指さした。

「いや、いいよ。すぐ近くだし」美咲は軽く手を振ったが、

「遠慮せんでもええて、どうせついでなんやし」

 雄一郎は、せかすように左手の親指で助手席のドアを指している。

「それじゃ、お願いします」

 そう言って美咲は助手席に乗り込んだ。

「十五年ぶり、くらいかな。もっとかな」と美咲は言った。

 冷房の風が矢のように細く直接頬に飛んでくるようで、冷たい。美咲は帽子を脱いだ。

 幼なじみとの思わぬ再会に、気分が少し高揚していることを自覚する。

「そんなになるんか。みっちゃん、ぜんぜん変わっとらんね。後ろ姿ですぐわかった」

「ゆうちゃんもぜんぜん変わってないよ。不思議だなあ。お互いちゃんと歳取ってるはずなのに」

「みっちゃん、まだ独身やね」雄一郎は遠慮なしにそう言う。

「なんでわかるの?」

「だって、指輪してない」

 言われて美咲は自分の左手を上げて見る。

 そしてハンドルを握っている雄一郎の手に視線を移した。

「ゆうちゃんも?」

「いや、俺はバツイツ」平気な表情のままそう言った。

「あらら、そうだったの」

「七年くらい前になるんかな。二十七のときに結婚したんじゃけど、三年ももたずにダメになってしもて」

「そう。子供は?」

「元嫁さんとこに、女の子がひとり。今年で五才」

「そう」

 同級生がすでに結婚し子供もおり、さらに離婚したと聞かされても、美咲はそれほど驚かなかった。実際、昔からの同級生の友人はほとんど結婚しており、独身なのは美咲ほか数名ほど。

「で、みっちゃんは何でコンビニ行くのに歩いてた? 車は?」雄一郎が言った。

「あ、いや……、私ペーパードライバーだから」美咲はそう言いながら少し恥ずかしさを覚えた。

「ああ、そっか」雄一郎は納得した様子で言った。

 地方で生活するには、車は必須だと言ってもいい。鉄道も路線バスも本数が少なく、生活の足にするにはあまりに不便だ。だから家庭に一台どころか、成人一人に一台が必要となる。

「大学卒業した後も、東京の会社に就職してずっとあっちで暮らしてて、免許はあっても車を運転する機会がなかったから……。こっち帰ってきてからは、ちょっとした買い物は歩いて行ってて、遠くに行く必要があるときは、お母さんに乗っけていってもらってるんだけど」

「そう。てことは、会社辞めてこっちに帰ってきたん?」

「いや、今年の春先から、会社が完全リモートワークになっちゃってね。あっちで借りてた部屋はそのまんまにしてるんだけど、どうせ通う必要がないなら、戻って来ないかってお母さんが言ってね。まあ、あっちの部屋を引き払って完全にこっちに戻ってくるか、また向こうに帰るかは、まだ決めてないんだけど。会社のほうも、リモートを継続するかどうかまだ決めかねてるみたいだし」

「へえ、都会のほうじゃ、今やそういうのが主流なんやね。仕事内容はどんなの?」

「今は大手IT屋の子会社に勤務してるんだけど、企業のウェブサイトをデザインしたり、メンテナンスしたり」

「すごいんやね。俺そっち方面のこと、ぜんぜんわからけん」

「ぜんぜんすごくないよ。単純作業に毛が生えたようなもん。今どき中学生でもちょっと慣れればできるようなことだし。私たちIT屋の作業員なんて、『デジタル土方』とか『IT土方』とか言われてるくらいだしね」

 車通りのない交差点を曲がって、視界の先に目的地であるコンビニの看板が見えてきた。

「ゆうちゃんは、今どうしてるの?」

 雄一郎は高校卒業後、県庁所在地の○○市にある調理師専門学校に進学したことを美咲は思い出した。

「ああ、俺、今失業者なんよ。今日もこれから職安に行くとこじゃったんじゃ」

「あら、そうなの?」

「学校卒業した後、○○市の高級料亭に修行のつもりで就職したんじゃけどね」

「高級料亭って?」

「知っとるかな、『たむら』っていうところ。『た』は田んぼの田で、『むら』は平仮名の」

 美咲もその「田むら」という名前は聞いたことがあった。県内で最も有名な料亭で、地元の政治家や企業経営者が会員となっていて、よそから来た賓客をもてなすときにも選ばれる料亭だった。もちろん美咲は田むらに行ったことはない。

