煌炎 6

 目を開いた少年は一瞬、何が起きたのか理解できなかった。だが直後、先ほどまでそこにはなかったはずの何かよく判らない汚泥のようなものや、赤を纏って宙空を飛んでいる何かが見えることと、見慣れた黒い布切れが視界の端へ消えていくのを認め、目に見えてざぁっと青褪める。

 普段ならば見えない何かが見えるという事実が、己の右目が晒されてしまっているという状況を彼の頭に叩き込んできたのだ。

 今しがた、誰かの腕だか手だかが少年の頭を打ったときに、同時に眼帯を攫っていってしまったのだろう。慌てて視界から消えた布きれを探して地面に視線を落とすも、見えるのは忙しなく動く人々の足ばかりで、どこにあるのか見当もつかない。

 誰も気にしない。そもそもこの状況では、そんなものが落ちていることに気づく人間などいないだろう。少年の身体はそうしている間にも流され、眼帯を失くした場所から離れていく。

 もしかすれば死ぬかもしれない、という事態に、普通ならば放っておけばいい話だ。命はひとつだが、眼帯なんて後でいくらでも買える。押されるまま流されるまま、出口を目指してしまえばいい。だが、

「――――ッ!」

 許容範囲を越えた怖気に、しかし悲鳴は声にならず、その喉は引き攣り痛むばかりだった。

 状況の理解が及んだ次の瞬間、少年は長い前髪と片手で咄嗟に右目を隠し、無理矢理に人の流れに逆らいだした。

 それは濁流を遡るようなものである。今まで以上に腕が、足が、少年を強く打ち、邪魔な少年に対し、向かってくる視線はどれもこれもいっそ敵意すら孕んでいて、常の少年であれば貼りつけた笑みの下で酷く怯えてしまっていたことだろう。けれど今の少年にはどれもが目に入らない。そんなものよりももっと恐ろしい恐怖が全身を脅かしていて、それから逃げるためにただただ人の群れをもがくように泳ぐ。大切に抱えていた染料の入った袋を落とし、それが数多の人間に踏みにじられようとも、最早少年の意識の外だった。

 心臓は胸を突き破ってきそうなくらいに早鐘を打ってぎりぎりと痛み、邪魔者をどかそうとする人々に右腕を弾かれるたび、目を隠す手が外れてしまいそうで、喉元まで吐潟物がせり上がってきた。勝手に打ち合わされてしまう歯はがちがちと音を立て、人混みにもまれた拍子に切ってしまった口内には、鈍い血の味が滲む。

 流されまいと抗い、前へ前へという気持ちとは裏腹に、身体は思うように進んでくれはしなかった。奥に追いやられないようにするのが精一杯で、進めたかと思えば押し返される。それでも少年は止まらない。止まることなどできるわけもない。

 そうして幾度蹴られ殴られたことだろう。急に周囲が広くなった少年は、ようやっと思うまま前に走ることができた。先程眼帯を落とした場所まで辿り着いてしまえば、目的の物は思っていたよりも簡単に見つけられた。明かりの乏しい空間に暗い色の眼帯は沈んでいて、溶けてなくなってしまうのではないかという恐怖に駆られ、走り寄った少年は殆ど転ぶようにして手に掴んだ。床に打ち付けられた膝だけでなく、全身いたるところに痛みがあるが、それより何より安堵が勝る。

 踏みにじられ倒した布は随分と酷い有様になってしまっていたが、右目を隠すくらいの役目は果たしてくれるだろう。

「…………よかった……」

 ぎゅうと目を瞑って、殆ど吐息のような声でそう呟き、震える手がくたびれきった眼帯を宝物でも抱えるかのように握り締める。

 早く目を隠さなければ。深い安堵と未だ残る恐怖に身を沈めている少年は、それにばかり気を取られ、己の置かれた現状に、取り巻く周囲に何ひとつ意識がいっていなかった。変に静けさのある空間にも、己の口の中に滲む以上に強い鉄錆の臭いが近づいていることにも、何ひとつ。

