第11話 底のない穴から
夫と結婚してから十年目、念願の家を買った。
郊外の住宅地の中古物件でありふれた小さな家だったけれど、自分のものだと思うとやはり嬉しい。
玄関の横には車庫があって、車が一台置ける。普段は私が送り迎えするのに使って、週末は夫の運転でドライブだ。
一階のリビングダイニングには大きなテーブルを買った。ちょっと大きすぎるかなって思ったけど、食べ盛りになった子供たちのためにいつだってテーブルの上はいっぱいで、もっと大きくてもいいくらいだった。
二階には家族それぞれの寝室がある。ベッドと衣装棚を置けばいっぱいになるくらい小さな部屋だけど、やっと子供たちに個室ができた。
引っ越しの慌ただしさは一か月くらい続いた。
子供たちの転校の手続きをして、あっという間に新学期が始まる。すぐに近所に友達ができたのは良かった。毎日の買い物をするスーパーは、肉と魚はあまり品数がなかったけど野菜は安い。隣の家はいつも静かで、一人で住んでるおばあちゃんはめったに外に出てこない。
そしてようやく新しい生活に慣れたころ、庭に丸い穴が開いているのを見つけた。
その穴は、ちょうど野球のボールがすっぽり入るくらいの大きさだった。庭の隅っこの椿の木の根元だ。覗いたけど中は暗くて、すごく深いように見える。
目立たない位置だとはいえ、庭は猫の額ほどしかない。週末のたびに草むしりをしたり花を植えたりしていたのに、今までどうして気が付かなかったんだろう。
モグラか蛇の巣かもしれない。何にしろ、このまま置いておくのも嫌なので埋めてしまうことにした。
園芸用の小さなスコップを使って、周りの土を穴の中に落としていった。けれど土は固くて椿の根が絡んでいる。つまりなかなか思うように掘れない。
仕方ないから園芸用に買っておいた培養土の袋を持ってきた。
袋から土をスコップでひとすくい、穴の中にさらさらと落とした。土は音もせずに穴の中に吸い込まれてく。
もうひとすくい、さらさら。
あとひとすくい、さらさら。
全然埋まる様子がない。
ええい、面倒だ。
ざざっと袋を穴に向けて傾ける。土は面白いように穴の中に吸い込まれていった。
十リットルの土は十分過ぎるくらい多いと思ったのに、一袋全部穴の中に入れてもまだ穴は埋まる様子はない。
だ、だいじょうぶかな……。
これって地下に大きな空洞があるんじゃないかな。もしそうなら家の安全にもかかわる。
お気楽に穴を埋めようとしていたが、作戦変更だ。
まずは深さを測ろう。長い棒のようなものは何かあっただろうか。
探すために家に入りかけたところで思い出した。野菜を育てようと、支柱を買っておいたんだった。
支柱はプラスチックでできた長さ一メートルくらいの棒だ。それをそっと穴の中に差し込む。
何の手ごたえもない。
支柱は手に持っている部分を残して全部穴の中に入ってしまった。まだ底には着かない。けれど土の中に大きな空洞があるというわけでもなさそうだ。支柱で奥のほうを探ろうと思って動かしたけれど、壁に当たってしまう。
それはまるで入口と同じサイズのパイプがまっすぐ地中に伸びてるような、そんなイメージだ。もちろんプラスチックやコンクリートのような人工的なパイプじゃあない。穴の周りは土みたい。でもかなり硬くて支柱でつついてもほとんど削れない。
もちろん目で見たわけじゃなくて支柱越しの手触りだけども。
一メートルくらいの棒じゃ全然だめだ。
試しに少し大きめの石を落としてみた。どのくらいで底に落ちた音がするか測ればだいたいの深さは分かるだろう。
ミカンくらいの大きさの石を拾ってきて、穴に落とした。
ひゅーっという落下音のあとに地面にぶつかる音が、しない。
もう一個落としてみた。
やっぱり音はしない。
さてどうしようと考えて一ついいものを思い出した。
週末に釣りに行った時の竿がある。釣り糸って結構長いから、さすがに底まで届くんじゃないだろうか。
仕掛けを付けたらルアーの重さで糸が出るだろう。それくらいはここ最近何度か言った釣りで覚えた。
そして私は庭で釣り糸を垂れる。
人に見られたくない姿だ。
リールから糸がするすると繰り出されていく。これを巻き戻すのを考えると、ちょっと失敗したかなって思う。これって五十メートル以上じゃないかな?
