エピローグ 2
きょうや、と不意に自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がして、少年はゆっくりと瞼を押し上げた。薄暗い部屋に何度かぱちぱちと瞬きをしてから、ようやく、いつの間にかベッドに横になって寝ていたのだと気づく。
「キョウヤ」
名を呼ばれ、少年はびくりと身体を震わせて跳び起きた。声の方へと顔を向ければ、そこには少しだけ驚いた表情をした王がいる。
「あ、」
陛下、と寝起きの掠れた声が呼べば、王は申し訳なさそうな顔をした。
「すまない。驚かせてしまったか」
言いながらゆっくりと伸びてきた手が、そっと少年の頭を撫でる。やはり他者との接触は苦痛だが、どうしてか、この掌に対する嫌悪感は徐々に薄れていっているような気がした。
「……あの、陛下はどうして、ここにいるんですか?」
生誕祭はもう終わったというのだろうか。いや、そんな訳がない。あれは明日の昼まで続くと聞いている。部屋が暗いということは、今はまだ夜の筈だ。
少年の疑問に、王はふっと微笑みを浮かべた。
「お前に会いたくて、来てしまった」
どこか悪戯っぽい声音のそれに、少年が目を丸くする。
「え、会いたいって……、で、でも、主役の貴方がこんな所に居たら、宰相様や、他の方々が、」
「ははは、今頃怒って探しているだろうなぁ」
それを聞いてさっと青褪めた少年の頬を、王が撫でる。
「心配いらん。用事が済んだらすぐに戻るさ」
「用事、ですか……?」
頷いた王が、ベッドに腰掛ける少年の前で、すっと腰を屈める。そしてそのまま、グランデル王国を統べる赤の君主は、少年の足元に跪いた。
「っ、あ、あの、」
国王陛下がこのような真似をすべきではない。そう言おうと思うのに、あまりのことに言葉が出なかった。そんな少年の手を取って、王がその甲に唇を落とす。そして彼は、まるで懇願するように少年を見つめた。
「どうか、その言葉で、私が生まれ落ちたことを祝福してはくれないだろうか」
「しゅ、祝福、って、そんな……」
だってこの人は、沢山の人に愛されて、沢山の人に祝われているではないか。
「……今更、僕の言葉なんて……」
意味がない、と続く言葉を紡ぐはずだった唇は、王の手によって優しく塞がれてしまった。その手はすぐさま離れていったけれど、残る体温が、少年の発言をやんわりと制してくる。そして王は、懇願に優しさを滲ませたような不思議な声で、少年の名を呼ぶのだ。
「キョウヤ」
ああ、なんて穏やかな声なのだろう。こんなものは知らない。こんな音は聞いたことがない。こんなにも優しい響きで名を呼ばれたことなど、一度だってなかった。
「千の家臣が私を讃え、万の民が私を祝ったとて、それが何になろうか。私は、他の誰でもない、お前からの祝福が欲しいのだ。それさえ貰えるのならば、他の言祝ぎなどいらぬ」
そんなことを言っては駄目だ。少年の言葉よりも価値の低いものなんて、きっとどこにもない。だから、この王の言っていることは間違っている。間違っているのだ。だというのに、
「……なんで、そんな、……僕、なんですか……?」
否定を紡ぐべき唇は、しかし全く別の言葉を吐き出してしまって、それでも問いかけをやめることができない。
「簡単な話だ。私がお前のことを、この世の誰よりも愛しているからだよ、キョウヤ」
「っ……、だから、なんで、僕なんですか……? 僕は、別に、そんな、……貴方につりあうような人間じゃ……。貴方は王様で、でも、僕は、ただの一般庶民で……。……貴方みたいな綺麗な人が、なんで、」
こんな汚い僕を。
そうだ。天ヶ谷鏡哉は汚くて、邪魔で、生まれるべきではなかった存在なのだ。唯一無条件の愛情を与えてくれる筈の母ですら見限ったような、そんな人間なのだ。それが、こんな美しい王から愛情を注がれるなど、あってはならない。
王は、そんな少年の心の内を知っているのだろうか。それは定かではないけれど、彼が震える少年の手を離すことはなかった。
「私に愛されるのは、迷惑だろうか」
少しだけ寂しそうな声が、少年の耳を撫でる。そんなことを言われたって、少年にはもう何が何だか判らない。
「……わ、わからない、です…………」
「それでは、嫌か?」
「……わ、から、ない、です……」
段々と少年の顔が歪み、彼はいっそ泣き出してしまいそうなくらいの表情を浮かべた。だって、本当に判らないのだ。こんなにも優しくて、こんなにも温かくて。そんな、まるで母親から与えられるような無償の愛など、ただの一度も向けられたことがなかったのだから。
水分が滲み、潤み始めた隻眼を見て、王が殊更に優しく甘い微笑みを浮かべる。
「判らぬか。それでは、お前が判るそのときまで、気長に待つとしよう」
そう言った王の掌が、慈しむように少年の頭を滑った。その優しい手つきに、少年はまた泣きたい気持ちになる。
「ま、まって、いただいても、わかるかどうかなんて、……いつまで、そんな……」
顔を俯けてぽろぽろと零れたのは、言葉の断片だ。それはもしかすると独り言のようだったかもしれない。けれど、炎の王はそれすらも拾い上げてしまう。
「いつまででも」
低くて穏やかな声が、少年の耳を撫でる。
「お前が判るときが来るまで、ずっと、待っている」
誓いのような言葉に、少年は思わず顔を上げた。今にも涙が零れてしまいそうなほどに潤んだ瞳が、王を見る。
(……ああ、本当に、とても綺麗な人だ)
だからこそ、この美しい人からの愛を受け止めるなんて、許さることではない気がした。美しかった母が自分のせいで醜く歪んだ表情をしたように、この人も、自分が歪めてしまうのではないか。汚してしまうのではないか。
少年が王の言葉ひとつひとつに感じているそれは、間違いなく恐怖そのものだ。何故なら少年は、思い知らされてしまった。王の言葉はやはり、心からのものであると。嘘偽りのない真実であると。だって、こんなにも美しい人なのだ。この人の紡ぐ、真っ直ぐすぎるほどの言葉が嘘だとしたら、きっとこの世に真実なんて存在しない。
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