第8話 うちの猫はかわいい

 世の中には二種類の猫がいる。

 獲物を狩る猫と、出された餌に満足する猫だ。


「にゃあ」


 うちのかわいい猫は、完全に後者である。

 小さい頃に拾ってきた猫だから、もしかしたら当時は獲物を狩っていたのかもしれない。だが飼い猫となった今は、かわいい声で餌をくれ、餌をくれと鳴く。


「はいはい。餌ね」

「にゃあ」

「よしよし」


 今は一人暮らしなので、私は心置きなく猫に話しかける。ペット可のマンションで本当に良かった。

 うちの猫、柄はキジトラで名前はキジーという。三歳の立派な男の子だ。

 たまに元気に走り回ることもあるけれど、たいてい寝ている。

 寝子ねことはよく言ったものである。


 なのに私が仕事から帰るときにはいつも、玄関で出迎えてくれる。

 猫というのはとても耳がいい生き物らしい。誰の足音かを聞き分けて、まだ遠くにいるうちからドアの前に待機しているんだって。

 なんて可愛らしい生き物!

 仕事から疲れて帰っても、キジーの顔を見れば満たされる。

「んー、好き好き!」

 抱き上げて鼻にキスをすればキジーもぐいぐいと鼻を押し付けてくる。

 よし。これで明日も頑張れる。


 そんな可愛いキジーだが、少し気になる癖が一つある。

 ときどき誰もいない壁に向かって、じっと何かを見つめているのだ。それがいつも同じ場所で、同じ格好で。鳴くわけでもなく、少しうつむき加減で壁のほうを見つめて座っている。

 帰ってくる私を待っている時のような姿勢。

 まるで壁の向こうから誰かが来るのを待っているような……。


 いやいや、まさか。


 キッチン奥の壁に窓はない。壁と床の間に少しだけ隙間があるから、そこから何か匂いがするのかもしれない。

 隣の人がキッチンで魚焼いてるのかな?

 壁の向こうに住んでるのは、たしか大学生の男の子だったはず。

 魚焼くかなあ。料理なんかしそうにない人に見えるけど。


 私も実は料理はあまり得意じゃない。今は食べ物なんていくらでも買って帰れるし、一人暮らしで凝った料理を作るメリットもない。たまーに気が向いて何か作るけど、かえって外食より高くついたりする。

 だから我が家では、キジーのほうが私よりも長い時間キッチンを占領しているのだ。


 今日も私は買って帰ったお弁当を食べて、後片付けもせずにソファーでダラダラとテレビを見て過ごしていた。

 ちょっと喉が渇いてジュースが飲みたくなったので冷蔵庫のところへ行くと、またキジーがちょこんと座ってるのが見えた。


「キジー、いつもそこで誰の帰りを待ってるのかな」


 答えはない。まあ猫だから。


「私はここにいますよー。一緒にテレビを見ませんかー」


 普段はそう話しかけるとしっぽをゆらゆらさせて返事をしてくれるのだが、それもない。

 もう少し相手をしてくれてもいいんじゃないのか。いくら猫とはいえ、返事の一つくらいしてもいいだろう。

 そう訴えようと思った時、キジーが動いた。

 体を伏せ、お尻を高く上げる。攻撃態勢だ。

 目の前には何もない。

 いや、違うっ!

 今なら私にもわかる。

 壁と床の間に空いたほんの少しの隙間。その穴から邪悪な気配が感じられる。


 カサカサッ。


 邪気を結集したような黒い物体が穴の向こうからこの部屋へと入ろうとしていた。

 キジーがお尻をピクピクと振る。そして目にもとまらぬ速さで前足を出した。

 邪悪な物体はキジーの前足にしっかりと押さえつけられ、その姿があらわになる。


 ああ。私の目は現実を認識するには少し疲れすぎているようだ。

 黒い邪悪な物体が何かは分からない。

 分かりたくもない。


 ――おそらく霊的な何かよ。

 そうであってほしい。


 その邪悪な物体がまさかキジーの口の中に入ってしまうなど……。

 悪い幻を見せられているに違いない。


 ――疲れているのよ、私。

 そうね、今日はもう寝ましょう。


 布団に潜り込んだ私のところにキジーがやってきた。

 そしていつものように鼻を押し付けてくる。

 私はさりげなくキジーの鼻を左手でガードした。


【了】


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