 雄一郎は話を続ける。

「高級料亭って、給料めちゃくちゃ安いんじゃ。夜は店を閉めるのが明けて一時くらいで、そっから後片付け。ちょっと仮眠を取ると、市場に仕入れに出かけて、家に帰れるのはようやく朝の八時くらい。寝て起きたら、夕方にはもう出勤で、超激務。その割に給料は時給に換算したらギリギリ最低賃金を上回ってるくらいなんよ。まあ、修行させてもらってるみたいなところもあるんじゃけど」

「田むらって、コースの懐石料理だと一人前で五万円は下回らないってうわさ聞いたことあるけど、本当?」

 雄一郎は少し苦笑した。

「うん、本当。材料もいちばんええとこ使っとるから、どうしてもそういう値段になるみたい。それでも、週に三回くらい来る客もおるんよ。いったい何やっとる人かは知らんけど。……ほいで、二十五くらいまで田むらで修行させてもろうたんじゃけど、そっから給料のええ別の店に移ったんじゃけどね」

「辞めっちゃったの?」

「いや、倒産してしもうた。二か月前に」

 美咲は、先ほど自分が消去したウェブサイトの記述を思い出した。飲食店が窮地に陥ってるのは、日本全国どこも同じらしい。

「離婚した後も○○市にずっと住んどったんじゃけど、家賃も掛かるけん仕事が見つかるまではということで、実家に帰ってきたんじゃ。でも、飲食店での仕事はなかなか見つからん。というか、求人がほとんどない。いつ回復するかも、ぜんぜん見通し立たんし」

「そっか、厳しいね。……それじゃ、ゆうちゃん料理は得意なんだね」

「まあ、得意というか、いちおうプロじゃし。洋食はぜんぜんダメやけど」

 美咲は大学生になって以降、長く一人暮らしをしていたが、料理はほとんどできない。最初は気合を入れて、調味料一式を揃えて見よう見真似でいろいろやってみたのだが、肉を焼いても魚を煮ても満足いくものは作れず、そして余った材料を冷蔵庫で腐らせるだけだった。ほとほと自分は料理をするということに向いてないと理解するまでに、三か月を要しなかった。使い切れなかったみりんや三温糖や出汁昆布などの調味料や材料は、結局全部捨てた。以来、インスタントラーメンと朝食用の目玉焼き以外は、何も作ったことがない。

「じゃあゆうちゃん、もし仕事見つからなかったら、私が養ってあげようか?」美咲は冗談めかして言った。

「いやあ、さすがにそうはいかん。やっぱりいつかは、俺も自分の店を持ちたいし」雄一郎は苦笑しながら言った。

 車はコンビニの駐車場に入った。地方のコンビニは、店舗の床面積よりもはるかに広大な駐車場を有している。

「ありがとうね」そう言って美咲は下車した。

「あ、みっちゃん。もしどっか行くとこがあったら、いつでも俺が足になっちゃるけん。遠慮せずに言ってきて。うちに電話してくれたらええけん。どうせ俺もすることないし。うちの電話番号、知っとるじゃろ?」

「えっと、昔と番号変わってないんだよね。うんわかった。何かあったときはよろしく」

 美咲はドアを閉めた。

 軽自動車は左に曲がりながらバックして、するりと駐車場を抜けて行った。美咲はそれに向かって軽く手を振った。

 第二新光集落には、ほかにも同級生が何人かいたが、ほとんどが親元を離れて東京や大阪や福岡などの大都市か、県庁所在地の○○市にいる。進学を機に故郷を出て、そのまま帰ってくることはほとんどない。盆や正月にだけ、都会の人間の顔を装って帰省する。

 政府から企業へリモートワークが強く推奨されるようになり、地方移住や故郷に帰ることを選ぶ人間はけっこう多いようで、美咲もその一人なのだが、はたしてこれが定着するのだろうか。それとも、嵐が過ぎ去ればまた都市に吸い寄せられるように戻ることになるのだろうか。根拠はあまりないが、美咲は後者のような気がしている。

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