第9話 名前で呼んで

 もし本当に避けられているとしたら……そんな考えが一度頭に過ってしまうとなかなか消えてはくれない。


「あーもう、くそっ……げっ!?」


 そんなことをしているとウインナーにいい感じに焦げ目がついたのを見て、慌てて火を消した。

 危うく焦がすところだ。

 とにかく今は上手い朝食とお弁当を作ろう。

 大げさに深呼吸して頭を切り替える。


 よし、味付けについてはダメなものがあったりしたら、次からは気を付けるようにしよう。



 小一時間が経過した時にはお味噌汁も出来上がり、あとはご飯が冷めたらお弁当箱の蓋をすればいい。

 あっそうだ、今日はまだ時間もあるし、冷蔵庫に残ってる大根をおろしにしておくか。


「おはよう。おお今日のお弁当は鮭か」

「おはよう樹君。うわ~、いい匂い。これ、職場の皆に自慢できそうね」

「そんな……」


 親父や広実さんが起きてきて忙しなく出掛ける準備をしながらも、挨拶やら話をしてくれる。


「こほん、おはよう、いつきくん」

「えっ……あ、ああ」


 美涼も再び降りて来た。いつも通りに見える。

 もしかしてさっきのは気のせい?

 十分にあり得ることだ。まだ無意識に美涼のことを考えてしまっているからな。

 なんにせよ、その普段通りの様子に安堵しての朝食となった。




 親父が向かいに座っているのは今までと一緒だが、その隣には広実さんがいる。

 俺の隣には美涼がいて、いやいやそれは昨日も一緒だし、いまはそれよりも満足する味になっているか、作り終えればやはりそこが気になる。

 だから、俺は2人が口をつけるまで箸をつけられなかった。


「朝食、任せちゃってごめんね」

「いえ、早く目が覚めたので……」

「いただきます……んっ、樹君の料理美味しい。シラス入りの大根おろしも! 博さん、毎日こんなおいしい朝食食べてたの」

「まあね。羨ましく思った?」

「私だって美涼が作ってくれてたもん」

「こほん……確かにいい味付けしてるわ。栄養のバランスも悪くないし」

「よかった……」


 それがお世辞でも心底ほっとする。

 やり取りを見ても、やはりいつもと変わらないように思う。

 気のせいだったんだ。


「……何呆けてるのよ、樹君」

「い、いや……あっ、そういえば2人とも苦手なものとかってあります?」

「私たちは食わず嫌いなものあんまりないかな。ねっ、美涼」

「その辺り聞かれると思ってたから……はいこれ、あたしが作る様になって纏めてたレシピ」

「お、おう……ってこんな細かく書いてるのか。さすが美浜」


 まだ食べている途中だったので、ぱらぱらと捲っただけだったが、思わず見入って誉め言葉が出てしまう。

 注意点の色分けもされているみたいだ。

 受験の対策ノートで経験済みだけど、こういうところがきっちりとしているというか真面目さがわかる。

 だがそれが気に入らないとでもいいたげに、美涼はムッとしたように口を尖らせた。

 広美さんもなんだか苦笑いを浮かべているように感じる。


(んっ……?)


「僕が料理からっきしダメだからね。見かねた樹がするようになって……もうずいぶんになるかな。美涼ちゃんも料理歴長いのかい?」

「あっ、はい。中学に上がったころからやっています」


 親父がすかさず話してくれてるのを聞きながら、ああ、呼び方がよそよそしかったのかなと納得がいく。

 でもなあ、苗字でなく名前で呼ぶなんて俺には恥ずかしい。

 ほら、考えるだけで体温が上がった。

 顔を上げれば美涼が横目で俺をいぶかしげに見ていた。


 そんな朝の食事が終わり一息ついたころ。


「じゃあ行ってくるね」

「博さん、帰り何時になりそう? 私の方は定時で上がれそうなんだけど」

「僕もいつも通り。一緒に帰ってこようか?」


 幸せそうに話す両親が一緒に玄関へと向かうが、テーブルにはお弁当が置きっぱなしだった。


「ちょ親父、弁当忘れてるって!」


 慌てて玄関まで走って渡して戻ってくれば、美涼がきょろきょろしながら洗い場に立っていた。


「あー、スポンジ2つあるもんな。うち、左がお皿用で右のは鍋とかフライパン用で別けてるんだ」

「っ! そ、そ」

「んっ、手伝うよ。やりながら片付ける場所教えた方がいいだろ」

「っ!」


 ちらちら見てくる視線を受けながらも俺は美涼の隣に移動して洗い物を片付ける。

 隣同士ということもあり、2人きりを意識してしまいそうだけど、作業がある分少しはましか。


「スポンジの新しいのはここの引き出しに入ってるから、汚れてきたら変えてくれ」

「う……」

「俺、こっちの鍋とか綺麗にしちゃうから」


 なんだか、いつもよりも擦る回数が多かったのか泡立ちがいい気がする。

 ほんといつもにも増して泡が、いい香りする……って、これ俺の方じゃねえ!


