釣り場

太陽が天球の頂上で輝いている。ここは波止場。

踊る波に反射する光が、老人の麦わら帽子を照らす。

酒瓶が入っていただろう箱を裏返し、質素な格好のまま釣り糸を垂らす老人。その横には魚の入ったバケツが一つ。風の合間にバケツの中の魚がくゆり、くゆりと動いて、小さな波を立てる。

そこに、七歳くらいの少女が近づいてくる。簡素な白いワンピースに、裸足という格好の、純朴そうな雰囲気を纏った少女である。魚の入ったバケツを覗き込んで、水の中、生きている魚に人差し指を近づける。触れるだろうその瞬間に魚が体をひねらせ、大きくみずしぶきを上げた。少女の顔に水滴が付着する。

その合間も老人は、海の遠くを眺めて、獲物が来るのをじっとこらえていた。

「おじちゃん、バケツの中の魚を分けてよ」

少女が老人に話しかけた。老人は少女の方を見、そうして遠くの何かに向かって笑いかけるような顔をした。少女が訝しんで後を見るが、そこには特に何もいない。

「ねぇ、ちょうだい」

「どうして欲しいんだい」

「今日の夜ごはんにするから」

少女が老人の前に手を突き出す。まるでお金でも入れてくれと示しているような手つきだった。老人がその手を見つめ、左手で摘まんでいた釣り用の虫を乗せる。少女はそれを見、特に驚くこともなくそれを海に捨てる。魚が水面まで泳いできて、それを食べた。

「さっきのは食べられたの?」

「人間には無理じゃないかなぁ」

「どうして乗っけたわけ」

老人は考え込むようなしぐさを少しする。その間も少女は、手を突き出したまま直立して動かない。

「虫が苦手じゃないのかい」

「苦手じゃないわ、家にだっているもの」

老人がしかめっ面をする。

「そいつは随分な環境だね」

「この辺じゃ珍しくもないわ」

つっけんどんな少女の反応に、老人は目を大きくして驚く仕草をする。老人の垂らしていた釣り糸が一瞬、ぴくんと跳ねた。

「いいから、どうせ遊びで釣っているんでしょ」

「どうしてそう思うんだい」

「遠くから来た人でしょ、服で分かる」

「聡い子だねぇ」

老人は目を細め、両手で釣竿を引いた。釣り糸が力強く張って、それは水面下にいる魚がどれほどまでに生に執着しているかを如実に表しているようだった。老人は事もなくそれを引き上げると、慣れた作業で隣のバケツに放り込んだ。少女はそれを眺めている。

「さて、これは私の魚なんだけど」

「何」

「今から問題を出すから、正解したら魚をあげよう」

「いいわ」

やる気宿った少女の目を見、老人が微笑む。釣り糸を手繰り、小さく畳んだ釣竿を横に置くと、老人が話し出した。

「第一問、十足す十五は?」

「二十五でしょ、簡単じゃない」

老人は満足そうに頷いて、左隣に置いてあった虫を海に捨てた。飢えた魚が一気に集まってきて、大きな音を立てる。

「じゃあ第二問だ。『いわし』って漢字で書けるかい」

「魚偏に、弱い、でしょ」

「賢いね」

少女はさっさとしてくれと言わんばかりの顔をして、足を鳴らす。

「第三問な、『海老で鯛を釣る』ということわざの意味を知っているかい」

「小さい餌で大きな獲物を釣り上げることでしょ」

老人は竿や餌のは言っていた皿をしまいながら、感嘆の息を漏らす。少女が誇らしげに鼻を鳴らす。

「第四問。私がどうして魚を釣っていると思う?」

「そんなの分かるわけないじゃない」

老人が笑い声をあげる。少女が苛立ったような仕草をして、焦りながら口を開いた。

「ご飯のためでしょ!」

「その通り」

老人の言葉を受けて、少女はほっと胸をなでおろす。老人はその間にも椅子を畳んで、少ない荷物をまとめあげて変える準備を済ませてしまっていた。バケツの中の魚が勢いよく飛び出そうとするが、バケツの壁に阻まれてまた水中に落ちていった。それを、老人は満足げに眺める。

「じゃあ最後の問題。どんな人間が美味しいと思う?」

少女の表情がこわばる。何を言っているのか理解できないと言いたげである。老人は少女の前にしゃがみこんで、顔を近づけた。少女の目が泳いでいる。

「美味しい人間ってどういう条件があると思う?」

「知らない!」

少女が、老人のいる方向と反対方向に駆けだした。しかし、小石に躓いてその場に倒れてしまう。ひざを痛めたのか、うずくまる少女にゆっくりと接近する老人は、口を開いた。

「賢い子どもの心臓が、一番美味しいんだよ」

老人が言って、少女の胸に手を突く。ゆっくりと引き戻すと、血液が付着したままの心臓がその手に握られていた。魚が入っているのとは別の容器にそれを入れると、老人は少女の髪を持って、荷物のように引き摺り始めた。足跡に沿うように、少女の血が道になる。

老人は車に少女の遺体と諸々の荷物を入れ、トランクを閉めた。ポケットから携帯電話を取り出して、どこかしらに掛ける。電話は、繋がらなかった。

「佐藤の奴にあとで礼を言わなくてはな」

老人が、運転席に座り、車のエンジンをふかす。ディーゼル車特有の駆動音が辺りに響き、集落から子どもがわらわらと見物をしに来た。

「佐藤になんて言い訳をするか……」

老人は一瞬考え、思い出したように運転席から下り、魚が入ったバケツを持ってくる。集落の付近にそれを置くと、老人は見向きをすることもなくそこから去っていった。警戒していた子どもが一人、また一人と魚を強奪していく。

「魚だな、まるで」

独り言を言い、老人は笑う。

「魚なんて不味いもの、佐藤でも食わんか」


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