シーラカンスの見る夢は

明日葉叶

第1話 scene1海底

 くぐもった音が聞こえる。

 水の中にいるかのような。

 もっと深い、海の底にいる様な。誰もいない、誰も僕を否定しない楽園に。


「藤堂! なんだこの袋の開け方はっ! こんな開け方じゃ中身がこぼれてしま方が多いだろうが!」

「す、すいません。忙しかったものでつい……」

「言い訳をするな!」

 片栗粉の入った袋をいつもより数ミリ大きく開けてしまった。そもそも片栗粉を事務所に取りに行ったという事だけでもその時は奇跡だったのに……。

 僕はこの中華料理屋で働く今年で32歳になるつまらない人間。なにも築くこともなくただ生きてきた肉の塊。学生時代の友人たちの人生というゲームにおいての快進撃を目の前に、ここ最近そう認識してしまった。 

 何も変われない、何も得られない自分に。

 何も変われない代わりに、何も変わらない現実が僕を待っている。毎朝そんなことを考えながら、このくだらない店に出勤している。


 夢ならある。

 作家になるなんて気が狂ているか、社会の息苦しさを知らない子供のたわごとみたいな途方もない幻に僕はそう名前を付けている。

 あきらめなければ夢は叶うなんて僕はもう何年自分に言い聞かせてきたのだろうか。あきらめそうな心をどうにか立て直して、誰もいない真っ白な画面に向かい自分だけの物語を紡いでいる。誰も見ることのない、見られることのない僕だけの物語を。

 水の音が聞こえる。くぐもる音が。いずれ訪れるかもしれないその日まで、深い深い海の底に身を潜めて息を殺せと。変われないことで価値を見出してもらえるかもしれないその日まで。


 今日もまた僕は海底に生きよう。

 たとえ誰に否定されようとも、未来に希望が見えない深い海の底でも。

 明日、もし願いが叶うとして。

 明日、もし夢が夢じゃなくなるとして。

 その日僕は笑っているだろうか。僕はまだ海の底で遊んでいよう。その日まで。

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シーラカンスの見る夢は 明日葉叶 @o-cean

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