明日天気になぁれ

パジャマ姿のまま、少女は玄関に立った。

随分古ぼけたデザインのつっかけに足を通して、誰にも気づかれないよう、細心の注意を払いながら玄関のドアを開ける。いつもは気にならない蝶番の軋みが、今日に限ってやけに大きい音を立て、それに反応して少女の肩が小さく跳ねた。呼吸が少しだけ浅くなる。

開いたドアの隙間から、夜の冷たい空気が流れ込んでいる。少女の瞳に、一瞬流れ星のようなきらめきが映り込む。はっと我に返り、真剣な表情で狭い隙間に体をねじ込んで外に出た。

明日になるまで、あと十分もないだろう。真夜中の街は息を潜め、そこには少女の行動に難を示す人間も、必死に止めようとする大人もいない。一旦家に出てしまえば、もうこの世界は少女だけのものだった。先ほどまでの見つかることを恐れていた心は一気に大きくなり、普段使わないつっかけを足遊びの相手としながら、鼻唄を歌っている。時折スマートフォンの画面を点灯させて、時間を確認した。

少女の目下の目標は、今日の二十三時五十九分、または明日の〇時〇分にある。事の発端は数日前の休み時間に遡る。みんなが親から聞いた話をするながれで、天気予報の方法が話題に上った。それは、「明日天気になれ」と唱えながらサンダルを蹴るように飛ばすと、サンダルが表を向くか裏を向くかで晴れるか雨が降るかということがわかる、というもので、小学校の同級生が、「俺はこれで十回当てた!」と言うものだから、少女の中でがぜん興味が湧いてきたのだった。元より少女はこのような迷信めいたものは信じない。しかし、こう考えたのである。

「明日っていつのことだろう」

サンダルが宙に浮いているときに明日になったとすると、占いで出た天気はいつのことを指すのだろうか。もしサンダルが足を離れた日から見た「明日」なら、サンダルが地に落ちた時が天気を占えた日になる。しかし、サンダルが地面に落ちた日から見た「明日」なら、それは少女が靴を投げた日から見れば明後日の天気、という事になる。

もし、もしもの話であるが、この方法で天気を占えるのだとすれば、明後日まで待てばどっちを指しているかは分かるはず!午後の授業もそこそこに、少女は勇み足で帰路に就いた。いつも寄る駄菓子屋も、ねこのいる公園も横切って、夜ご飯をしっかり、お風呂も自主的に入って、母親を驚かせるままに布団に入った。絶対寝ない!という意志を持って、暗闇にとろける思考を頑として保ち、そうして願った真夜中。彼女の心はこれ以上ないほどまでに高揚していた。

時間管理は一番大事な作業である。二十三時五十九分が近づいてくるにつれて、少女がスマートフォンを見る回数が増えていく。刻一刻とその時間が隣まで来る。明日になる、その前に、少女は大きな声を上げて靴を蹴り飛ばした。

「明日天気になぁれ」

不十分な睡眠と、あまりの勢いに、少女の上体が大きく傾く。仰角八十度ほどの放物線を描く軌道を古ぼけたつっかけが取るために犠牲になったのは、少女の体の安定だった。後頭部が地面に激突する。少女の視界の真ん中にはつっかけが映って、それは本来とるべき軌道に沿ったまま、宙に停止した。

少女は、思わぬ情景に驚嘆し、口をあんぐりと開けたまま固まってしまう。強かに打ったはずの後頭部に痛みはなく、また落ちてくるはずのつっかけは手の届かない高さに停止している。しばらく黙ったまま寝転んでいた少女は、はたとスマートフォンの画面を見る。〇時〇分、二秒。画面の表示が二秒になったまま、動かなくなっている。

「どういう……?」

考えてみたが、この状況を適切に説明するための知識を少女は持たなかった。上体を持ち上げ、試みに自分の後頭部を触ってみるが、特に異変はない。考えるだけで無駄なことのように思えてきた。

