4
九月二十二日、第四水曜日の午後四時。
美咲はノートパソコンの入ったバッグを手に持って、敏子と一緒に第二新光集落の集会所に入った。
横開きのドアを開けて、靴を脱いで靴箱に入れる。そして木製枠のガラス戸を開けると、二十畳ほどの広い空間のなかに一人の男が足の低い長机の向こう側に、床にじかに座っていた。
「会長さん、こんにちは。もう来とったんじゃね」と敏子が言った。
「古瀬さん、こんにちは。さっき冷房のスイッチ入れたばっかりじゃけん、まだ涼しくなってないんじゃけど」
たしかに集会所の大部屋は、冷房が効き始めたときの独特の粘り気のある空気に満ちていた。
自治会長を務める
五島は必ず、役員班長会議に一番にやってきている。そして、長机をセットして窓を開けて換気をしておく、あるいは空調を起動させるということをやっている。
「どうも、いつもお疲れ様です」と敏子が五島をねぎらった。
「いやいや、これも会長の仕事じゃけん」
美咲はバッグからノートパソコンと充電コードを取り出して、
「すみません、自治会長さん。パソコンの電源、使わせてもらっていいですか?」と言った。
「ああ、どうぞどうぞ。ご自由に」
自治会長はコンセントのある集会所の隅を指さした。
自治会役員であるのは敏子で、美咲には役員班長会議に出席する義務はないのだが、書記の仕事である回覧板の文書を実際に作成するのは美咲の役割になっている。
六月までの役員班長会議は敏子だけが出席して、文書にすべき内容と敏子が手書きのメモを作って持ち帰り、それを見ながら美咲が文書を作成するということをやっていたのだが、七月の会議では敏子がメモを取っていたものの具体的な数字を間違ってメモしており、あらためて文書を作成しなおさなければならなくなるということがあったため、以降は美咲も一緒に出席して、その場で文書を作成するようになった。
コンセントに電源を指してノートパソコンのスイッチを入れると、出入口の扉が横に開かれた。
広報担当役員の島本拓也、そして一班班長の佐伯美子。島本は六十二歳で、佐伯は五十八歳。
「こんにちは」と言いながら島本が頭を下げた。
三十五年前に第二新光集落の宅地が売り出された最初から引き続きここに家を建てて住んでいる人は必然的に家と共に歳を取っているので、すでに六十代になっている人が多く、それに伴って役員や班長もその年代が多い。
佐伯は手に持っていた回覧板を、自治会長が座っている長机の上に置いた。島本は回覧板から、役目を終えた文書を取り除いく。
その後も続々と人が集まってきて、回収された回覧板が机の上に積み上がっていく。
そして、一班班長、佐伯美子、五十七歳。二班班長、高崎達子、六十六歳。三班班長、金田一基、五十五歳。四班班長、金田恵子、六十歳。五班班長、水上孝二、四十二歳。六班班長、酒本サチ子、三十八歳。七班班長、芝山明美、五十九歳。八班班長、福井優里亜、二十二歳。
全ての役員と班長が集まった。
同じ集落に住んでいるので、顔を見たことある人ばかりなのだが、やはり何人かは顔と名前と集落の住んでいる場所とが一致しない人もいる。
六班班長の酒本サチ子は、実家を改装・増築して美容院を経営しており、美咲が実家に帰ってから二回、その美容院に髪の毛を切ってもらいに行った。酒本ももちろんこの集落で子供時代を過ごし、理容の専門学校に通ったのちにこちらに帰ってきたようだった。美咲より五歳も年上だったため、子供のころに交流を持ったことは一度もなかったが。
最初に髪を切ってもらいに行ったとき、椅子に座った美咲の背中を軽くマッサージしてもらった。
「ずいぶん凝ってますねえ」と酒本は言った。
「ずっと家でパソコン打ってますので」美咲が答えると、
「ああ、やっぱり。キーボード打つ人と打たない人とでは、明確に差が出るんですよ」
先月の月曜日の夕方、散歩に出てていると酒本と偶然ばったりと道端であって少し立ち話をしたのだが、いつの間にやら酒本は美咲のことを「みさきちゃん」と呼ぶようになった。もちろん悪い気はしない。
ほかの役員班長は、主婦か、会社勤めをしているあるいはしていた人ばかりなのだが、三班班長の金田一基は、二階が居宅になっている店舗で、小さな居酒屋を経営している。ちなみに四班班長の金田恵子は、一基の親戚に当たるらしく、班は違うもののすぐ近くに住んでいる。
自治会長の五島が立ち上がった。
「えー、お忙しい中お集まりいただき、まことに恐縮です。それでは、九月の役員班長会議を開始いたします。よろしくお願いします」そう言って頭を下げた。
続けて言う。
「まず、役員のほうからお知らせがございます。どうやら、市のゴミ処理場のほうから苦情が来ているようでございます。詳しくは衛生担当役員の玉木さんのほうからお伝えします」
五島は玉木のほうを向いて目で合図をした。玉木が立ち上がって、入れ替わるように五島が座った。
