第23話 穴の開いた木

 恋人のイグナシオが戦地に赴くと知った時、マリベルが一番に思い出したのは村はずれの小屋に住む老婆だった。

 隣国との戦争は日を追うごとに激しさを増している。最前線に送られるであろうイグナシオが無事に戻ってくる保証などどこにもなかった。


 老婆はずっとそこにいた。けれどいつから村にいたのか、何歳なのか、そして名前さえも誰も知らない。マリベルが知っているのは、母が生まれるよりもずっと前から、村はずれの小屋でまじないを生業にしているということだ。

 呪いの効果はたいていの場合ささやかなものだったが、それでも村の生活をほんの少し豊かにしてくれる。だから村人はことあるごとに老婆のもとを訪ねては助言を乞うのだった。

 マリベルが小屋の扉をノックすると、すぐに中から老婆が現れた。


「おやまあ、マリベル。久しぶりだねえ」

「婆さま、婆さま、お願いがあります」

「イグナシオのことかね」

「そうなの。ついにあの人が戦争に行くことになって……」


 老婆は隣の村に住むイグナシオとは面識がなかったが、マリベルと好い仲であることは知っていた。


「あの人が、イグナシオが無事に帰ってくるようまじないを」

「それは簡単ではないんだよ。だがマリベルの頼みとあらば一つわしが骨を折ってみるかね。必ず無事にとは言えないが」

「少しでも望みがあるのなら、どうかお願いします」

「では一つ、用意してほしいものがある」


 老婆が求めたのは、穴の開いた木切れだった。それも虫食いや人が開けたものではなく、銃によって穿たれた穴の開いた木切れを。

 穴は今から開けるのではなく、できるだけ古くて生きているものがいい。森に行けば猟師が撃った弾がめり込んだ木がある。生きている木は受けた弾を包み込んで穴を塞いでしまうが、塞がる前の穴を探して、その部分を剥ぎ取ってくるように。

 マリベルは急いで森に向かった。降り積もった落ち葉を踏みながら、長いこと探し回って、ようやく一本のブナの木の前に立った。

 肩よりも少し低い位置に空いた穴は、すでに半分塞がりかけている。マリベルは手に持った鉈で、その穴の開いた部分を削り取った。


 老婆のところへ持っていくと、彼女は満足げにうなずいて、明日取りに来るようにと言った。

 老婆が一晩のうちにどんな呪いをかけたのかは分からないが、翌朝マリベルが小屋を訪ねると老婆はもう待っていた。


「これはお守りさ。運が良ければ一度だけイグナシオを守ってくれるだろう。必ず首から下げておくように伝えるといい」


 老婆の手にあったのは、昨日マリベルが取ってきた穴の開いた木切れに紐を通したものだ。大きさは手のひらくらいで、内側はまだ生木の白い肌のままだったけれど、中心に開いた穴はごつごつとした黒っぽい古びた木肌になっていた


「ありがとう、婆さま」

「なんの。わしはマリベルを生まれた時から見守ってきた。孫のようなものよ。孫の頼みは聞かねばの」


 村では出産のときは必ず老婆に呪いをしてもらうのが常だった。そんな老婆の言葉に、マリベルはほんの少しだけ気持ちが軽くなった。

 そしてお礼を手渡し、何度も頭を下げて小屋を後にした。


 別れの日、マリベルから思いがけないお守りを貰ったイグナシオ。無骨なペンダントは少し邪魔な気もしたが、マリベルの必死なまなざしをみて素直に首に下げた。


「毎日これを見てマリベルのことを思い出すよ」

「だったら私はこれの元の木を見ては、あなたの無事を祈っています」


 別れを惜しむ二人を、時は待ってくれない。イグナシオは隣国との国境へと行ってしまった。


 ◇◆◇


 村でいつもと同じように生活しながら、時折マリベルは森へ向かった。あの時削った木肌は徐々に濃い色にくすみ、中心の穴もまた徐々に塞がろうとしている。

 そしてイグナシオが出発してから二か月が経った。


 その日もマリベルは、仕事を終えてから森へと向かった。いつものブナの木のそばに近づくと、その日に限ってなんだかいつもはない臭いがする。

 不審に思って木に近づくと、ちょうどマリベルが切り取った木肌の中央に真新しい焦げ跡がついていた。

 穴の奥には昨日までなかった銃弾が見える。

 猟師が撃った弾が、偶然そこに当たったんだろうか?

 もしやイグナシオに何か大変なことが起きたのでは。


 マリベルの心配をよそに、それからさらに一か月が経って、イグナシオは無事に帰ってきた。そして不思議な話を聞かせてくれたのだ。


「今から一か月くらい前に、敵が撃った弾が俺の胸に当たった」

「まあっ」

「確かに当たったと思ったんだ。衝撃を受けて、その場に倒れてしまった。けれどなぜか怪我一つしていなかったんだよ」

「本当に、大丈夫だったのですか?」

「ああ。マリベルがくれたこのお守りのおかげだと思う。きっとこれが弾を受け止めてくれたんだ。ただ不思議なことに割れたり穴が開いたりした様子がないんだよ」


 イグナシオが見せてくれた木切れのペンダントは、穴のところが少し焦げていたが確かに割れたり欠けたりしていなかった

 二人は喜びを分かち合った後、揃って老婆のところに礼を言いに行った。彼女はしわくちゃの顔をもっとしわくちゃにして一緒に喜び、そして少しだけ呪いの話をしてくれた。


「このお守りの穴は、ずっと前に一度銃弾を通した穴だ。その時の記憶を持っているのさ。だからイグナシオが銃弾を受けた時に、穴は思い出したんだよ。弾の行く先をね。弾は森のブナの木に埋っていたろう」

「あのとき焦げた穴が……」

「ブナの木が引き受けてくれたのさね」


 不思議な話だと思う。けれど目の前にイグナシオが元気に立っている。ただそれだけがマリベルにとって大切なことだった。

 老婆に何度もお礼を言い、二人はブナの木の前で祈りをささげた。

 たった一つの銃弾が人の命を奪うこともある。だがブナの木はそんな銃弾を受けてもただ静かにいつもと同じように森に佇んでいた。

 穴はやがて塞がるだろう。


【了】

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