走る子どもたち

降り積もる雪が、私の世界の輪郭を曖昧にしていく。どこか寂しく、それでいて落ち着くその光景は、私がこの街で開業をする理由となった。愛犬が楽し気に走り回っているのを、暖かい缶コーヒーを片手に見物している。

愛犬ほど夢中になって駆けずり回ることはしないものの、私も柄になく、この光景に魅了されていた。人のいない公園のベンチ。どうやら世界には私たちしかいないらしい。かじかんだ指先を摩擦熱で温めようとする。

飛び跳ねている愛犬が、突然ピタッと止まった。何かがあったのか、同じところを凝視している。不信に思った私も、その場所に向かう。スニーカーの上から入ってくる雪が冷たかった。やっとの思いで辿り着いたそこには、真っ赤な小さい赤の手袋が落ちていた。

拾い上げたそれはひんやりと濡れていて、随分前にこの場所で落としたようだった。迷った挙句、私はそれを家に持ち帰ることにした。手入れをする必要があるように感じたからである。

赤い手袋は、ずっと私が欲しかったものだった。

雪の降る道を歩きながら、昔のことを思い出す。実家はあまり裕福ではなく、それに加え私には三つ上の姉がいたため、与えられるものはお下がりの、使い古されたものばかりだった。上着にズボン、肌着に至るまで、使うに足る程度の損傷しかないものは基本的に私が使った。

当時の私には、好きな子がいた。その好きな子の好きな色が、赤だった。赤手袋を付け、楽し気に校庭で遊んでいる彼女は綺麗だった。卑しい、そして同時に眩しい理由であるが、私はその子と同じ色の手袋が欲しかった。親に再三ねだったが、叶わなかったことを覚えている。姉から譲り受けた青い手袋が、醜く映った。

別に、私はこの赤い手袋を持ち帰って自分のものにするわけではない。しかし、どうしても公園に置いて行かれなかったのである。

事務所に着くなり、私は暖房の前に冷え切った手袋を掛けた。これで少しは早く乾燥してくれればいい。椅子に腰かけて、温くなったココアを啜る。ノック音が三回響いた。

「どうぞ」

「失礼します」

入室するなり、びしょびしょに濡れた犬と私が付けるには小さすぎる赤い手袋が目に入ったのか。事務員が一瞬ぎょっとした反応をする。

「また遊びに行ったんですか」

「楽しかったぞ」

「仕事を終わらしてからにしてください」

事務員は呆れた顔をし、本来なら依頼主が掛ける用のソファに座る。勢いよく座ったものだから、ほこりが舞い上がった。事務員の口から小さな悲鳴が漏れる。

「また掃除していないんですか」

「仕事を終わらしてやるつもりだった」

「遊びに行ったんじゃ終わるものも終わりませんよ」

「新しい仕事、なんかない?」

「ないですね、資料整理でもしてください」

事務員が立ち上がり、掃除機を掛け始めたのを見、私も溜まっている仕事を片付け始める。細々した案件を順々に処理して、事務員がやる範囲の内容をリスト化して、たまにココアを口に含んで、草しているうちに午前が過ぎて行った。昼ごはんを買いに行く必要に迫られ、私は大きく伸びをする。

「先生はご飯どうするんですか」

掃除用具を片づけた事務員が話す。

「外でも行くかな」

「一緒にご飯でも行きません?」

この提案はありがたいが、しかし私にはやりたいことがあった。悩んでいるふりをしながら席を立ちあがり、暖房前の赤い手袋を手に取る。すでに乾いていた。コートを羽織って外出の準備をしながら、事務員の方を向く。

「一人で行っておいで」

「一緒に行きましょうよ」

「どうして一緒に行きたいわけ」

「そりゃ監視していないとどっか行っちゃうでしょ、先生は」

図星だった。じりじりと距離を詰め、外出をさせないようにする事務員を振り切って、愛犬と外に出る。

「この匂いの持ち主わかる?」

愛犬の鼻に赤い手袋を近づけるが、匂いをかぐこともなく私の手に頭をこすりつける。なでてくれと言わんばかりの表情で押し付けるものだから、一周回って誠実だな、と感じる。

