第22話 覗き穴

 父が死んでから一年ほど経った頃、春樹は父の使っていた書斎で仕事をするようになった。


 その書斎で父が自殺したのは去年の春。ちょうど桜の季節のこと。

 それから春樹はときどき書斎に入って、父のことを考えていた。何を思って生きていたのか。どうして死んでしまったのか。


 父は変わった人間だった。ある日急に思いついて会社を興したり、その会社を突然たたんでみたりした。周囲の人間には何も相談せず、本当に突然途方もないことをするのだ。

 だが父のやることは不思議といつも成功し、新しく作った会社もまた大きく成長した。

 父は夜になると、この書斎に籠った。

 灯を暗くした中で何時間も仕事の行く末を考えていたのだろうか。夜中に急に部屋を飛び出しては、あちらこちらに指示を出していた。


 春樹が急に書斎を仕事場として使いだしたのには訳がある。

 その日は珍しく、夜に書斎に入った。普段は父の死を思い出すのが嫌で昼間に少し入る程度だったのだけれど、ふと、夜の薄暗い部屋の中で父が何を考えていたのかを知りたくなったから。


 窓の外に、街灯に照らされた桜が白く舞っていた。幻想的で寂しい景色だ。

 しばらく窓の外を眺めてから部屋に目を向けた春樹は、壁の一点が気になった。派手な花柄の壁で気付きにくかったが、一か所だけ少し白っぽく見える場所がある。いや、白いんじゃない。光が漏れているのだ。


 そこに近付いて目を凝らすと、壁に覗き穴のようなものが作られていた。魚眼レンズか何かが埋め込まれているのだが、目立たないように壁紙で隠されていて、ほんの点ほどの穴からレンズの向こう側がのぞけるようになっていた。


 不思議だ。

 壁の向こうには部屋はない。いや、階段下の物置だったはずだ。灯など付けていない真っ暗な物置のはず。

 けれど春樹がその穴を覗いた先には、到底物置とは言えないものが見える。

 それは鏡写しになったこの書斎そのものだった。


 書斎は明るい。窓から日が差し込んでいる様子から昼だと思う。

 そして人がいる。

 机に座って仕事をしているのはどう見ても春樹自身。


 それから数日の間、夜になると春樹は書斎に入って穴を覗いた。

 穴の向こうにはたいてい仕事をしている春樹自身がいる。そしてどんな仕事をしているのかが不思議と全部分かった。

 ある日、覗き穴の向こうの春樹が急にたくさんの株を売る手続きをしていた。

 銘柄も分かる。どれも今伸びているものばかりで、売り時とは思えない。

 けれど春樹はなぜか覗き穴の向こうの自分に従った。


 そして気付く。

 父もそうしたのだ。

 急に何かを思いついたのではなく、見たのだ。

 穴の向こうの父を。


 それから春樹はこの書斎で仕事をするようになった。

 そして覗き穴の向こうを見ながら思う。

 もし向こうの春樹が書斎で自殺したら。

 ……自分はどうするのだろう。

 分らない。

 でも今は、考えなくていい。


【了】

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