幕間 揺り籠の魂

 壁の向こう、揺り籠の中。穏やかな子守唄に満たされ、瞼を押し上げることすらない、恒久の安息所。そこではあらゆる音が止み、風が止み、雨が止み、そして陽の光すら止んでしまう。絶対にして自愛の牢獄。生物の本能が形取る、究極の箱庭。この揺り籠で眠る限り、『彼』の瞼が開くことはなく、産声すら紡いだことのない魂が晒されることはない。『彼』は、生まれ落ちると同時に母親の胎内に引きずり戻された胎児そのものだ。だがしかし、すでに誕生した命が胎児に戻り得ることはなく、故に、『彼』は箱庭に在り、己が死ぬそのときまで、眠りから覚めることはない。

 目覚めは危険だ。外は忌避すべき場所だ。『彼』の魂は、晒されたその瞬間から、己が身を焼き尽くしてしまうだろう。『彼』が生きるには、この器はあまりにも脆いのだ。だから、『彼』は『自ら』望んだ。魂の奥の奥。生物が等しく持つべき、正しい本能。それに従い、ただ、生きたいと。幼すぎる願いは、しかしそれと片づけるには余りにも強く、いっそ呪いじみた何かを伴って『彼』をこの牢獄へと招き入れた。

 だが『彼』がそれを厭うことはない。『彼』は目覚めないのだから。ただ、母親の腕に抱かれた幼子のような甘さで、微睡みたゆたうだけなのだから。

 そこは幾重もの強固な壁に覆われた箱庭だ。『彼』のためだけに創られた牢獄だ。彼の命を繋ぎ止めてくれる、希望そのものだ。誰の声も届かず、何者にも触れられない、ただ眠り続けるためだけの場所。一度だけ、閉ざされた目が僅かな覚醒の予感を示したこともあったけれど、それでも『彼』は目覚めなかった。僅かばかりの寝言は零したかもしれないけれど、それだけだ。

 だと言うのに、

 何の前触れもなく、揺り籠が強く揺すられた。幾重にも重なる壁が凄まじい音を伴って叩かれ、穏やかだった空気を震わせ残響が溢れ返る。

 それは紛れもない騒音で、しかし同時に、天上の歌声のようだった。目を開けるまいとする『彼』の本能を揺るがせ、優しく、強く、その眠りからの覚醒を誘う、至高の音色だった。

 ぱきり、と、小さな音が鼓膜を震わせる。本当に僅かなそれに、永久に閉ざされるべきその瞼が、伸びる炎色の睫毛が、まるで産声を上げるように、小さくふるりと震えた。優しく甘い音の羅列が『彼』の頬を撫で、そしてとうとう、蛹の殻を破った蝶が震える羽を広げるように、その両の瞼は、開かれてしまう。

 炎を一杯に湛えた金色の双眸が初めて晒され、そして『彼』は見てしまった。『己』を囲う壁に開いたひび割れの隙間から零れる、暖かな陽を。

 それは、手が届かないほど高くに開いた、本当に僅かなひびだ。けれど、『彼』の瞳はそれを認め、そして細く射し込む陽の光をその身に受けてしまった。


 ああ、なんて暖かい。


 そうあるべき時にそうあるようにと用意されたものではなく、間違いなく、魂から零れた感嘆。壁の向こうで生産された偽りとは異なる、正真正銘心からの感情。何を置いてでも誕生を阻むべき心が、ほんの僅かとはいえ、零れ落ちてしまった。そして、一度表に出てきてしまったそれは、真新しい亀裂の隙間をすり抜け、偽りに紛れて晒される運命にある。柔い陽の光に溶け出した本当は、微かだが確かに彼の全身を駆け、生まれ落ちた事実に喜び打ち震えた。

 穏やかな光に滲む暖かさと甘さの正体を、きっと彼は知らない。彼には作り物しか与えられないから。だが、『彼』は知っている。故に、壁の向こうへと浸透する真実は。虚構の中にあって輝くひと欠片は。彼にそれを伝えるのだ。


『…………きれい……』


 強固な殻を破って突き刺さる光は、炎を纏う魂の一番深いところに、癒えることのない傷を刻み付けるようだった。

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