「ダメだこりゃ、足で探すしかないか!」

後から事務員が追ってきて、何かを叫んだが、風の勢いで耳まで届かない。私は走り出す。こんな雪の中で走らないほうがおかしい。赤い手袋が濡れないように、ポケットに詰め込んで駆けだした。

「まずは駄菓子屋かな」

手袋の大きさから見て子どものものと思われる。この休日に、子どもが訪れるところと言えば駄菓子屋だ。今朝たそがれていた公園の付近の駄菓子屋に直行すると、そこには数人の小学生と思しき子どもたちと、外套を羽織った駄菓子屋の女将さんが座っていた。

「こんにちは」

声を掛け、中に入ると子どもたちが見知らぬ人に対する新鮮な反応を見せる。縮こまって隅に寄っていく子どもたちに会釈すると、女将さんは笑顔を向けてくれる。

「久しぶりじゃないの」

「半年ぶりくらいですかね、おばちゃんもお元気そうで」

「まだおばちゃんとかいう歳でもないわ」

「すみませんお姉さん」

お姉さんと呼ばれたことに気をよくしたのか、快活な声で笑って私にガムを持たせてくれた。昔から、そうすると小さな特典を渡してくれる。子どもたちが私を真似して、ありがとうお姉さんと口々に言った。女将さんは笑う。

「ところで今日はどうしたんだい」

「この手袋の持ち主を探していまして」

私はポケットから、例の手袋を取り出した。女将さんはそれを見、少し考えるような仕草をしてから、手を叩いた。

「二丁目の子だわ、本当に偶に遊びに来るのよ」

子どもたちが背伸びをしながら、私の手元を見る。

「お前たちと同じ学校の子じゃないかい」

小さな声で会議をし始める。数人の名前が挙がって、彼らの中で意見が一致するまで数秒かかった。

「ゆうこのだよ」

「ゆうこちゃんの手袋?」

「そう、同じ教室の」

周りの子どもがゆうこと言われる少女の特徴を口々に話し出す。我先にと話し出すものだから、聞き取るのに苦労したが、大意を掴むと、内向的だが芯のある子のようである。よくもそんな曖昧な記憶を覚えているものだと感心しながらも、どことなくゆうこという少女にほの暗い陰を感じた。

「よく公園に一人でいるのを見るよ!」

「親御さんとか知ってる?」

「優しい!」

優しいけど、なんとなく怖い。そのような印象が口々に語られる。人の口には戸が立てられないのだなと痛感する。

「急いだほうがいいんじゃないかしら」

女将さんが口を挟む。滅多にそのようなことをしない人なので、少なからずびっくりして彼女の顔を見ると、険のある表情をしていた。私はその表情から何かを察した。子どもたちが女将さんに質問をすると、またいつも通りの柔らかい表情に戻って曖昧な応対をする。

「ありがとうございました」

私はそうとだけ言って、二丁目の方角に急いだ。途中公園を目の端に捉えたが、ゆうこちゃんと思しき影はなかった。

走っていて気が付いたが、私はゆうこちゃんの風貌を知らない。こんなことなら子どもたちからもっと詳細な情報を聞いておけばよかったと後悔しながら道を行っていると、二丁目のコンビニエンスストアの中に、暖房付きの商品棚で暖を取っている少女が目に入った。左手に赤い手袋をはめている。

「ゆうこちゃん!」

思わず大声を出して少女に近づく。愛犬も付いてくるが、コンビニエンスストア内に犬の連れ込みは禁止であるので外で待機させる。少女の後ろでもう一度声を掛けると、肩を跳ねさせて少女が反応した。

「何か用ですか」

「これ、あなたのじゃない?」

私はポケットから赤い手袋を取り出し、少女に渡す。目視しただけでも私の持っているものと彼女が身につけているそれは同じものであることが分かった。少女が驚いた顔をして、口の中で感謝の言葉を唱える。