 不意に、質量のある何かが地面に転がる音が耳を掠めた。眼帯に触れている安堵感のまま、何気なしに音のした方に視線をやった少年は、恐怖に見開かれた双眸と目が合った。

 それがなんであるかを認識するのに、瞬き三度ほどは要しただろうか。まるで物のように転がる塊が捩じ切られた人の頭であることを理解するのと、黒い何かがそれを踏み潰すのが、ほぼ同時だった。

 呆然とする少年の前で、飛び散った脳漿やら血液やらが、汚れた地面をさらに汚す。踏まれた拍子に眼窩から飛び出した潰れかけの眼球が、勢いよく少年の頬に当たって落ちた。

 黒い何かは、太い足だった。人間ではない何かの足が、誰かの生首だったものを楽しそうに何度も踏み躙り、げぎゃげぎゃと耳障りな鳴き声が、愉快げな響きを以って空気を揺らした。

 目の前で起こっていることを理解できないままに、上の方から降ってくる声につられて、少年はほとんど反射的に顔を上げた。

 少年の視線の先に広がっていた光景は、死、そのものだった。

 鋭い牙の並んだ大口を開けて、そこから不愉快な声を撒き散らしながら、巨大な鎌のような右腕を赤黒いもので染め上げていた。僅かに残っている店の明かりに、鉄臭いそれが夥しい量の血液なのだと知れる。一体何人を斬り殺してきたのか、少年の胴より太い左腕の、その先の手に掴まれ幾つもぶら下がる人間だったものの残骸は、右腕の餌食になった人々なのだろう。ならば、巨木の幹のような胴体に絡みついている、吐き気さえする醜悪な汚泥もどきは、殺されたものたちの怨念かもしれない。左目には映らないということは、きっとそういうことだ。

(――にげ、ない、と)

 他の人々はもうとっくに逃げてしまっている。周囲に人影はなく、あるのはただの肉塊だけ。強固な遮蔽物もなく、自ら群集より孤立した少年は、まったく絶好の獲物としか言いようがない。

 血のような色の一つ目を厭らしく細めた死が、こてんと首を傾げた。ああ、これは捕食者の目だ。嗜虐者の瞳だ。よく向けられた、見慣れた眼差しだった。

 逃げなければと、そう思うのに身体が思考についていかない。根でも生えてしまったかのようだ。逃げることはおろか、立ち上がることすらできない。

 ゆっくりとした動作は、獲物に見せつけるためだろうか。もったいぶった動きで首の位置を戻すと、血に濡れた右腕を振り上げていく。それが視界に入っているのに、少年は動けない。

 目の前の死は嗤っている。獲物の恐怖を啜って、可笑しそうに口を三日月に曲げて愉しんでいる。逃げなければ。死んではいけない。逃げて生きなければ。死を許容するわけにはいかないのだ。それは本能だろうか、それとも別の何かだっただろうか。少年にそれを判別する術はなかったけれど、身体の奥底で何かが強くそう命じている。

 それでも尚、彼の身体は凍りついたままだった。ああ、駄目だ。これでは駄目だ。凶器が高くに掲げられていく。これでは死んでしまう、殺されてしまう。逃げられない。僕では逃げられない。僕では何ひとつできない。だから、

 恐れと怯えで彩られた顔が、不意に色を失った。

 潮が引いていくように表情が消え失せた少年の、纏う雰囲気がにわかに変わる。水分を多く含む瞳が急速に乾き、カッと音がしそうなほどに開いた瞳孔に、先程とはまったく別の色が乗った。

 つい数瞬前までは、彼は確かに嬲られ屠られるのを待つだけの虫だったはずだ。だがこの瞬間、それは急激な変化を見せた。それが一体どういう変化なのかを判ずるには余りにも短い時間。しかし、纏う空気を変え、腕を振り上げた少年に、前に立つ魔物は何を感じたのか。獲物の反応を愉しむための動きが、不意に仕留めるためのそれになり、高く掲げられた刃が勢いよく少年に振り下ろされる――そのはずであった。

