デート? 4
そんなことを考えながら幻の星空や優雅に滑る幻影たちを眺めていると、ふと、少年の視界を遮るように、大きな背中が正面に立ちはだかった。一瞬理解が遅れたが、どうやらこの背中は自分をここに連れてきた男のものらしい。
気分よく幻を眺めていた少年が何事かと声を掛ける前に、男はちらりと少年を振り返って、そのままでいろ、と小声で告げてきた。それとほとんど同時に、男の背の向こう側から知らない声が聞こえる。
「これはこれは、ロストさんではありませんか! こんな場所でお会いするとは、奇遇ですね」
今日一日聞いていた低い声とは違い、やや軽めの、しかし何故か耳に馴染みやすい声だ。
「おお、デイガー殿。貴殿もいらっしゃっていたとは」
少年は知らないが、親しげに声を掛けてきたのは、例のカジノのオーナーであるデイガー・エインツ・リーヒェンであった。初めてカジノに行ったあの日以降、男が出向くと必ずオーナーが直々に挨拶をしに来るため、顔見知り程度の関係にはなっていたのだ。尤も男は、デイガーがわざわざ声を掛けてくるのは友好関係を築くためではなく、男を目立たせることで目くらましの効果を少しでも低下させるためだろうと考えていたが。
「大変有難いことに、バーを通じて様々なお客様と仲良くさせて頂いておりますので。今回はたまたま、この幻燈籠流しに例年参加されている貴族の方からのご紹介ということで、参加させて頂くことができたのです。いや、初めて参加致しましたが、思っていた以上に素晴らしい催しですね。さすがは錬金術大国ギルガルドです。私などでは到底手が届かないお品だと判っていても、是非譲って頂きたいと思ってしまう」
「ははは、デイガー殿ほどのお方が何を仰る。貴殿ならば、手が届かないということはありますまい」
にこやかに言葉を交わしているが、男は少年を背で隠すようにしたままで、それをやめる様子はない。ほんの少しだけそれを不思議に思った少年だったが、話を聞く限りデイガーと呼ばれる人物は高貴な人のようだったし、そんな相手にみすぼらしい自分を見られるのは嫌なのだろう、と納得してしまった。結局この男の地位も高そうな様子だったし、薄汚い自分を知り合いだとは思われたくないという気持ちはとても良く判る。自分がどうしようもなく汚くて価値がない存在であることくらい、少年自身が一番良く知っているのだ。
気づけば、先程まで抱いていた高揚感は今や見る影もなく、少年はとても沈んだ気持ちになった。と言っても、己の価値については嘘偽りなく常日頃から認識していたので、今のこれは、折角良い気分で美しいものを眺めていたのに一気に現実に引き戻されてしまったことに対する憂いだろう。
「しかし、驚いたと言えば、貴方がここにいらっしゃることこそ驚きです。幻燈籠流しと言えば、ギルガルド国内の貴族でも参加できる者は僅からしいではないですか。そんな祭に他国の人間であるロストさんがご参加されているとなると、やはり貴方の正体が気になるところですね」
にこりと親しげな笑みを浮かべたデイガーに、男も微笑みを返す。
「私は本当に大した人間ではありませんよ。今の雇い主がたまたまそれなりの地位にいらっしゃる方だというだけです」
「それなりの地位、くらいでは、傭兵である貴方がこの場に立つことは難しいのではないでしょうか? ああいえ、貴方を貶める意図はないのです。ご気分を悪くさせてしまったら申し訳ない」
「いやいや、仰りたいことは判りますとも。しかしながら、これ以上雇い主についての情報を喋るわけにはいきませんので、このあたりでご勘弁願いたい」
男がやんわりとそう言えば、デイガーは、これは失礼を致しました、と詫びるように軽く頭を下げてよこした。しかし、すぐに顔を上げて、今度は男の身体を透かすように、見えない筈のその後ろへと視線を投げる。
「ところで、ロストさんの後ろにいらっしゃるそちらのお方は?」