大きなあくびを一つして、重くなった瞼を擦っていると、視界の端につっかけを持った青年がいる。先ほどより立て続けに起こる予想外の状況に、少女の思考は再び固まる。

「まじで!」

口火を切ったのは青年の方からだった。青年の右手には、少女が放ったはずのつっかけが握られており、その光景もまた少女を混乱させた。

「聞いてんのか!」

「聞いて……ます」

辛うじて返事をした少女の方へ、青年が近づいてくる。眉間にしわが寄っており、表情を見るだけで面倒ごとを抱え込んでいることが明白だった。青年がつっかけを少女の顔面に叩きつける。痛みはなかった。

「やめてくんない!?」

「……なにが」

「そうやって!明日がどっちかとか!調べるの!」

少女の好奇心からの行為に、青年が怒りをぶつける。顔に投げつけられ、重力に従って落ちてきたつっかけを持ったまま、少女が唖然としている。

「バグっちゃうでしょ!」

「バグ……?」

「まだ仕様変更終わってないんだよ」

青年は、そう叫んで宙に浮き、どこからか出現したキーボードを乱雑に叩いている。何かを打ち込みながら時折唸っている青年を見るにつれて、少女の混乱が徐々に氷解してきた。理解は及ばないものの、こういう時に確認するべきことを少女は思い出した。

「あなたは神様なの?」

声を掛けられて、青年がうんざりした顔を向ける。

「そんなわけないじゃん、下請けだよ、下請け」

「下請けって何?」

「神の命じた仕事を実装するの、薄給で。残業代でないし、やりがい搾取なの」

少女には知らない言葉が並べられるが、何かしらの思わしくない状況に青年が置かれていることは何となく理解できた。

「私が何かやっちゃった感じかな」

青年の耳に少女の言葉が届き、それに呼応するように長い溜息が青年の口から漏れた。今にも泣きだしそうな顔をして、両の手で顔を覆う。やめてくれよと呟いているような気がしたが、震え声にかき消されて、上手く聞き取れない。

「あれ、君のやった占いね、あれ会議でも結論出てないんだよ」

「どういうこと」

「だから、『明日』がどっちにあたるか、まだ仕様が決まってないの」

「でも実際、天気は変わらないでしょ?」

「変わらないから厄介なんだよなぁ……」

青年が、先ほどまで叩いていたノートパソコンを閉じる。パソコンの横に浮いていた缶ジュースを引ったくり、勢いを付けて飲み下す。コマーシャルのような声が青年の喉から出た。

「どっちが『明日』か決まってなかったら、自動でサンダルの裏表が決められないだろ?そしたら俺たちみたいな下請けが、一回システム止めて決断して、再起動しなきゃいけないんだよ。俺の気持ちわかるか?お前がわくわくしながら夜に出てきて、ちらちら時間を見るもんだから、俺がどんだけ神様に祈ったと思ってんだ、『まじでやめてまじで』って言いながらお前を除いて全部システムを停止する俺の苦労を汲んでくれよまじで……」

早口でまくしたてながら、青年がこれまた宙に浮いている寝袋に入り込む。顔までを中に入れたせいで、青年の言葉の後半は上手く聞き取れなかった。

「なんか、ごめんなさい」

少女が謝る。それを聞くなり青年は突然顔を出す。

「『いいんだよ、わかれば』」

「ありがとう」

「これもマニュアルにある言葉な、馬鹿じゃねぇの、何も良くねぇよこんなマニュアル整備している暇があるならさっさと決断しろ」

「でもマニュアルなかったらなんていえばいいかわからなかったんじゃないの」

急に少女が正鵠を射たことを言い、青年の表情は厭世的な笑いを湛えたものから、一気に沈んで真顔になってしまう。気まずい沈黙が流れる。しばらく青年は寝袋に入って虚空を見つめた後、ゆっくりと這い出してノートパソコンに向かった。再起動の音が流れる。

「それで、どっちがいい」

急に話しかけられて、少女が困惑する。

「『明日』、どっちにするわけ」

「それは私が知りたいんだけど」

「いいから!選んでまじで!今なら俺も帰って寝れるから!終電あるから!」

「どっちでもいいよ」

「いやそれめっちゃわかる……」

またも青年が頭を抱えてしまった。少女は当初、ころころと変わる青年の表情に興味を感じていたが、流石にレパートリーが少ないような気がして眠気が戻ってきてしまう。今なら宙に浮けるのではないかと考え、やってみるがそうはうまくいかない。地面に寝転んで瞼を閉じてみた。

