第7話 リセット
さとるがその穴を見つけたのは本当に偶然だったし、どちらかと言えば悲劇になるはずだった。
さとるの家は高台にあって、比較的新しい住宅街だったが山も近い。
少し歩けば猿が出そうな林があって、さとるはそんな中に分け入るのが好きな子供だ。
六年生の夏休みのある日、さとるは宿題を放り投げていつものように雑草と蔦に覆われた斜面をよじ登った。
遊び慣れた山とはいえ隅々まで知っているわけではない。枯れ葉と細い枝に覆われた地面に大穴が開いているなんて、思ってもいなかった。
あっと思ったときにはもう遅い。そばにあった岩を掴もうとした手は空を切り、体は底知れぬ穴へと落ちていった。
そのあとのことはよく覚えていない。
◇◆◇
暗い暗い夢の中を彷徨っていたさとるは、母の呼び声で目を覚ました。
はっとして起き上がって体を触ってみるも、怪我をした様子はなく痛いところもない。
誰が助けてくれたんだろう?母はさぞ怒っているだろうな。これから聞かなければならない説教を思うと、リビングに向かう足が重い。
そんなさとるに母は思いがけないことを言った。
「今日から夏休みだからって、いつまでも寝てないの。さっさと起きて宿題をしなさい」
「えっ?夏休みはもう一週間も前から……」
「何寝ぼけたこと言ってんの。ほら見てみなさい。宿題一ページも済んでないでしょう」
言われてみれば、やったはずのノートは白紙のままだった。
テレビでも今日から夏休みだとアナウンサーが喋っている。
さとるは腑に落ちないながらも、怒られなかったからいいかと思うことにした。
一度解いた宿題は良いペースで捗って、その年の夏休みは母に褒められた。
それともう一つ、変わったことがある。毎日のように遊びに行っていた山の中に、さとるは入らなくなった。
◇◆◇
それから十五年、楽しい子供時代はあっという間に過ぎ去るものだ。大人になったさとるは普通に働いて普通に家に帰る普通の若者だった。
三日前に大失敗するまでは。
さとるは顧客から預かった大切な書類を紛失してしまったのだ。
ただ失くしただけでも大変なのに、いつのまにか落としたらしいその書類をあろうことか、拾った誰かがインターネットで公開したのが分かった。
顧客の仕事は小さくない打撃を受け、さとるは針の筵な日を過ごす。名前や住所が晒され、どこへ行っても誰かに見られている気がする。たったの三日でさとるの精神はボロボロに疲れていた。
誰にも見つからないところへ行きたい。
ふと思い出したのが、子供の時に落ちた穴だった。
あの時はなぜかいつの間にか家で寝ていた。もしかしたらあそこにもう一度落ちれば、小学生の頃に戻れるんじゃないだろうか。
いや、戻れなくてもいい。いっそ誰も知らない山の中で死んでしまえたなら。
誰にも見つからず、このまま消えてしまいたい。
そう願った。
山は開発されるでもなく、懐かしい風景のままで実家の近くにあった。
身一つで戻ってきたさとるは実家に寄ることなく山に入る。そしてあの時の穴は側にあった岩を目印にすぐに見つけることができた。
あの時と同じように入り口を隠していた落ち葉を取り除き、穴を覗く。
そこは真っ暗で何も見えない。
さとるは目を閉じて、足から穴の中に飛び込んだ。
◇◆◇
結果だけ言おう。
さとるは実家から遠く離れた自分のアパートで目覚めた。
日付は穴に飛び込んだ日の一週間前。ちょうど顧客から書類を預かった日だ。
書類は今、間違いなく手元にある。提出するまでの間ずっと、失くさないように細心の注意を払って持ち歩いた。
こうして、死ぬほどの悩みが一つリセットされた。
それから時々さとるはあの穴のことを思う。
寝坊して遅刻したときも、彼女にあげるプレゼントが気に入ってもらえなかったときも、商談が失敗したときも。
リセットすればいいのでは?
そうしなかったのは、次も無事という確信がなかったからだ。
穴は底が見えないほど深く、飛び込むほどの勇気がでなかった。
だからさとるはずっと普通に生活していた。
◇◆◇
さとるはそれからも普通に生きて、きっともう一度リセットする勇気も出ないままその生涯を終えるんだろう。
俺がさとるにその話を聞いたのは、やつが随分酔っぱらった時だった。
「誰かに話したい」という顔をしていた。
俺はそんな話を聞きだすのが得意だから。
五日前、付き合ってた女が死んだ。
本当につまらないケンカだった。ちょっと突き飛ばしたら、柱で頭を打って死んじまった。
夏の死体は腐敗が早い。と言っても俺も比べたことはないけどな。
氷で冷やしてもどんどん溶けて追いつかない。
そんな時に、さとるの話を思い出した。
どうせ逃げなきゃならない。だったらあいつの実家のほうに逃げて、あの穴を試してみてもいいんじゃないのか。
リセットできるなら万々歳だ
さとるの実家も、近くの山もすぐに分かった。だが道もないところを登って目印の岩を見つけるのに二日かかった。そろそろ死体も発見されてニュースになってるかもしれない。
もう俺に帰る場所はない。
そして目の前には穴がある。
さとるが過去をリセットした、深い穴が。
そうだ。一週間前に戻ったら、すぐに女と別れよう。
穴を見ながら心に決めた。
ちらりと頭の片隅に浮かぶさとるの別れ際のセリフ。
『さっきの話、全部冗談なんだ。笑わないでくれよ』
穴は深くて暗くて底が見えない。
さとるの話が本当だったのか。
信じるのは俺の勝手だろ。
結局俺はここに来た。
震える足を動かす。
やり直すために。
一歩前へ。
【了】
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