男の背に隠されたままぼんやりとしていた少年は、急に自分が話題に上がったことに驚いて、びくりと肩を揺らした。と、後ろ手に男の手が伸びてきて、少年は腕を掴まれた。急なことに、他者との接触が極端に苦手な少年は先程よりも大きく肩をびくつかせたが、男が掴んだ腕を離す様子はなく、寧ろしっかりとした力で引き寄せられてしまう。体格差も相まってか逆らうこともできず、男の背にぶつかるようにして押し付けられると、癖毛が頬を擽る感触と同時に、触れたところから男の高い体温が伝わってきた。慣れない他人の温度に酷く居心地が悪い気分になった少年は思わず顔を上げたが、当然ながら見えるのはくすんだ炎のような髪の毛ばかりで、何を察することもできない。と、そこでふと少年は疑問に思う。
(あれ? この人の髪の色なんて、初めて見えた気がするけど……)
こんな赤茶けた色をしているんだな、と思いつつ何度か瞬きをすると、不思議なことに先程まで知覚できていた色彩はすっかり失せ、また薄曇りに覆われたように何も判らなくなってしまった。まるで、霞が一瞬だけ風で吹き飛ばされたようだ。多少は不思議に思った少年であったが、特別気になるということもなかったので、それ以上思考することはなかった。
「この国に来てから知り合った友人ですよ。少々人見知りらしく、未だに私にすら慣れてくれないのが残念ですが」
「なるほど。しかし、ロストさんはそちらの方を随分気に入られているご様子だ。そんなに警戒しなくとも、捕って喰べたりなど致しませんのに」
「いや、本当に人見知りな子でしてな。デイガー殿のような物腰柔らかなお方であれ、初対面の人間に対してはどうしても怯えてしまう」
確かに少年は人見知りであるし、初対面どうこう関係なく他人と関わるのを好むタイプではなかったが、では他者に対してそうしょっちゅう怯えるかというとそんなこともなく、仮に怯えるようなことがあったとしても、それを悟らせない程度には表情を作るのに長けていた。故に、男の言葉が嘘であることは少年にも判った。勿論、何故ここで嘘をつく必要があったのかまでは判らなかったが。
心底居心地の悪いこの状況をどうすべきかと考えていた少年だったが、いつの間にか背中に回っていた大きな掌に、宥めるようにぽんぽんと背を叩かれ、接触を好まない彼はますます気分の悪い思いをするのだった。
だがまあ、一応ある程度の空気くらいは読める。恐らくこの場は黙っていた方が良いのだろう、と口を引き結んでいれば、それを察したのか、元々大して強くはなかった男の拘束は緩んだ。
「うーん、残念です。ロストさんが気に掛ける相手なのでしたら、ぜひご挨拶をと思ったのですが」
「大変申し訳ないが、またの機会ということで勘弁して頂けないか? この子とはまだまだ交流途中でしてな。互いにもう少し打ち解けてからで良ければ、今度は二人でバーに伺いますので」
「それなら仕方がないですね。でも、約束ですよ? お待ちしておりますからね」
「勿論。私もまたそちらで遊ばせて頂けるのを楽しみにしていますよ」
何を勝手な約束を取り付けてくれてるんだこの男は、と思いはしたが、今さら口を出すわけにもいかないので大人しく黙っていることにする。
その後、二言三言交わしてからデイガーが去っていき、その背中が人に紛れて見えなくなったあたりで、ようやく少年は男の拘束から解放された。すぐさまその背中から離れれば、振り返った男が申し訳なさそうな顔で少年を見下げてきた。
「すまない。苦しかったか?」
「いえ……」
苦しくはなかったけれど気分は最悪でした、と言う訳にもいかず、いつもの微笑みを貼り付けておけば、それならば良かったと言って男は微笑み返してきた。
「ところで、あの、さっきの方は……?」
「例の、私が最近出入りしている先のオーナーで、デイガー・エインツ・リーヒェン殿だ。歳はまだ二十そこそこだろうが、それでオーナーの地位にあるのだから、中々のやり手だぞ」
「はあ」
言葉をぼかしてはいるが、詰まるところ違法カジノのオーナーということか、と少年は察した。まあ察したところでどうということはないし、自分に関係のある話でもないのでどうでも良かったが。
なんにせよようやく居心地の悪い状況から解放されたのだからと、さっさと幻を眺める作業に戻ることにする。魔術が魅せる美しい芸術品たちは沈みかけていた気持ちを浮上させるには十分で、結局彼は、今日の祭が終わりを迎える時まで飽きることなく空を見上げていたのだった。
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