「待って待って待って!」

青年の声が飛んでくる。

「寝ないでまじで、ちょっと待ってもう終わすから、寝られたら二重で面倒なんだよ」

青年が無遠慮に少女の肩を揺すり、上体を起こさせて口に缶ジュースの内容物を注ぎ込む。びっくりして少女がむせ返る。あまりの衝撃に眠気も飛んでしまった。変な味がした。

青年はまたどたどたとキーボードを叩き始め、数秒後に親の仇かのように強かにキーを叩いた。老人のような喉声の溜息を付き、少女に手招きをする。

「何?」

「アドホックして」

「アドホックって何」

「最終確認的なやつ、本当は違うけどいいんだよいいからこっち来て」

「宙には浮けない」

青年がどこからその声が出ているのかわからな程の声を出す。驚きのあまり出てしまった声に、少女も少なからず驚いてしまう。

「お前子どもだろ?」

「九歳だけど」

「九歳でお前、信じることができないんかよ」

「何の話」

「いやだから、信じれば出来るって」

少女の眉間にしわが寄る。信じれば宙に浮ける?非合理的な思想に感じた。少なくとも現実世界ではそうではない。仮にこの世界がそんな夢のような世界なのだとしたら、今青年が苦しんでいる理屈は通らないはずである。

「そんな難しい顔するな、無邪気さが大事なんだよ」

「理屈がおかしいわ」

少女が真面目くさった顔でそういうと、青年が笑い出す。

「お前、何のために俺がこうして苦しんでいると思うんだよ」

「わからないけど」

「お前みたいな子どもが夢を馬鹿みたいに信じられるためだよ」

少女の表情がぴくりと動く。夢なんて、そんな荒唐無稽なものを唱える余裕はなかった。いつだって、生活には避けようのない時間の流れと、それに応じる義務が存在していた。夢を夢をと大人は子どもに言うだけ言って、当の本人たちは諦めの体で揺蕩っている。結局自分もこうなるのだと思えば、夢なんて唱えるだけ無駄なような気がして、信じることもそこそこに、少女は毎日を過ごしていた。

「……あなたが降りてくれば解決するでしょ」

真っ直ぐな青年の目が、今は見ることができないように思われた。少女は沈黙する。納得したようなそぶりを見せた青年は、ノートパソコンを持って少女の隣に近づく。これ見ろ、と言い少女に説明する姿からは、先ほどまでの荒れ狂った姿からは程遠い、一人の大人を感じる。

「で、どうするんだ」

「何が」

「『明日』だよ、お前が望んだ方にしてやる」

「決めなきゃいけないの」

「別に義務じゃないさ、決めたほうが俺の示しがつく」

そんな些細な、しかも確定していない理由でふんぞり返る青年を、少女は少しだけ好ましく思った。

「じゃあ今日の方でいいわ」

「天気はどうすんだ」

「晴れにして」

「わかったよ、ありがとうな」

これが大人の余裕なのだろうか。少女はどこから湧いてきたのかもわからない敗北感に襲われた。短慮だったのは、少女の方であった。

「帰るわ」

「そうか、二度とすんなよ」

青年は少女に顔を向けることもせず、ノートパソコンに何かを打ち込んでいる。

「してみたかったらするわ」

「お前が子どもの内は相手してやる」

少女の方を見ないまま、青年が口角を上げる。やつれた目元に、正規が宿っているのが見受けられた。青年にもまた、夢があるのだろうか。そんな些末なことをふと考えて、少女は恥ずかしさを感じた。その恥ずかしさの正体を、少女は今までの短い人生から見つけ出すことができなかった。しかし少なくとも、この感情に、がんじがらめになった義務は存在しないような気がして、夢や希望といった浮ついたものを信じていいような気分になった。

「じゃ、二度と来るなよ」

青年が、小さく手を振る。思わず、少女も手を振り返していた。


起きた。

時間は朝の6時。

昨夜、少女は親を欺くために床に就いた。その全ては、「明日」の謎を解明するため。しかし、我慢の甲斐なく寝入ってしまっていたようである。小さな後悔が心の中に去来する。

おおきなあくびを一つ。自室のカーテンを開けると、窓の外に古ぼけたつっかけが落ちていた。なぜか、暖かい気持ちになった。

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