 隣を見れば、美涼は何かにとりつかれたかのように一心不乱にスポンジでごしごしと擦っていた。


「……」

「おいおい、ストップ、ストッープ! やりすぎだ、やりすぎ」

「っ!」


 俺の声にはっとしたかと思ったら、目の前の泡に驚いたようにあたふたしだす。


「……お、お疲れ。すげえピカピカになったと思うぞ。な、流すのは俺やるから、そっちの乾燥機の中のやつ片してくれるか?」

「……うっ、うう」


 やはり何かおかしい、か。


 そう思ったのもつかの間、今度は何かが落ちる音がした。

 

 そっちに目を向ければ、美涼が唖然とした顔で箸やスプーンを見下ろしている。

 美浜家からの食器も一度洗ってさっき乾燥させておいたので、まだ熱が冷めてなかったらしい。

 確認せずにそのままグッと掴んでしまって、落としてしまってところか。

 その姿はやはりらしくはない。


「……大丈夫か、火傷とかしてないか?」

「……う、ん」

「気にするなよ、もっかい洗えばいいだけだから。俺もひとこと足りなかった」

「……ご……ん」


 そういえば日奈も良く手伝ってくれるけど、失敗した時はこんなふうに落ち込んでることがあるな。

 なんか重なってしまう。

 美涼が緊張してるのはなんとなく伝わってくる。まあそれは俺もだが。

 親父たちの前だとちゃんとしていたが、もしかしてその反動、かもしれない?


「それじゃあこっち俺やるから、テーブルを拭いて来てくれるか?」

「う、ん」


 こうなると危なっかしくて気まずい中でもついつい目を離せない。

 洗い物を片付けながら自然に彼女を目で追ってしまう。


(あっ、早速足をぶつけた……って、おい!)


 そのままテーブルを拭くのかと思いきや、痛さで視線が下に行ったこともあるのかせっせと床を拭きだした。

 ここまで来るとわざとなのかとも思ってしまう。


「……おにいちゃんとおねえちゃん、おは、よう」

「1人で起きられたのか、えらいぞ日奈」


 日奈の挨拶を聞くと、先ほどまでが嘘のようにすうっと立ち上がった美涼は俺が用意していた布巾を受け取ると素早くテーブルを拭いてみせる。


「終わったわ! 日奈ちゃんもおはよう。まだ眠そうね。先に顔洗ってこようか?」

「うん……」


 おまけにまだうつろうつろしている日奈を見て、美涼はゆっくりと手を引いて洗面所へ消えて行った。

 あれ、なんかさっきまでと違って随分と素早いような……緊張とかしてなくね?


 少しすると着替え終えた日奈が元気いっぱいでやって来る。


「美浜お姉ちゃんがお着換え手伝ってくれた」

「おお、よかったな」

「うん、ありがとう美浜お姉ちゃん」

「……うんうん、あれくらい……おほん、それはそうと、あなたが美浜美浜言うから、日奈ちゃんまで言うようになっちゃったじゃない」

「ああ、そういえば……」

「あっ、日奈ちゃんは悪くない、悪くないよ。問題があるのは、家族なのにいまだに名字で読んでるお兄ちゃんの方」

「うっ……」


 急にはきはきと喋るようにもなって何なんだいったい……。

 これは完全にいつもの美涼だった。


「家族として仲良くしていきたいのは樹も一緒でしょ、そうよね?」

「ああ……」

「なら、それを示すためにも名前で呼びなさい」

「……」


 正論だ。

 それに予想外の提案、でもなかった。

 顔合わせの時から、美涼はぎこちないときもあったが俺を名前で呼んでいたからな。


 だけどなあ……。


「日奈、さんせい。みすずおねえちゃん、みすずおねえちゃん」


 日奈はもう間違えない様に、何度か口に出してきちんと覚えているようだ。


「……わかった。俺も努力してみる」

「みすずお姉ちゃん、お兄ちゃん恥ずかしがり屋さんだから少し待ってあげて」

「大丈夫よ。不器用なのは知ってるし、焦らせたりしないわ」

「お姉ちゃん、優しい」


 日奈に笑顔を浮かべる美涼を見て、やはりいつも通りだと感じながら、名前か、名前呼びか、と頭を悩ませていた。

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