【白い月の女】
【白い月の女】
一族のおおばば様からはこう言われていたのだ。
「大きなお腹だねぇ。二つ子かもしれないね、楽しみにしていなさい。ただしその分、二倍用心するんだ、無理は禁物だよ。わかったかい『白い月の女』や」
まだあどけなさが残る若い妊婦はコクリとうなづいた。
彼女はただ、新しい真白な綿で新しい命を優しくくるんで抱いて暖めてあげたかった。
革の端切れを縫い合わせて作った少し大きめの袋に、ひとつの花がはじけて5つに別れた綿の塊のうち3つだけを摘んでいく。
残りは精霊のものとして残しておけば、また来年分けてもらえる。
袋半分ほどたまったところで陣痛に襲われた。
これまで経験したことのない痛みの中で彼女は必死に考えた。
(集落までは帰れない。ここで生まれてしまったら空や大地の兄弟達の餌食になってしまう。どこかに隠れて…)
痛みでうずくまった鼻先に微かに卵の腐ったような臭いが地面を伝ってきた。この臭いは知っている。
『大地の熱い息』一族のおおおば様に言われて村の娘たちと一緒に『黄色い熱の花』を取りに行ったことがあった。
熱い水の涌き出る泉の回り白い煙に包まれるように黄色の石の花が咲いていた。
卵の腐ったような匂いのする黄色いそれを粉にしてバッファローの脂と練り合わせると傷薬になるのだ。
ただし時々噴き上げるその煙は吸ってはいけない毒なので臭いに敏感な蛇はもちろん鷹や狼など獣も寄り付かない。
目に入る脂汗で歪んだ視線の先にその洞穴があった。
獣のように四つ足で痛みの波間を渡るように進んでいく。
引きずられた袋からこぼれ落ちる綿花が小さな兎の足跡のようにぽつりぽつりと白く洞穴の中まで続いていった。
暗闇の中でこれまでかわいい少女だった紅い頬が燃えるような熱を帯びた。
(産まれそう)
短くなる痛みの間隔がそう教えている。
顔を上げると洞窟の壁面が明るい。
天井に穴があるのかと思いそこまで息を絞り出し絞り出し進んでみると不思議な色の小さな光る泉があった。
【聖なる泉】部族のものなら子供の頃から聞かされて誰でも知っている。
『願いをなんでも叶えてくれる【聖なる泉】』
迷わず小さな泉の傍に横たわった。
ウアアアアッツ!!!
強い引き波に攫われるようにその赤子は産まれた。力無く首があらぬ方向に垂れた、死産だった。涙と汗で濡れた手で我が子を取り上げる。女の子だった。どうにかちいさなちいさな口から息を入れてみたがどうしようもなかった。(もうこの肉体に魂はない)冷たくなっていくままにしばらく抱き抱えていた。
「…送ってあげなきゃね」
出血の続く身体を無理やり起こして光る泉の中でこの子の短い人生の最初で最後の沐浴をした。
「またね」
輝く水の中に静かに沈んでゆく小さな体を滲む眼で見送る内に、やはり捕まえようかと伸ばしかけた震える右手が止まった。
「もうひとり!?」
再び息を奪うあの激痛が襲ってきた。
今度は陣痛に合わせて、しっかりといきむ事ができた。
未だ若い骨盤は今度こそはと大きく開きその男児を頭からヌーーーンと一気に外界へ産み出した。
ンァアアーィァアアアアアンァアァアァアン…………
母はその身から血塊を絞り出すように上半身を屈めると子を優しく取り上げ胸に抱いた。髪にさしていた魔除けの石のついた髪飾りを、片手で力任せに絡んだ髪の毛ごと引きちぎって外し、銀のそれをナイフの代わりに臍の緒をブチブチッと切り離した。
『私の願い…………………』
(わたし…の……..)
母の衣と摘みたての綿花に包まれた元気な男の子は、誰に教えられたともなく温かい初乳を身体一杯の力で強く吸い続けたが、出血で朦朧とし、すでに無意識の中で必死に抱き抱えていた若い母の右手が、やがてだらんと地面に垂れた。
続いて左手が、光る泉の中にトポンと静かに沈み、肘を伝い落ちた臍帯血は輝く水面に円く赤く咲いた。
同じ時【聖なる館】の【聖なる泉】ではまさに生まれ落ちようとする男の子の手を、先に生まれて泉に沈んだはずの女の子が光る身体で現れて、泉の中から伸ばした手を男の子と手を繋いで、慌てている3人の大人の目に触れる事なく、そっと泉の中に消えて行った。
先に冷たくなったのは間違いなく母親の方だった。
子の重みで沈み込んだ肺の上には、すでに冷えて泣くことも出来なくなった小さな体が、最期に微かにヒュウと息をしてそれきり動かなくなった。
その時、泉から光る身体の男の子が同じく光る身体の女の子に連れられて泉から顔を出した。
冷たい母親の腕を伝って胸に上に登ろうとするが立ち泳ぎの様に腰以上上には出れない。
光る女の子は男の子に一つうなずいて見せるとその足元に潜り込んで小さな身体いっぱい押し上げた。
男の子の光る身体はよじ登って衣に包まれたもう1人の男の子と重なると、そのまま溶け込む様に一つになった。
すると薄紫色だった肌が暖かな光をまとった桜色に変わって、スースーと寝息を立て始めた。
そして動かないはずの母親の両腕がゆっくりと優しくその子供を包み込んだ。
その様子を静かに見届けると、女の子の身体は輝く泉と同化して見えなくなった。
「…陽が赤く染まる頃、俺が狩から帰ると私達の家は空だった。(綿を積みに行かなくっちゃね)妻がそう言っていたのを思い出した。村の女達に聞くと(日が一番上にある時までに帰る)と言って、一人で玉子崖の方へ向かって行ったらしい。
『大地の熱い息』に着くと、綿花が白く月無夜の中でも大地の星のように光って見えた。
たどった見慣れた細い足跡は不揃いな2本線に変わって、あの洞穴へと続いていた。
持っていた松明に火をつけて中へ入ると奥に澄んだ泉があり側に妻がいた。
地面に広がる大きな黒い染みの中で動きもせず男の子を胸に抱いていた。
それがお前だ。アロ。お前の母は未だにあの泉のそばにいるよ。」
「じゃあ、この髪飾りは?!」
【聖なる泉】を離れる時に咄嗟につかんできたそれを見せた。
「ああ。これは母さんにあげたものだ。お前が持っているといい。母さんがきっと守ってくれるだろう。さあ、時間がない。よく聞け。ここから太陽の沈む方に進んで三つ大きな谷が合流するところの真ん中を3日ほど進むと砂の色が変わる場所がある。そこの集落の長老を訪ねなさい。そこに偉大な【聖なる泉】があると言われている。【龍】の力の使い方を教えてくれるだろう。」
「父さんは?一緒に行こう!」
「父さんは行けない。」
「なんで?戦うの?それなら僕も一緒に戦うよ!」
「もう手遅れだ。一族は根絶やしにされるだろう。父さんは奴らがいなくなるまで隠れて、みんなを埋葬してやらねばならない。仲間を悪い精霊にはしたくないからな。それが終わったらお前を追いかける。急ぎ先に行って向こうの集落にも危険が迫っていることを伝えてくれ。」
「父さん……………わかった!」
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