「寒くない?大丈夫?」

「勿論寒いわ、私の手袋を盗んだの?」

「公園で拾ったんだよ、ほら、この付近の」

「いつ?」

「今朝……だけど」

少女が溜息をつく。これ見よがしな溜息に、少なからずびっくりした。

「じゃああなたが盗まなければ私は見つけられたんじゃない」

正論にぐうの音も出ない。私の顔が少し強張ったのを見て、少女がまた溜息をついた。

「コーヒーでも買ってくれたら許す」

私に取れる選択肢は他になかった。大人しく少女の要望する缶コーヒーを買う。再三コーヒーでいいのかと聞いたが、何度聞いても甘い飲み物にする気配がなかった。自分の分も含めて会計をする。時刻は十四時になろうかという頃合いだった。

イートインのスペースで、雪に降られている愛犬を見ながら飲み物を啜る。流石にそろそろ帰らなければ、事務員からお叱りを受けてしまうことは明白だった。

そわそわとしながらコーヒーを飲み切ろうとしていると、少女が突然口を開いた。

「連絡先交換してあげる」

脈絡のない言葉に困惑を禁じ得ない私。どこかでこの発言につながる文脈があったかどうかを思い出そうとしていると、少女が続けざまに話す。

「交換しちゃいけない理由でもあるわけ?」

「ないけど」

「電話番号でいいわ、教えて」

少女は私のスマートフォンを半ば奪い取るようにし、先ほどのレシートの裏に、ポケットから取り出した小さい鉛筆で私の電話番号を写し取る。その後、勝手に連絡帳を開き、自分の名前と住所を登録してしまった。電話番号の欄は、空白のまま。

「はい、撮るよ」

少女はそれだけ言って、デフォルトのカメラアプリを使ってセルフィーをする。条件反射で、ピースサインをした私までが映り込んでしまった。慣れた手つきで撮った写真を連絡帳の自分の顔写真に設定する。あれよあれよという間に、私のスマートフォンに彼女の個人情報が登録されてしまった。

「じゃ、帰るわ」

空になったと思われる缶を持って、少女は行ってしまう。呆気にとられたまま、私は少女を追いかけるように店外へ。

「ちょっと待って!」

存外大きな声が出た。少女が振り向く。

「何、忙しいんじゃないの」

「いや忙しいけども、どういうこと?」

「その質問の意味が分からないわ」

「いや写真撮ったり、電話番号だったり……どういうつもり?」

「今夜連絡するわ、空けておいてね」

両手に赤い手袋をはめたまま、少女が雪の道を行く。


夜。残っていた仕事を終わらし、事務員にしっかりと怒られた後に、少女から電話が掛かってきた。固定電話の番号だった。条件反射的に取る。

「ちゃんと聞いてなさい」

小さい、掠れるような声で、少女が私に呟いた。次の瞬間、何かが物理的に壊れるような音がして、少女の悲鳴が聞こえた。ヒステリックな声が聞こえて来る。壮年の女の声だ。不意に、私は駄菓子屋の女将の顔を思い出した。彼女が少女の母親についての話になった時に、険しい表情になったことを思い出した。

ひとしきり、大きな音を聞いた後に、また少女が受話器を取ったようだ。浅い呼吸のまま、少女が話し出す。

「ちゃんと録音した?」

事務所兼自室の電話は、自動録音機能が付いている。多分正確に録音できているはずだ。子の旨を伝えると、少女が溜息をした。呆れというより、安堵と表現したほうがいいような溜息だった。

「あなたに仕事を上げるわ」

「えっ」

「法律知っているんでしょ、仕事してね」

「どうして知っているの?」

「バッジを付けたままのジャケットで生活するのはどうかと思うわ」

連絡帳から少女の写真を、昼頃二人で取ったセルフィーを見ると、私のバッジにピントが合わされていた。

「じゃ、個人情報はそこに書いてあるから、よろしく」

電話が途切れる。また私に選択肢が与えられないまま、少女の言いなりになってしまった。大きな溜息をつく。温かいココアを飲んで、仕事机に戻っていった。


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