「えー、衛生担当の玉木です。よろしくお願いします。先日、市のゴミ処理場のクリーンセンターから連絡がありました。第一、第二新光集落のゴミを収集している収集車のなかから、きちんと分別されていないゴミがたくさん含まれていると……。それで自治会経由で分別の徹底を周知するようにと言われました。特に資源ゴミである空き缶やペットボトルが、燃やせるゴミや燃やせないゴミに混ざっていることが多いそうです」
「それ、本当にうちの地域から出されたゴミなんでしょうか?」四班班長の金田恵子が言った。
「私もそれを疑問に思ったんですが、『新光集落を含む収集車から』ということなんで、はっきりしたことではないようです。同じ収集車が回ってるほかの自治会にも、同じような注意が出てるみたなんで、うちも一応、注意喚起をしておく必要があると思うて」
「なるほどねえ」と誰かが言った。
美咲は聞きながら、起動させていたワープロソフトに「ゴミ、分別、注意喚起」と書いた。母の敏子も、いちおう手元の紙に何か記入している。
「何年か前に、そういやゴミの分別でけっこう大変なことになったことがありましたよね」防犯担当の佐藤留美子が言った。
それを聞いて、一同が肯いている。
「何があったんですか?」最年少の福井が言った。
二十二歳の福井はショートカットの髪型でまだ少女のあどけなさを残していて、六十代の人間が多い役員班長のなかにあって、鶏群の一鶴のように目立っている。
会計担当の東がそれに答える。
「もう六年くらい前になるんじゃろか。ゴミの分別の仕方がそれまでと変わって、まあより細かく分別せにゃあいかんようになったんじゃけど、やっぱり前と同じように分別してしまう人がようけおったんじゃ。きちんと分別されてないゴミ袋は、収集して行ってもらえんけん、その場におきっぱなしになってしまう。で、誰が出したのかはっきりせんゴミはその場で野ざらしになってしもうて、しまいにはそのゴミ袋を当時の班長と役員が開けて、犯人を特定するっちゅうことをしたんじゃ」
ずいぶんと嫌な役回りだな、美咲は聞きながら思った。
「ほいで、コイツが怪しいという人が何人か上がったんじゃが、ゴミのなかに個人情報が入っとるようなもんは入っとらんかったけん、もう本当に住人どうしが相互不信になってしまうようになってのう。結局は、自治会長と副会長が衛生担当役員が、毎朝ゴミ置き場に立って、きちんと分別されとるか監視するようになったんじゃが、もちろん誰も自分とこから出たゴミなんぞ人に見てもらいとうない。役員はまるで汚いものを見るような目で見られるようになって。最終的には、班ごとにこの集会所に集まってもろて、分別の講習会というのをやって、出したゴミ袋には油性マジックで名前を記入することを義務つけて、ようやっと収まったっちゅうことじゃ」
「そんなことがあったんですか」と福井が言った。
「あんころはねえちゃんはまだ学生じゃったろ。本当にもう、ゴミ出しをめぐって住人が相互に監視し合って牽制し合うみたいな状況じゃった」
それを聞いて、衛生担当玉木が挙手をして発言します、という合図を出した。
「あれ以来、六年も経つので、分別をきちんとしよういう意識も薄くなってきたんでしょう。誰だって好き好んでよそのお宅のゴミなんか触りとうないですよ。……まあ、実際分別されてないのはほかの集落のことなのかもしれませんけど、きちんと徹底しておくことに越したことはないので」
「そうですなあ」と自治会長が言った。
「ついでに、衛生担当としてもうひとつ付け加えておきたんですが、ゴミ出しは当日の朝に出すよう、報知してもらいたいんです。五つのゴミ置き場全部でカラスよけネコよけのネットは掛けとりますけど、やっぱり夜中のうちに出されるとどうしてもカラスやらが寄ってきますけん。それと、もう九月ですけどまだ暑いけん、夜中のうちに出されると生ゴミの臭いが出てきてしまうんで」
美咲は「ゴミ出し、朝に」とキーボードを叩いて書いた。
ゴミ置き場は、衛生担当と副会長ふたりが交代で清掃することになっている。美咲もバケツに汲んだ水で、デッキブラシでゴミ置き場をこすっている副会長の姿を見たことがあった。
「ゴミに関して、いろいろ徹底せにゃあいかんみたいですね。またあの、住人どうしで相互監視みたいな事態になることだけは、避けにゃあいかん」七班班長の芝山が言った。
「役員からは、以上です。ほかに、何か連絡事項がある方はいらっしゃいますか?」自治会長が言った。
美咲はキーボードを叩いて、さっそく回覧板の文書を作成していく。
「自治会長よりお知らせ ①市のクリーンセンターより、第二新光集落のゴミ収集車から分別がされていないゴミが多く見られるそうです。分別を徹底するようお願いします。分別方法は、市のホームページ等を確認するか、衛生担当役員までご確認をお願いします」
≪衛生担当役員までご確認≫という部分は美咲が勝手に書いたもので、あとで玉木にそれでいいかどうかを聞いておかなければならない。
ほかに発言をする人はおらず、集会所内には美咲がキーボードを打つ音だけが響いている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます