千人の指さす所

台上ありん

第一話

1

 ホールスタッフ募集<BR>

 10:00~23:30で3時間以上勤務できる方<BR>

 土日勤務できる方歓迎、経験年齢不問<BR>

 時給1200円(ただし22時以降は1440円)<BR>

 交通費別途支給、ユニフォーム貸与<BR><BR>


 アットホームな職場です。私たちと一緒に働きませんか?<BR>



 美咲はディスプレイに表示されたその記述を、マウスポインタでなぞって削除した。そして、「ただいま募集しておりません」と打ち込んで、ファイルを保存した。

 今年の四月以降、飲食業や観光業は想像を絶する不況に見舞われた。その破壊力は、一瞬で全てを薙ぎ倒して粉微塵にする竜巻のようでありながら、いつまで経っても終わらず延焼し続ける火事のようでもある。

 美咲は会社からの指示を受けて、クライアントのウェブサイトをメンテナンスする作業をしている。

 クライアントは中小のBtoC事業、つまり小売店や飲食店などが多い。

 ウェブサイトから求人募集の内容を削除する指示が、毎日のようにやってくる。そして、あるいはウェブサイトそのものの削除の指示もある。

 お店が閉店または倒産したのだろう。

 作業自体は十秒も要さない単純なものだが、誰かもしくは何かの終わりを告げる作業は、あまり気分の良いものではなかった。

 ノートパソコンのキーボードから手を離し、コーヒーを飲んだ。マグカップのなかですっかりぬるくなったコーヒーは、舌の根に微かな酸味を残す。

 さて続きをやろうと思ったところで、家の一階からインターホンが鳴る音が聞こえてきた。

 美咲は部屋を出て、

「はーい」と言いながら階段を下りた。

 玄関の三和土に出て、母のサンダルに足を突っ込みドアを開いた。

「回覧板です」と、そこには六十代の女が立っていた。

 隣家の主婦の大黒おおぐろだ。

「あ、どうも」回覧板を受け取りながら美咲は言った。

 大黒家には美咲より四歳年下の幸子がいて、子供のころは一緒に遊んだり、大黒宅に呼ばれてお菓子をごちそうになったりすることもあったが、小学校高学年くらいになると四歳差という年齢差がずいぶんと大きく感じるようになったため、疎遠になってしまった。

 ちなみに幸子は、今は県北のほうで専業主婦をしているらしい。すでに子供も二人いるようだ。

「もしかして美咲ちゃん、お仕事中じゃった?」

「ええ、まあ」

「お邪魔してごめんね。お母さんはまだお仕事やね?」

「はい」

「そう、じゃあお母さんにもよろしく伝えといてえね」

 そう言って大黒は去って行った。

 緑色の大型バインダーの形をしている回覧板のおもてには、「第二新光集落回覧板 五班」とプリントしてある。それを開くと、そこには次のようなことが書いてあるA4の紙がバインダーに挟まれていた。


***


九月五日

自治会長よりお知らせ


①九月二十三日に予定していた公民館での敬老会は、新型ウイルス流行のために中止になりました。


②本年十月より燃やせるゴミの収集が月・木から月・金に変更される予定です。お気を付けください。収集ゴミの分別にご協力をお願いします。


③すでにお知らせしているとおり、地区別運動会は来年に延期されております。具体的な日時は他の自治会と協議し、決まり次第お知らせします。


④感染症予防のため、手洗いやマスクの着用、三密の回避に引き続きご協力ください。


⑤……


***


 そこまで読むと、美咲は回覧板から目を離した。

 読むまでもない。その文書を作成して印刷したのは美咲なのだから、内容は全て承知している。

 ふつう、地域の自治会や町内会というものは、「○○町自治会」や「○○町町内会」とその地域の住所や町名が冠に付いた名称になっているものだが、美咲の実家があるこの地域は、「第二新光集落自治会」という名称になっている。ちなみに「新光町」という住所はこの市内にはない。

 三十五年前に市と大手建設会社が共同で山のふもとを開発し、宅地造成して戸建て用敷地として売り出した。造成された区画は大きく二分して売り出され、不動産業者がそのひとつを第一新光集落、もうひとつを第二新光集落と仮称として名乗ったものが、今でも引き続き使われている。

 自治会は、トップである自治会長と二名の副会長、そして渉外担当、防犯担当、広報担当、会計担当、書記担当の役員、合計八名で構成されている。

 また、合計八つあるブロックにそれぞれ一名ずつ、連絡役の班長が置かれている。ちなみに各ブロックは十五戸から二十戸の家で構成されており、第二新光集落は空き家になっている家を除いて、合計百四十六世帯で構成されている。

 毎月、第四水曜日の夕方から、集会所で定期の自治会会議が開催され、役員及び班長は特段の事情がない限りは参加しなければならない。

 役員班長の選任方法はくじ引きだが、くじに当たって役員または班長を一年務めれば、その後五年は役員や班長就任を免除されることになっている。

 もちろん、進んで役員や班長をやりたいなどと思っている住人は皆無で、誰もがこのくじに外れることを心から願っていた。当たるにしても、役員が欠けたときのバックアップ要員でほとんど仕事のない副会長になることを期待した。

 今年度四月からのくじ引きで運悪く美咲の母親の敏子が、書記に当たってしまったのだ。

 書記の主な仕事は、役員班長会議での内容をまとめ、回覧板で住人に報知すべき情報があれば、その文書を作成して広報担当役員まで届ける、というものだった。広報担当役員は、その文書を回覧板に挟んで各班長まで届け、そして班長から順番に各班を構成する家庭へ回覧するということになっている。


 美咲は紙をめくっていちばん後ろに挟まっている回覧表を見た。

 そしてボールペンを手に取り、スラッシュの区切られた小さい枠のなかに今日の日付である「9」と「15」を記入して、そのすぐ下の枠に、「古瀬」と書き込んだ。

 回覧表を見ると、向こう隣りの鈴木家の日付が九月十四日になっていたので、回覧板は鈴木家か大黒家で一泊したのだろう。署名をする欄は、フルネームを書いているものもあれば、苗字をカタカナで書いてあるもの、枠を左右にはみ出しながらシャチハタ印鑑を押してあるものなど、いろいろある。

 美咲はさっそく隣の加藤家に回覧板を持って行こうと思ったが、昼過ぎのこの時間帯は留守にしていることが多い。靴箱の上に、無造作に回覧板を置いた。

 部屋に戻ると、スクリーンセイバーが動いている画面を見て、ノートパソコンのすぐそばに置いてあったマルボロメンソールの箱の口を開く。空になっている中身を見て、一時間ほど前に吸ったのが最後の一本だったことを思い出した。

 キーボードのエンターキーを叩いてスクリーンセイバーを解除し、画面の時刻を確認すると、午後三時四十八分だった。

 美咲は立ち上がって、白のTシャツを脱いで長袖のシャツに着替えた。そしてツバの長いキャップをかぶる。

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