 突如、割り込むようにして、凄まじい勢いで燃え盛る炎が横切った。

 魔物を浚い焼き尽くしていく炎に、耳を塞ぎたくなるような醜い断末魔が響く。魔物を骨まで焼いてもなお猛り狂う豪炎は、少年の顔を熱気で焼きながら、その黒髪を吹き散らした。

 永遠に続くかとすら思えた金属質な悲鳴は、しかし圧倒的な業火の前に灰と化した。すると、危うげに変質した少年の雰囲気が、まるで炎に焼き消されたかのように元のものへと戻っていく。そして、中途半端に片手を上げたまま、少年は再び硬直してしまった。そんな彼の黒髪を、なおも熱風が散らす。そのせいで覆い隠すものがなくなった右目が、熱気を孕んだ空気に惜しげなく晒された。

 それは、疑いようもなく、異形の目だった。

 左目は、確かに人間のそれだ。白くあるべき場所が白く、虹彩が黒い。だが、彼の右目はそうではなかった。左目と同じであったならば白くあるべき部分が黒に染まり、その虹彩も、およそ人にはあり得ない怪しい月のような金色をしている。

 そんな人ならざる右目を持つ少年の前に、大きな背中が立ちふさがる。魔物との間に、まるで少年を守るように立つその背には、燃える炎そのもののように紅蓮に輝く長髪が揺れていた。比喩ではない。少年の目には、本当に炎のように光を放っているように見えたのだ。触れれば焼かれてしまいそうな、そんな赤色だ。

 火の髪の持ち主の周囲を、小人のような赤い何かが踊るように駆け回り跳ね飛んで、その度にぱちりぱちりと鮮やかな火の手が上がる。瞬きの間も惜しいほどに眼前のそれを見つめる少年の顔はどこか恍惚として、爆ぜる炎に照らされていた。

「大丈夫か、店主殿!」

 声と共に、燃えるような髪の男が振り返る。もしその声が少年の耳に入っていたならば、それに聞き覚えがあることに気づいたかもしれない。だが、今の少年の耳は音など認識していなかった。

 振り返った男と、目が合った。それだけが全てだった。

 それは焔だ。周囲を飛ぶ赤や、燃える髪などとは比べ物にならないような、比べるのもおこがましいほどの、煌炎である。太陽を溶かし込んだような金色の瞳の中に、圧倒的な熱量を湛え何もかもを灰燼と帰すような、鮮やかに燃え盛る焔が揺れている。

 己を見つめ返す焔の瞳を認識した瞬間に、少年に意識の全てはそれに囚われた。焦げ臭い血の臭い、荒れた夜市の惨状、未だどこかで響く助けを呼ぶ声、身の毛がよだつ魔物の咆哮。そういった、ありとあらゆる無駄なものが、少年の意識から剥離する。削げ落ち剥げて、何も残らない。ただ目の前で煌めく炎以外には、何一つ。

 少年はただひたすらに、すべてを忘れて、瞳の中の煌炎に見惚れていた。

 ――――ああ、なんて美しい。

「…………ぃ……」

 意図せずこぼれた言葉は、誰に聞かせるためのものでもない。だが、少年の呟きを拾えなかったことを良しとしなかったらしい男は、小さく首を傾げた。

「今なんと?」

 聞こえなかった、と膝を折って顔を寄せてきた男の声は、勿論届いていない。だが、至近距離まで近づいた焔の瞳に、少年は一層とろりとした表情をしてしまう。

「…………きれい……」

 それはまるで、絶頂を迎えた娘の甘くとろけきった嬌声のようだった。金の瞳を見つめ、この世でこれ以上に美しいものなど存在しないとでもいうかのように紡がれた言葉に、数拍遅れて、男の目が大きく見開かれる。

 途端、少年の目に映る紅蓮がぶわりと輝きを増した。思わず目を細めてしまいそうになるほどの光量が溢れ、男の髪が、瞳が、辺り一帯を灼き尽くしてしまいそうなくらいに爛々と輝く。至近距離でそれを見るや否や、そのあまりの美しさにとうとう脳が処理をしきれなくなり、電池が切れるように、少年は意識を手放してしまった。

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