もうそろそろ底に着いてくれたら嬉しいんだけれど。
そんなことを思った時だった。
急に竿がグイっと曲がって、糸が強く地中に引っ張られた。
こ、これはなんかまずい。引き上げなければ。
慌ててハンドルを押さえて、糸を巻き取る。
ぐいぐいと引っぱられる糸に大物の予感を感じながら、自分がなぜ庭で釣りをしているのかと頭の隅で疑問に思う。
だがそんな疑問は引き上げた糸の先についているものを見て頭から吹っ飛んだ。
魚が釣れた!
庭で!
しかも庭の土の上でぴちぴちと撥ねているのは、見たこともない魚だった。穴と同じくらいの極太サイズのウナギのような頭には口はあるが目らしきものは見当たらない。そして首から下には白と黒の縞模様。さらには下半身がタコの足みたいに何本にも分かれてる。えーっと、全部で九本。タコなのかイカなのか。
どうやらうちの庭の地下に地底湖があるらしい。しかも外界から閉ざされて独自進化を遂げた魚が住んでいるんだろう。
仕掛けが水する音は聞こえなかったが、深すぎるからかもしれない。
さてどうしよう。
仕事から帰ってきた夫に相談してみた。
もう薄暗くなっていたけれど庭に出て、椿の根元をスマホの明かりで照らす。
穴がない。
なぜ?
私が今日ここで釣りをしたはずの穴がない。
夫は笑いながら、なかなか面白い話だったと言って家に入った。
ちょっとイラっとした。
穴はたしかに在ったのだ。そう言いたかったが、残念ながら証明するものがない。
あまりに焦っていた私は変な魚の写真も撮ってなかったし、魚自体も今はもうない。
翌日、家族を見送ってから私も仕事に出かけた。昼過ぎまでのパートなので三時には買い物を済ませて家に帰る。
そして庭に出ると、昨日穴があった椿の根元を確認したらやっぱり穴がある。
けれど帰宅した夫に見せようとしたら穴は消えているのだ。
「という訳なのよ」
「ふうん。変わった話だねー。で今、穴はあるの? ないの?」
「人に見せようとしたら消えるんだよ。由美さんもちょっと見てみる?」
「見る見る」
由美さんはママ友で、時々こうして平日の休みに遊びに来てくれる。
今日は我が家で持ち寄りランチをしている。お昼ごはんは我が家の昨日の残りという残念な品だったけど、今はデザートタイムで由美さんが持ってきてくれた可愛いケーキを頂いている。
「じゃあこれ食べ終わってからね。多分消えてると思うけど」
「嘘ついてる感じじゃないけど、不思議な話よねえ」
「嘘じゃないけど証拠もないからなー」
世の中には不思議なことがいっぱいある。
私にしか見えない穴とか、その穴から釣り上げられた未知の魚とか。
どんなに理由を考えても私にはちっとも分からない。
「その変な魚みたいなの、なんで写真撮らなかったの?」
「思いつかなかった」
「珍しいのに! 気持ち悪そうだけどね」
「新鮮なうちに捌かないとって思っちゃって」
次にもし変なのが釣れたら、忘れずに撮ろう。穴も写真に撮ってみるか。写ってない可能性もあるけど、その時はそういうものだと思うしかない。
「いやいや、待って。そんな得体のしれないもの、食べないでしょ」
「でも美味しかったよ」
「……食べたんだ」
「由美さんも美味しいって言ったじゃない。さっきお昼ご飯食べたときに」
「お昼って、握り寿司と煮魚。……えっ?」
「おいしいって」
「えっ……」
由美さんにも穴は見えなかった。
でも謎の魚は美味しかったようだ。
世の中には不思議なことがある。
知らんけど。
【了】
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